2018年8月27日(月)夜は久し振りの雷雨でした。前日の26日(日)は朝から埼玉県毛呂山町で少年野球の試合、物凄い暑さ、朝8時にして既に直射日光は肌を刺すように痛い、その前日25日(土)も小学校のグラウンドに居て、さすがに夜は熱中症症状になりました。26日(日)夕方、少年野球の秋季大会の抽選会に自転車で出掛ける道すがら、北東方向に大きな「かなとこ雲」が見えて、その中でピカピカと稲妻が発生していました。方向からして栃木県方面でしょうが、エリンギみたいな形の雲です。成層圏で遮られて、上が平らになって横にはみ出る、昔鍛冶屋さんでふいごで炭をおこし、真っ赤になった鉄を金床に載せてトンテンカン、トンテンカンと叩いて成形したものですが、その金床の形です。現代では金床なんて見たことないでしょうから、「エリンギ雲」と言ったほうが子どもたちには分かりやすいでしょう。 ■ 終活について考えさせられた かつて会社で上司だった方が急逝されたとの知らせがありました。それも死亡された10日後、大動脈乖離で奥様が帰宅されたら亡くなっていたとのことで、奥様は余りのショックに、葬儀等済ませて、呆然として日々過ごしながら、気を取り直して総務部へ連絡されたようです。198『家族葬』(2016年12月23日)でも同じような先輩の訃報について触れましたが、このときも家族葬でした。お二人は、我が先代、先々代の社長でした。自分もどうしようかと、終活について考えさせられました。 ■ 矢部太郎さん
■ 大家さんと僕 『大家さんと僕』は、大家のおばあさんと、トホホな芸人の「僕」との、あたたかくも切ない交流の日々を描いた実話漫画です。大家さんは作中で45年の終戦時に17歳だったという記述があります。今戦後73年ですから90歳?恐らく当時、数え年17歳だったのでしょう。多感な時期に戦争を経験した大家さんからは、次から次に戦争にまつわる話を聞いたそうです。そんな中で、矢部太郎さんは戦争世代の日々と、その悲惨さを改めて思い知ったと言います。平和への願いから『”大家さんと僕“でも戦争について触れなきゃ!』と考えたそうです。大家さんの故郷である鹿児島の知覧に、死ぬ前に一度は行きたいと言われたので、矢部太郎さんは大家さんを伴って二人で旅しました。 ■ 8月が好きだった大家さんが亡くなった 矢部太郎さんは8月23日、自身のTwitterを更新し、”大家さん”が亡くなったと報告しました。「もっと話したかったし、聞きたいこともたくさんありました」とその悲痛ぶりを語り、「大家さんは8月が一番好きだと言っていました」として、理由についてこう明かしています。「理由は戦争の番組をたくさんやってくれるから。そして、大切な人達は戦争に取られたくないとおっしゃいました」。続けて「僕にとっても8月は特別な月になりました」と、訃報を結びました。大家さんとの暮らしは、戦争について考えるキッカケとなりました。8月15日の終戦記念日に矢部太郎さんはTwitterで「8月15日、忘れられない一言です」とつぶやき、「矢部さんは 戦争にとられたくない」という大家さんの言葉をイラストつきで紹介しました。 ■ 水害や火山災害、それでも生きて行く 今夏も各地で水害が起きました。200人を超える人命を奪った西日本の歴史的豪雨、中でも岡山県倉敷市真備町は大変でした。また愛媛県肱川(ひじかわ)のすさまじい氾濫は、上流のダムの放流が原因だったのではないかと物議を醸しています。肱川を流れる水は、野村ダムから西予市に流れ込み、鹿野川ダムを経由して大洲市に下りますが、今回の水害で、西予市では5人、大洲市では4人の死者を出す大きな氾濫が起こりました。伍代夏子も「肱川あらし」を歌えなくなっているのではないでしょうか。尾畑さん(78)が泥の撤去に活躍し、傍らで疲れきった家主が黙々と片付けする姿...大変ヒドイことを言いますが、今はそれで何とか復興しても、二度あることは三度あります。自分が生きている間はともかく、後の世代は同じような被害に会うでしょう。 ■ 島原大変肥後迷惑 筆者が知る限り、恐ろしい火山災害の典型は、島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)です。1792年5月21日(寛政4年4月1日)に肥前国島原(現在の長崎県)で発生した雲仙岳の火山性地震およびその後の眉山の山体崩壊(島原大変)と、それに起因する津波が島原や対岸の肥後国(現在の熊本県)を襲ったこと(肥後迷惑)による災害です。肥前国と肥後国合わせて死者、行方不明者1万5000人という、有史以来日本最大の火山災害です。その後も1991年6月3日16時8分に発生した雲仙普賢岳の火砕流では合わせて43名の死者・行方不明者を出しました。小学校もボロボロに焼けました。それでも人々は復旧・復興して住み続けます。やがて災害の爪跡の記念館や観光施設が出来て、人々はたくましく生きて行きます。 ■ 災害を避けて、移住も選択肢 日本は世界一の災害国だと言われています。31『災害と地震』(2013年9月23日)をご覧下さい。川の近くに住んでいれば氾濫は常に有り得ます。山裾では土砂崩れの危険があります。海辺では津波がやってきます。岩手県雫石町生まれで今は大分県に住む同級生はお盆に鶯宿温泉で会ったとき「九州は良いとこだけど、風水害だけは毎年のことで、こればっかりは...」とぼやいていました。東京では直下型地震が心配ですし、地盤の流動化も心配です。水害に襲われた西日本は、今年はもう一つの「猛暑」を通り越した「酷暑」に悩まされました。今後こうした「酷暑」が当たり前と考えますと、日本全国どこにも安全な地は無いとしても、比較的安全で過ごし易い地へ移り住むことも選択肢です。海、山、川、地盤の強固さ、気温、空気清浄、日照、水質、景色、食べ物、温泉を考えると、岩手県盛岡広域の、山、川からチョット離れた丘が、今後100年最も暮らし易い地域であろうと思います。日本全国、旅して回った経験からそう思うのです。景色では大分県の九重・湯布院地域も素晴らしいけれど、先述のように風水害に毎年悩まされます。274『里山』(2018年6月11日)で紹介した日本総合研究所主席研究員の藻谷浩介さんが、まさに同じことをおっしゃっていました。今は東京圏へどんどん人口が流入していますが、これは「終わりの始まり」の気がしています。石破さんが言うように「本気で地方創生を考えよう」という時機と思います。 ■ 正直・公正〜やぶへび
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