386  イーハトーブ

 ついに関東甲信と東海地方が8月1日梅雨明けしました。2007年以来13年ぶりの8月になってからの遅い梅雨明けですが、観測史上では4番目に遅く、しかもカーッと晴れた青空ではなく、西の空には雲がいっぱい溜まったままのスッキリしない梅雨明けです。8月は蝉の鳴き声とともに戦争の思い出が語られるときです。義兄の一周忌でもあり、仏壇に毎日お線香をそなえています。植物の成長力に呆れ、虫たちの生命力に驚かされます。鉢植えの葉をすっかり食い荒らしたイモムシが、蟻に襲われて引きずられていました。自分の何十倍もの大きさのイモムシを一匹の蟻が引きずる様を見ると、もし蟻が大きくなったら建設機械でもかなわないのではないかと思える凄さです。

■ やんだぐなる・・・53年ぶりの最上川氾濫
 最上川が53年ぶりに氾濫しました。水田に隣接するスイカ畑が冠水したのを見て、「やんだぐなる」=嫌になるとつぶやく女農民の映像を見て、熊本で脱力した人たちの映像を見たときと同様の悲哀を感じました。梅雨前線や低気圧の影響で東北地方では記録的な大雨となり、山形県では7月28日深夜から29日朝にかけて最上川中流の4ヶ所で氾濫が起き、大石田町では出穂直前の水稲約80ヘクタールが冠水被害を受けた他、大江町でも家屋や作業場などに床上浸水の被害が出ました。53年ぶりの氾濫となると、老人でなければ記憶に無いこと、今や日本全国で毎年どこかでこんなことが起きています。

■ 大災害と共に生まれ死す宮澤賢治
 前回紹介した宮澤賢治、普通は宮沢賢治と書かれますが、戸籍上は宮澤が正しいのです。賢治は今でこそ日本の代表的な詩人及び童話作家と言われていますが、これを世に知らしめたのは弟の清六さんです。宮澤清六さんも我が高校の先輩ですが、2001年に享年97歳で亡くなられるまで、8歳上の兄賢治の作品やその人となりを紹介することに情熱を注がれました。いかに兄賢治の良き理解者であったかがわかります。清六さんは賢治が、1896年6月15日の明治三陸地震津波の後の8月27日に生まれ、1933年3月3日の昭和三陸地震津波の後の9月21日に逝去したことが、大災害と共に生まれ、大災害の後に死去するという因縁のようなものを感ずると生前述べられていました。

■ イーハトーブの風景地
 賢治の作品には、岩手県の独特の風土を表す自然の風景地が多く登場します。それらを賢治は理想の大地として「イーハトーブ」と名付けました。賢治ファンは全国各地から岩手を訪れて、今もなお美しい風景を伝えるイーハトーブを巡ります。文部科学省は、宮澤賢治の作品群に多く登場する地を、国の名勝「イーハトーブの風景地」として2005年(平成17年)3月2日付で指定しました。

■ 岩手山と小岩井農場
 賢治は岩手山と小岩井農場が大好きでした。ここに点在する狼森(オイノモリ)や笊森、盗森などを、人間関係及び人間と自然との関係を表す象徴的な存在として描きました。ここは雫石町です。やや南西に七つ森(ナナツモリ)があります。盛岡市から秋田市に真っ直ぐ西に向かう国道46号線に面した北側にあります。岩手山南麓の雫石盆地に連続して展開する7つの小独立丘で、標高348mの生森(オモリ)をはじめ鉢森、勘十郎森、三手森、三角森、石倉森、稗糠森から成ります。詩集『春と修羅』に収められた「屈折率」など七つ森を題材とする多くの詩作が遺されており、森林に覆われた独特の景観は現在でも田園風景の中にあって一際目立ちます。ここに我が実家がかつてありました。賢治は盛岡から歩いて回ったそうですからすごい健脚ですね。


小岩井農場と岩手山

■ 御所湖造成のために七ツ森を一部掘削
 七つ森は地元雫石町では七ツ森と言います。今でも筆者の本籍地です。実は雫石川をせき止めてロックヒルダムを作るために七ツ森のうちひとつを一部削って岩石を取り出しました。賢治は「なんてヒドイことを」と言ったでしょうか?そんなことは無いと思います。大自然の前では人間はちっぽけなものですが、その大自然に自分たちの都合の良いように手を加えることで人間は生きてきたのです。実際、これによって出来た「御所ダム」の人造湖「御所湖」の景観は、それは見事なものですよ。科学者でもあった賢治が見たら多分感嘆したでしょう。ちなみに筆者の中学校は「御所中学校」で、筆者の安庭の生家は湖底です。御所ダムについては131『水害とダム』(2015年9月14日)をご覧下さい。

雫石盆地の七ツ森、その奥に岩手山

■ 御所湖と七ツ森と岩手山
 七ツ森を見るには上写真のように南西部から北東方向に見るアングル、下写真のようにつなぎ温泉から真北に御所湖、七ツ森、岩手山の三点セットで見る風景などがありますが、筆者のお勧めは、標高760mの網張温泉から見た南東方向に見下ろす七ツ森です。雲海の中にポコポコと七ツ森の頭が覗く風景が最高です。その向こうに繋温泉を麓に持つ箱が森、南昌山、東根山の「志和三山」が見えます。

手前御所湖、その向こうに七ツ森、奥に岩手山の三点セット

繋温泉ホテル大観から見たつなぎ大橋と七ツ森

■ あれから49年・・・雫石事故とテレビインタビューの思い出
 つなぎ温泉は1955年に盛岡市に編入される前は筆者の育った「御所村」でした。子どものころは親に連れられて徒歩で温泉に入りに行ったものです。1971年のちょうど今頃、全日空機が自衛隊の練習機にぶつかって墜落し、多数の犠牲者を出した「雫石事故」は、昔の「御所村」で、つなぎ温泉との境界からわずかに雫石側ですから、もうチョット東側だったら「盛岡事故」となっていました。早いものでもう来年で50年経ちます。筆者は雫石川でヤスで魚を突いていて、頭上、それも真上で爆発があって何かが落ちてくるのにビックリしてバイクでスタコラ逃げて、ほとぼりが醒めて現場に戻り、ANAだと知って愕然としました。遺体安置所となった母校「安庭小学校」の校庭でテレビ岩手(日本テレビ系)の女性アナウンサーからインタビューされ、全国にその映像が流れました。水泳パンツに草履、黄色いタオル地アロハに麦藁帽子、手にヤスを持った真っ黒に日焼けした顔に眼だけが白い現地人の格好で出たものですから、墜落現場がまるでアフリカの土人が棲息する地であるかのような印象を与え、親戚中から怒られました。墜落現場は「慰霊の森」となり、我が伯父も地主の一人として土地を供出しました。

■ 『グスコーブドリの伝記』
 宮澤賢治原作『グスコーブドリの伝記』は、火山局に勤めるブドリが、冷害による凶作で苦しむイーハトーヴの人々を救う話です。
 グスコーブドリ(ブドリ)はイーハトーブの森に暮らす樵(きこり)の息子として生まれました。冷害による飢饉で両親を失い、妹と生き別れ、工場に労働者として拾われるも火山噴火の影響で工場が閉鎖するなどといった苦難を経験しますが、農業に携わったのち、クーボー大博士に出会い学問の道に入ります。彼はペンネン老技師のもとでイーハトーブ火山局の技師となり、噴火被害の軽減や人工降雨を利用した施肥などを実現させます。ところが、ブドリが27歳のとき、イーハトーブはまたしても深刻な冷害に見舞われます。ブドリは研究を重ね、クーボー大博士のところへ相談しに行きます。カルボナード火山を人工的に爆発させることで大量の炭酸ガスを放出させ、その温室効果によって「地球全体を平均で五度ぐらい暖かくする」という仮説を立てました。理論的には正しいのですが、仕事に行った最後の一人は逃げられません。犠牲を覚悟したブドリは、彼の才能を高く評価するが故に止めようとするクーボー博士やペンネン老技師を冷静に説得し、最後の一人としてカルボナード火山に残ったのです。次の日、「青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅(あかがね)いろ」になりました。三、四日たつと、気候は暖かくなっていき、イーハトーヴの人々は、「その冬を暖かいたべものと、明るい薪(たきぎ)で楽しく暮らすことができた」のでした。物語では、冷害から救われた人々が、幸福になったことが示唆されています。現代に生きる私たちは、地球温暖化によるヒートアイランド現象に苦しんでいるのですが、賢治がこの物語を書いてから90年、果たして今を予想できたでしょうか。

■ 駒ヶ岳の噴火
 科学者であり、農業者でもあった賢治は、現実においては、人間が自然を簡単に操作できないことを認識していたはずです。しかし、自然の脅威に苦しむ農家の人々をなんとか救済したい、そういう強い思いから、「自己犠牲」という尊い精神を「物語」に書く必然性を見出したのでしょう。クーボー大博士のモデルは盛岡高等農林学校での恩師である関豊太郎教授だと言われています。前回紹介した、大正5(1916)年9月1日から8日間、賢治を含めた盛岡高等農林学校2年生23名が秩父地質巡検を行ったとき、引率責任者であった関豊太郎教授です。

雫石から見た秋田駒ケ岳
 火山噴火などというのを肌で感じられる人は、火山の近くで生きている人だけでしょう。「石っこ賢さん」と呼ばれた賢治は、噴火と岩石、地質、土壌について詳しく、関豊太郎教授の影響で石灰石についても深い知見を持っていました。筆者は秋田駒ヶ岳の噴火に遭遇しました。1970年9月18日に始まり、1971年1月末には完全に停止しました。真夜中に試験勉強に没頭していた筆者は、「ウルサイなぁ、こんな夜中になんで自衛隊が演習するんだろう?」と思いましたが、良く考えると草木も眠る丑三つ時に自衛隊が演習するはずがありません。外に出てみましたが、家の隣に森があって何も見えません。翌朝のニュースで駒ヶ岳の噴火だと分かりました。森の上に登ってみたら、駒ヶ岳の頂上から噴石がボン、ボンと上がっているのが見えました。噴火してから「ド〜〜ン」と音がするまでに時間遅れがあるのは落雷と一緒です。この噴火は、ストロンボリ式噴火と呼ばれ、小爆発を反復して溶岩流を流出しました。秋田駒ヶ岳は秋田県仙北市(田沢湖町)と岩手県岩手郡雫石町に跨る活火山です。十和田八幡平国立公園の南端で標高1,637m、全国に数多い駒ヶ岳のなかで最も高山植物の豊富な山としても知られ、日本二百名山の一つです。山腹にある雫石町の国見温泉は、泉色が緑から乳白色に変化する名湯で、温泉愛好家の憧れの地です。駒ケ岳から下山してここで入浴するのは天国でしたね。もちろん噴火前の高校生時代の話です。森の上に登って夜中に噴火を見ると、まるで花火で、とても綺麗でした。肉眼で見えたのですから、噴石は巨岩だったでしょう。

千沼ヶ原湿原と駒ケ岳
 雫石町滝ノ上温泉から駒ケ岳に登山する途中に千沼ヶ原という湿原があります。この登山道は、上級者向けルートですが、中学生から高校生の頃、よく登ったものです。位置的には雫石スキー場の西側になります。標高1,379メートルの高層に位置し、その名のように大小無数の池塘が広がります。スケールの大きさや原始性が保たれている点などで尾瀬に匹敵するともいわれ、湿原特有の高山植物が見事で、眺めてて飽きません。

■ 盛岡高等農林学校と宮澤賢治
 1902(明治35)年に明治政府が日本国初の高等農林学校として設置したのが盛岡高等農林学校です。当時日本の農学の高等教育機関は、札幌の農学校と東京・駒場の農学校しかありませんでした。今の北大と東大ですね。創設13年目にかの宮澤賢治(1896-1933)が入学してきました。賢治は首席入学というのですからスゴイですね。岩手大学農学部附属農業教育資料館(館長:伊藤菊一農学部教授)と岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センター(センター長:山本昭彦人文社会科学部長)が共同で編集したガイドブック『盛岡高等農林学校と宮澤賢治』が賢治の卒業記念日3月15日に刊行されました。詳しくは チラシ をご覧下さい。盛岡:杜陵高速印刷出版部 ISBN: 978-4-88781-136-2 C0400 単行本: 32ページ A5版 定価:700円+税
 表紙にある本館は、1912(大正元)年5月に起工し、同年12月に完成した明治後期を代表する木造欧風建築です。宮澤賢治は、東京帝国大学農科大学を卒業した関 豊太郎教授(1868-1955)から地質学・鉱物学・土壌学などの指導を受けたことは良く知られる史実です。宮澤賢治の盛岡高等農林学校時代の様々なエピソードが本書で紹介されています。農業教育資料館の目の前には、「節子の井戸」というのがあって、石川啄木の妻・節子の生家がここにあったそうです。
 また賢治の地質学・鉱物学・土壌学など知的背景を示す地質学史資料については日本地質学会のホームページをご覧下さい

■ 賢治の精神風景
 1926(大正15)年、賢治は岩手県立花巻農学校の教員をやめます。そして、体を酷使するかのように農作業をしながら、羅須地人協会という私塾を開きました。そこでは、夜に農家の人々を呼び、肥料等の農業技術や「農民芸術」を教えました。『農民芸術概論綱要』は、羅須地人協会等で「芸術論」を講義するための記録のようなものでした。その中に短いメッセージが箇条書きのように記されています。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」・・・これが賢治の精神風景です。今の世の中はこれと180度逆の方向に向かっているように見えますね。米中新冷戦などと言われていますが冗談じゃありません。今こそ日本は賢治の精神を世界に広める役割をしなければなりません。

■ 羅須地人協会
 羅須地人協会の建物は花巻空港の滑走路に隣接した、花巻農業高校の敷地内にあります。広い庭園の芝生の上に賢治の見慣れた銅像がありました。あの帽子を被り、コートを着てうつむいている銅像です。賢治は、ストイックなイメージがありますが、実は面白く楽しい人だった、と清六さんは後に語っています。コートを着てうつむいている写真は、実はベートーベンの真似だそうです。言われてみると、アッそうだ!と思いますね。科学者で、農民で、教師で、音楽家で、詩人で、仏教家だった賢治が、奔放な人生を送ることが出来たのは、父母や弟の清六さんが賢治の才能を理解し、愛していたためです。賢治の祖父の隠居所だった建物を賢治が羅須地人協会として使ったそうです。自由に入って見学できます。詳しくは 186『賢治を辿る』(2016年10月2日)参照

羅須地人協会の建物で

■ 疎開してきた光太郎の高村山荘
 花巻に行く機会がありましたら、是非高村山荘にもお立ち寄り下さい。高村光太郎は、第二次大戦中、東京のアトリエを空襲で消失して、当時花巻でも指折りの豪商であった宮澤家を頼って疎開してきました。光太郎がなぜ花巻に来たのかといえば、賢治の弟の清六さんとの交流によるものです。清六さんは、賢治の遺作を世に出す際に、いち早く賢治を評価した草野心平とともに助力してくれた光太郎に感謝していました。草庵とも言うべき粗末な小屋で農耕自炊の生活でしたが、光太郎を敬愛し感謝していた清六さんは、花巻居住中の7年間、便宜を図り続けました。村人たちも1本ずつ木を持ち寄って、光太郎の小屋を建ててくれました。宮沢家と村人たちがどれほど光太郎を敬慕、敬愛していたかがわかるエピソードです。この小屋が「高村山荘」として今も残っています。周りは一面の林と畑、緑以外何も無し、栗は拾い放題、ド田舎出身の筆者が、「イナカだなぁ〜」と言いたくなる土地でした。

■ 筆者の恩師は賢治の初の甥
 筆者の恩師は賢治の初の甥でした。賢治の姉の長男、岩田純蔵先生です。大正13(1924)年生まれ、賢治は可愛がって、赤ちゃんの頃、八戸の種差海岸に一緒に旅行したこともありました。この甥は、おつかいで、光太郎の山小屋に服を届けたこともあったそうです。その人がやがて電気工学の大学教授になったのです。賢治の甥だけあって、とても温厚で物静かな方でした。2004年11月没、享年80歳でした。

在りし日の岩田純蔵先生

■ 星めぐりの歌
 SOMPOひまわり生命保険のCM、「100年生きるって、しあわせですか?おもしろくなりそうですか?」という問いかけから始まり、「元気ですかー!」という未来の自身にむけたエール、ここに流れる音楽はシンガーソングライターの優河が歌う賢治の「星めぐりの歌」です。201『星空』(2017年1月16日)参照
「星めぐりの歌」
 詞曲:宮澤賢治

♪あかいめだまの さそり
♪ひろげた鷲の  つばさ
♪あをいめだまの 小いぬ、  
♪ひかりのへびの とぐろ。

♪オリオンは高く うたひ
♪つゆとしもとを おとす、
♪アンドロメダの くもは
♪さかなのくちの かたち。

♪大ぐまのあしを きたに
♪五つのばした  ところ。
♪小熊のひたいの うへは
♪そらのめぐりの めあて。

 どうですか。宮澤賢治は本当に素晴らしい!冬の夜空を眺めながら、この歌を歌いましょう。YouTube

■ アオイ科/フヨウ属の五つの花
 夏を彩る花と言えばアオイ科/フヨウ属の五つの花ですね。下記、みな花弁が5枚の五弁花です、モミジアオイ以外は花色が各種あります。芙蓉は中国原産、花径:10〜15cmで花色は桃か白、葉は花と同じぐらいで大きく薄い緑色、アメリカフヨウは花径:20〜25cmと超大輪で、葉は裂けてなくて、花色は白、桃、赤、白と桃色の覆輪があり、1日花が次々と咲きます。モミジアオイは花径:10〜20cmの鮮紅色の大きな一重の花弁が平らに開ききり、葉っぱが紅葉のように、掌状に三裂、あるいは五裂するのが名前の由来です。ムクゲは韓国の国花で花径:8〜10cmと他の仲間より小さく、花色は紅紫か白、葉は花より更に小さくて濃い緑色、ハイビスカスは熱帯の花で花径:5〜20cm、花の中央にある花柱や筒状の雄しべが突出しています。

フヨウ(芙蓉)

アメリカフヨウ

モミジアオイ(紅葉葵)

ムクゲ(槿)

ハイビスカス

■ 李登輝元台湾総統逝去
 総統直接選挙などの民主化を推進し「台湾民主化の父」と呼ばれた李登輝(り・とうき)元総統が2020年7月30日 多臓器不全などのため台北市内の病院で死去されました 享年97歳 中国から「独立派」と批判される一方 「22歳まで日本人だった」と公言する親日家として知られ 日台関係の発展に尽力されました 日本統治下の1923年生まれ 京都帝大(現京大)に入学し 戦後 台湾に戻り台湾大を卒業しました 蒋経国元総統に引き立てられ政界入りし 1988年1月 蒋氏の死去に伴い副総統から総統に昇格 民主化を進め 1996年に総統直接選挙を実施 李氏の当選阻止を狙う中国がミサイル発射を含む軍事演習により威嚇する中で当選し 初の民選総統になり 2000年に退任しました 日本にはたくさんの支持者が居り 日本政府も米国政府もその功績に対し 深い感謝のメッセージを発出 中国が反発しています
(2020年8月3日)


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