345  教師
 今回のテーマは「教育」にしようかと思いましたが、それでは余りにもビッグなので、本来は項目分けすべきだと思いますが、10月19日(土)の盛岡での岩手大学創立70周年記念行事で、芥川賞作家・若竹千佐子さんの話を聞きましたので、それを紹介します。

■ 岩手大学創立70周年記念行事に出席
 国立大学法人岩手大学創立70周年記念講演会と記念式典、そして祝賀会が10月19日(土)行われ、盛岡に行ってまいりました。経営協議会委員としては当然の責務です。
 当日朝の埼玉県ふじみ野市は、夜半からの強い雨がまだ降り続いている中、朝5時半の電車に乗りました。大宮から東北新幹線に乗れば、盛岡はすぐです。午前中に別の行事に顔を出しました。この日は岩手大学の学園祭である「不来方祭」でしたが、埼玉から雨を連れて行った形でキャンパスは強い雨、学生がテント下で、焼きソバやチジミ、焼き鳥、その他いろいろなものを作り、販売して「いかがですか〜」と呼び込みしていましたが、この雨では買っても食べるところがありません。昼に大学生協の食堂でランチしました。いろいろな大学の学生食堂でランチしましたが、東大の本郷キャンパスの中央食堂は一時とても味が良かったのに、ある時期からそうでなくなりました。業者が替わったんですね。学生食堂はどこも安いのですが、一番無難なのはカレー類です。そこで、岩手大学中央食堂では「カツカレー」普通盛りを注文しました。学生は大盛りでないと持たないでしょうね。ナント!¥418でした。安いし、美味しかった!食後コーヒーを飲みました。

■ 記念講演は若竹千佐子さん
 記念講演は「おらおらでひとりいぐも」で第158回芥川賞を受賞した若竹千佐子さんでした。この方は岩手大学教育学部卒業で、農学部の前身である盛岡高等農林学校を卒業した宮沢賢治の詩「永訣の朝」の一節をタイトルとした作品で、第54回文藝賞に引き続く受賞でした。このニュースは 254『大寒』(2018年1月21日)で紹介しましたが、前年の第157回芥川賞受賞作は沼田真佑さんの『影裏(えいり)』でした。沼田さんは、盛岡駅から岩手大学へ歩いて行く途中にある予備校の講師でした。 300『影裏』(2018年12月9日)参照
 若竹千佐子さんの講演は、同大教育学部の今野日出晴教授との対談形式で進められました。「講演会」という形ではなく、質問に答える形のほうが良いという本人の希望だったそうです。「おらはおらにしたがう〜自己決定権を持つ生き方」という題名が掲示されていました。
 若竹千佐子さんは岩手県遠野市出身で、現在は千葉県木更津市在住です。遠野の上郷というところに生まれ、三人きょうだいの末っ子でした。岩手県立釜石南高等学校を経て、岩手大学教育学部を卒業しました。姉とは5歳、兄とは7歳と年が離れていることもあり、祖母はもちろん、祖父にも両親にもすごく可愛がられて「めごい子だ」、「さがしい子だ」と言われて育ったそうです。「かわいい子だ」、「利口な子だ」という意味ですね。そのおかげで、自己肯定感が強い人間になれたように思う、とのことでした。子供の頃から大学卒業までのエピソードをまじえながらのお話でした。
 小学校のときの想い出として、自分の身を差し出して他人を助けると言う物語を学級の皆で読み、その感想を語り合う授業があったそうです。みんなその子は立派だという感想でした。授業の最後に先生は、「自分を犠牲にして他人に尽くすって、本当にいいことなんでしょうか?」と疑問形で終えられました。答えは無く、生徒たちに投げかける終わり方でした。千佐子さんは、ずっと考えていたそうです。そして、「自分で考えて、自分で決める」ことを先生は言いたかったんだというように自分を納得させたそうです。

           岩手大学創立70周年記念講演会と記念式典のポスター


 左:岩手大学教育学部・今野日出晴教授  右:若竹千佐子さん

■ 落ち続けた教員試験
 岩手大在学中の思い出としては、ゼミやサークルの仲間との活動や、教員採用試験に合格できなかったこと、卒業論文を褒められたことなどを紹介されました。「大学の4年間で、自分の価値観の基礎ができた。教員になれなかったから、小説家になれた」という感想でした。こどもの頃から褒められて育った千佐子さんですが、体がデカイことはイヤだったそうです。縦も横も同年のこどもと比べて一回りデカイのがイヤでした。大学在学中に東京や千葉や、もちろん岩手も教員採用試験を受けてすべて落ちたそうです。1970年代の教員採用試験の競争率は今より高かったのです。そんなに成績が悪いはずはないのに何故だ?と悩んだそうです。
 仕方なく千佐子さんは臨時採用教員として働きました。産休や病欠教員の出た学校に派遣されます。折角こどもたちと仲良くなれて、さあこれからだ、というときに「ご苦労様」と言われてしまいます。大学まで行かせて貰って、期待してくれた祖父母や両親に申し訳なくて、人生で初めて味わう挫折でした。「臨採」の間も教員採用試験を受け続けますが合格できません。辛い5年間だったでしょう。「いったい教育委員会は何を見ているんだ!」と怒りが湧いてきたそうです。

■ やがて専業主婦になり夫と死別
 やがて千佐子さんは臨時教員を経て専業主婦となります。55歳のときに最愛の夫に先立たれ、悲しみに沈む日々が訪れます。気遣った長男からのすすめをきっかけに、早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校の講座「小説教室入門」に通うようになりました。苦節8年?いやそうでもなかったかもしれません。「山を一歩一歩登るように、一字一字、地道に書き続けることをエクステンションセンターで教わりました。苦しい作業ではありますが、同時に書くことの喜びを感じる瞬間でもあります。何もないところから頭の中のものを文字にしていくことは楽しい。行き詰まった時、こうだと見つけた喜びは何物にも代えがたい。それで続けられた」とご本人は言います。

■ 初の作品が文藝賞、そして芥川賞と連続受賞
 日本における新人作家の登竜門とされる「文藝賞」の第54回受賞作は、2017年8月に行われた選考会の結果、若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」に決定しました。文藝賞受賞者としては歴代最年長です。更に翌2018年、同作で第158回芥川賞を受賞しました。黒田夏子さんに次いで芥川賞史上2番目の高齢受賞でした。受賞作のタイトルは宮沢賢治の詩「永訣の朝」の一節からとられています。同時受賞の石井遊佳さんも、早稲田大学エクステンションセンターの小説講座の講師・根本昌夫さんが講師を務める別の小説教室の受講生でした→早稲田大学
 受賞作の主人公は、74歳のひとり暮らしの桃子さんです。1964年に故郷・岩手を飛び出し、東京に出て懸命に働き、結婚をし、二人の子どもを育て上げました。誠実に生きてきたはずの人生でしたが、15年前に夫・周造とは死別、子供とは疎遠な日常です。40年来住み慣れた都市近郊の新興住宅地で、ひとり茶をすすり、ねずみの音に耳をすます桃子さん。桃子さんの中には、東北弁の声がいくつも湧きあがるのです。
 ”あいやぁ、おらの頭このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが/どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如にすべがぁ/何如にもかじょにもしかたながっぺぇ/てしたごどねでば、なにそれぐれ/だいじょぶだ、おめには、おらがついでっから/…”
 桃子さんは最初からこうだったわけではありません。東北弁はむしろ封印して暮らしてきました。ところが、ひとり暮らしを続けるうちに・・・”いつの間にか東北弁でものを考えている。晩げなのおかずは何にすべから、おらどはいったい何者だべ、まで卑近も抽象も、たまげだごとにこの頃は全部東北弁でなのだ”・・・という状態になり、しかも”おらの心の内側で誰かがおらに話しかけてくる。東北弁で。それも一人や二人ではね、大勢の人がいる”...

河出書房新社(2017)
1200円+税

■ 質疑応答で千佐子さんは
 会場での質疑応答で、千佐子さんは「自分の幸せは自分で決めるもの。私が教員になっていたら小説など書くヒマはなかったでしょう。ましてや芥川賞なんて思いも及びません。他人にどうこう言われる筋合いは無い」と強い言葉で語りました。「今ダイバーシティとかが叫ばれ、岩手大学でも女性の積極的登用などを進めていますが、北東北の女性は奥ゆかしいというか、あまり積極的に前に出て来ないような気がしますが、この点についてはどうお考えですか?」という質問に対しては、「日本はまだまだ男社会、女は後ろから付いて来いという社会です。和を以て貴しとなすという言葉は、言い換えれば強いものの意見に従えということ。自分の考えが正しいと思ったら、主張することが男女問わず必要です。自分のことを決めるのは自分であるべきです」とのことでした。若者に対しては「自分の子供を見ても、私たちが若い頃に比べて社会や政治に関心が無い、世の中を変えてやるというエネルギーに乏しい。もっと主張し、行動すべきだ」と訴えました。女学生から「私は本を読むのが好きですが、先生もそうでしたか」という質問には、「好きでしたよ。でも、すぐに結果を求めてはいけません。本を読んだから次の日に人が変わるわけではないし、その人の中で醸成し発酵する時間が必要です。10年経てば読んだ中味も忘れます。今が自分の最終形ではありません。じっくりと育てていくことが大事です」との答えでした。

■ 田舎言葉は大事
 芥川賞受賞作「おらおらでひとりいぐも」では、方言が重要な役割を果たしています。このことについて「私は遠野弁と標準語の立派なバイリンガルです。上京して、標準語の世界に浸ると、田舎の言葉は使わなくなります。世代が代って、どんどん方言は使われなくなっています。でも例えば『むじょい』という言葉を標準語に置き換えようとしても、どうしてもあのおじいさん、おばあさんたちが使っていたニュアンスが伝わりません。言葉が二つあると、それだけで厚みになります。生活感のある言葉が廃れることはもったいないので、学生の皆さんには自分の生まれ育った土地の言葉を使ってほしい」と呼び掛けました。この言葉については317『むじょけ』(2019年4月9日)を参照下さい。鹿児島で「むじょい」と言えば「かわいい」という意味です。東北と九州で似た言葉が残っているのは、京都言葉が地方へ伝播していって、京都では廃れたけれど地方に残っているのだ、と柳田国男が言っています。ムゾイという系統の言葉は、無情から発しているのでしょう。

■ これからの千佐子さんは
 対談の締めくくりに岩手大学・今野日出晴教授は、「若竹さんの次の作品に期待していますが、次はどんな小説ですか」という質問に対して、言葉をくぐもらせながら「玄冬小説を書きます」とはっきりおっしゃいました。「春夏秋冬を色で表すと、春は青、夏は赤、秋は白、冬は黒ですね。人生を青春、朱夏、白秋、玄冬に分けるとしたら、その最後のステージが玄冬です。玄冬小説というのは私が生み出した言葉ではありませんが...」。玄冬小説という言葉は初めて知りました。青春小説の対極で「歳をとるのも悪くない、と思える小説」とのことです。人の世の奥深い道理も長く生きてみないと気づき得ないのかもしれませんね。高齢化社会になり、桃子さんみたいな人が増えています。男もそうです。内館牧子さんの『終わった人』も盛岡から上京してエリートとして出世しながら、最後は子会社で会社人生を終える、お金はたくさんあるけれど、友達はいない、どうしよう...男も女もそういう人が南関東近辺にいっぱいいて老人になっているのです。今更田舎には戻れない、でも田舎とは繋がっていたい、「拡大コミュニティ」を求めているのです。これについてもいずれ触れましょう。

■ 教師の資質
 若竹千佐子さんが教師になれなかったのは、当時の競争率が高かったこともあるでしょう。岩手大学教育学部卒業ならば、通常なら有利なはずです。しかし教育委員会が求める教師像は時代と共に変わります。当時の教育委員会は千佐子さんのようなハッキリものを言う人は求めなかったのかもしれませんね。バブルの頃は民間の給与が高く、先生のなり手が少なかったのですが、崩壊後は逆に教員志望がグンと上がりました。今は団塊の世代が大量に退職したため、その補充のために競争率が低くなっています。神戸市立東須磨小学校で教師間いじめ事件が起きて、教師の資質が問題化していますが、いま学校現場では教員の評価によって差別化が進んでいます。これは文科省の方針です。民間のサラリーマンは評価によって給料も変わりますが、これは利益追求の企業にとって、いかに稼いだかが大事なので当然のことです。しかし教育に携わる教師を同列に扱って良いのでしょうか。教員と言うのは実はかなりブラックな職場に身を置いていることが最近わかってきたことも競争率が低くなってきた要因のようです。若竹千佐子さんが小学校から大学まで、いろいろな先生に教えられたことが自分の根幹を作ってきたと語られたように、教育は何よりも大切で、それを担う教師と言うものはこどもたちにとってとても影響力が強い存在です。評価によって格差を付けられる先生が、こどもたちにどういう生き方を教えるか、何か不安と疑問を感じますね。
(2019年10月23日)


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