186  賢治を辿る

 2週前に「変な天気が続きます。夏はいつまでだったのか?秋なのか?「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますから、今週で暑さは終わります。問題は雨、各地で豪雨災害が頻発しています」と書きました。昨週の岩手ツアーは雨の埼玉を出発して、雨と共に岩手・花巻、盛岡に着いたら雨は上がり、雫石では曇りで、東北道を南下した帰路は晴れでした。途中、多数の警察車両とすれ違いました。各都道府県警の機動隊等が、岩手国体の開会式とそれに先立つ被災地訪問で、異例の4泊の旅に向かわれる天皇・皇后両陛下に先立っての警護に向かうのでしょう。我が家に着いた日の夜はまた雨、その後真夏日が続きました。彼岸過ぎて真夏日ですよ。しかしその後グッと冷え込んで秋到来?今年の異常気象はどうも秋雨前線が南の暖気と北の寒気に挟まれて身動きとれず、まるで梅雨のような状況になっているようです。台風が来て各地に被害をもたらしましたが、台風一過で高気圧がやってきて秋晴れとならないのです。我が家の辺りのこの10日間の日照時間は平年比28%、いかに晴れた日が少ないかがわかります。ラニーニャの影響で、今後秋から冬にかけても変な天気が続きそうです。

■ 賢治生誕120年…大災害と共に生まれ死す
 前回紹介した一周忌ツアーで、岩手県花巻の新鉛温泉・愛隣館に泊まった後、折角なので我が先輩の足跡をしのぶ地を巡ろうと思いました。今年は宮沢賢治生誕120年です。これを記念して岩手では様々なイベントが開かれています。普通は宮沢賢治と書かれますが、戸籍上は宮澤が正しいのです。賢治は今でこそ日本の代表的な詩人及び童話作家と言われていますが、これを世に知らしめたのは弟の清六さんの功績と思います。宮澤清六さんも我が高校の先輩ですが、2001年に享年97歳で亡くなられるまで、8歳上の兄賢治の作品やその人となりを紹介することに情熱を注がれました。いかに兄賢治の良き理解者であったかがわかります。清六さんは賢治が、1896年6月15日の明治三陸地震津波の後の8月27日に生まれ、1933年3月3日の昭和三陸地震津波の後の9月21日に逝去したことが、大災害と共に生まれ、大災害の後また死去するという因縁のようなものを感ずると述べられました。

■ イーハトーブの風景地
 賢治の作品には、岩手県の独特の風土を表す自然の風景地が多く登場します。それらを賢治は理想の大地として「イーハトーブ」と名付けました。賢治ファンは全国各地から岩手を訪れて、今もなお美しい風景を伝えるイーハトーブを巡ります。文部科学省は、宮澤賢治の作品群に多く登場する地を、国の名勝「イーハトーブの風景地」として2005年(平成17年)3月2日付で6ヶ所を指定しました。その後2006年(平成18年)7月28日付で「イギリス海岸」を追加指定しました。計7ヶ所です。

■ 鞍掛山、狼森、七つ森
 第一は鞍掛山(クラカケヤマ)です。片側が富士山と同じきれいな稜線を見せる岩手山の南麓に位置し、馬の背に掛ける鞍の形をした山です。滝沢市にあります。その西隣に日本一の民間牧場「小岩井農場」があり、その敷地内にある標高約380mの独立丘陵が第二の狼森(オイノモリ)です。賢治は岩手山と小岩井農場が大好きでした。周辺に点在する笊森、盗森などとともに、人間関係及び人間と自然との関係を表す象徴的な存在として描きました。ここは雫石町になります。ここからやや南西に第三の七つ森(ナナツモリ)があります。盛岡市から秋田市に真っ直ぐ西に向かう途中にあります。岩手山南麓の雫石盆地に連続して展開する7つの小独立丘で、標高348mの生森(オモリ)をはじめ鉢森、小鉢森、三手森、三角森、石倉森、稗糠森から成ります。詩集『春と修羅』に収められた「屈折率」など七つ森を題材とする多くの詩作が遺されており、森林に覆われた独特の景観は現在でも田園風景の中にあって一際目立ちます。
雫石盆地の七ツ森、その奥に岩手山

■ 御所湖、七ツ森、岩手山の三点セット
 七つ森は地元雫石町では七ツ森と言います。今でも筆者の本籍地です。実は雫石川をせき止めてロックヒルダムを作るために七ツ森のうちひとつを一部削って岩石を取り出しました。賢治は「なんてヒドイことを」と言ったでしょうか?そんなことは無いと思います。大自然の前では人間はちっぽけなものですが、その大自然に自分たちの都合の良いように手を加えることで人間は生きてきたのです。実際、これによって出来た「御所ダム」の人造湖「御所湖」の景観は、それは見事なものですよ。科学者でもあった賢治が見たら多分感嘆したでしょう。ちなみに筆者の中学校は「御所中学校」で、筆者の安庭の生家は湖底です。御所ダムについては131『水害とダム』(2015年9月14日)をご覧下さい。
 七ツ森を見るには右上写真のように南西部から北東方向に見るアングル、右写真のようにつなぎ温泉から真北に御所湖、七ツ森、岩手山の三点セットで見る風景などがありますが、筆者のお勧めは、標高760mの網張温泉から見た南東方向に見下ろす七ツ森です。雲海の中にポコポコと七ツ森の頭が覗く風景が最高です。その向こうに繋温泉を麓に持つ箱が森、南昌山、東根山の「志和三山」が見えます。

手前御所湖、その向こうに七ツ森、奥に岩手山の三点セット

■ 釜淵の滝
 新鉛温泉・愛隣館から真東に山を越えればイーハトーブの風景地第四の釜淵の滝(カマブチノタキ)ですが、ドローンのように飛べないのでU字形に18.4km、24分走って花巻温泉に向かいます。花巻温泉はホテル千秋閣、ホテル花巻、ホテル紅葉館という大ホテルが三つ並んで建ち、更に奥に進んで佳松園という和風ホテルのそのまた奥に佇んでいました。幅が約25m、比高が約8.5mあり、台川の峡谷底から球形に盛り上がる岩床の表面を舐めるように水が洗う美しい瀑布です。童話『台川』では、花巻農学校の教師だった賢治が、生徒を連れて野外授業に来た経験を綴りました。花巻農学校から釜淵の滝は7.7kmあります。昔の人は良く歩いたのですよ。そもそも盛岡第一高等学校や岩手大学から七ツ森まで13kmぐらいですし、盛岡市から花巻市まで40km以上を賢治は歩いたと言われています。
 ところで釜淵の滝周辺の遊歩道には至るところ鐘が置いてあります。これをカランカランと鳴らして熊が近付かないようにするのです。岩手では市街地でさえ熊が出没します。猟師が減ったので熊が増えたのです。特に冬眠前のこの時期は熊にとっては一杯食べなければならない時期、栗やどんぐりがいっぱいあるのです。

台川の釜淵の滝

■ 第五、第六は訪問せず
 イーハトーブの風景地第五、第六の2ヶ所は立ち寄りませんでした。第五の五輪峠(ゴリントウゲ)は遠野街道沿いの標高556mの峠で、合戦で死亡した武将の供養のために立てられたとされる五輪塔にその名の由来があります。仏教世界において物質の5元素とされた空・風・火・水・地をそれぞれの石に象った五輪塔とそれを取り巻く峠の風景は、賢治をして物質の根源をめぐる哲学的思考へと促し、散文詩「五輪峠」などにおいて宗教・科学・土俗を一元的に捉える独特の世界観を表現しました。
 イーハトーブの風景地第六の種山ヶ原(タネヤマガハラ)は北上山地南西部に広がる標高600mから700mのなだらかな高原で、標高870mの物見山を中心として広がる草地と樹林帯では、江戸時代に伊達藩直営の放牧地としての利用が始まりました。童話『種山ヶ原』や『風の又三郎』で、牛や馬を追いかけて迷子になった子どもたちが突然の雨に出会ったのが種山ヶ原であり、日常生活の外側の異界へとつながる空間として描かれています。また、賢治は岩塊が露出する種山ヶ原の最高地点「物見山」を「種山モナドノック(残丘)」と名付けました。
 盛岡高等農林学校(今の岩手大学農学部)で地形学・地質学を学んだ賢治は、これらの多様な地形を、その鋭い観察眼を通じて科学的に把握し、創作活動の重要な母胎となりました。さらに、それらは彼独特の自然観及び世界観の醸成において大きな意味を持ち、やがて理想の大地を表す「イーハトーブ」の核心にまで昇華したと思われます。個々の風景地が持つ観賞上の価値、学術上の価値はともに高く、よって文部科学省は一群の風景地として名勝に指定し保護を図ろうとしました。

■ イギリス海岸を追加指定
 追加指定されたイーハトーブの風景地第七のイギリス海岸(イギリスカイガン)は、宮澤賢治が子供の頃よく遊んだ北上川のほとりで、ドーバー海峡の海食崖地形に似ていることから賢治が「イギリス海岸」と命名した区域です。訪れた時は写真のように折からの雨で水かさが増し、岩畳は見えませんでした。コスモスの花が綺麗にたくさん咲いていました。「イギリス海岸」についてはコチラをご覧下さい。

水が少ないときのイギリス海岸

■ 羅須地人協会
 そこで「イギリス海岸」から近い羅須地人協会に行って見ようと思い立ちました。賢治が農民のために組織して、その本拠地としたところです。しかしカーナビが示すところは花巻空港の隣、花巻農業高校のレンガ造りの立派な正門がありますが「部外者の入門を禁ず」のような看板があります。行き過ぎたらもう北上川の橋でした。引き返して恐る恐る花巻農業高校の正門から入りました。金曜日ですから授業のある日のはずです。駐車場があります。立派な建物の裏に車を停めて正面に回ったらどうやら花巻農業高校の同窓会の建物のようです。その前の広い庭園の芝生の上に賢治の見慣れた銅像がありました。あの帽子を被り、コートを着てうつむいている銅像です。そしてその奥にあった!羅須地人協会の建物です。写真では見たことがありますが実物は初めてです。賢治の祖父の隠居所だった建物を賢治が羅須地人協会として使ったのです。自由に入って見学できました。おばさんが来て見ていました。隣の花巻空港の滑走路に飛行機の巨体が轟音と共に舞い降りました。

■ 疎開してきた光太郎の高村山荘
 実は高村山荘にも立ち寄りました。花巻に、第二次大戦中、高村光太郎が疎開してきます。光太郎のほうが賢治より13歳年上で、二人は一度だけ東京で面識がありました。1926年12月光太郎43歳の時、駒込のアトリエを当時30歳の賢治が突然訪問したのです。しかし冬の夕方、手の離せぬ光太郎は、「今日はもう暗いので明日午前中また来て下さい」と言って玄関先で別れました。しかし賢治もまた東京で各方面に用が有り、結局二人は二度と会うことはありませんでした。光太郎は彫刻家として能書家として詩人として当時既に有名でした。賢治は、詩を通じて光太郎を意識していたものと思われます。当時売れていたのはなんといっても光太郎のほうでした。光太郎も詩人賢治の名を知ってはいましたが、その没後光太郎に詩集『春と修羅』を読んでくれと渡したのは、「蛙の詩人」草野心平でした。読後、光太郎は「自分の詩よりも後に残る作品かもしれない」と言ったそうです。その光太郎がなぜ花巻に来たのかといえば、賢治の弟の清六さんとの交流によるものです。東京のアトリエを空襲で消失して、当時花巻でも指折りの豪商であった宮澤家を頼ったのです。

北上川のイギリス海岸は水量多く岩畳の奇岩は見えません


羅須地人協会の建物は花巻農業高校の敷地内に現存
 清六さんは、賢治の遺作を世に出す際に、いち早く賢治を評価した草野心平とともに助力してくれた光太郎に感謝していました。1945年5月に花巻に疎開してきた光太郎は、「なぜ防空壕がないの?」と言ったので清六さんは防空壕を作ったのですが、結果的にそのことが賢治作品を守ったのです。宮澤家自体も8月10日に空襲に遭い焼失してしまいます。終戦のわずか5日前です。既に広島にも長崎にも原爆が投下されていました。こんな田舎町も爆撃する、米軍の圧倒的な軍事力が分かります。それと共に、軍事施設でもない民家を攻撃する戦争犯罪を改めて再認識します。このとき、賢治の遺稿の多くを清六さんは防空壕で焼失の被害から守り抜きました。焼け出された光太郎は郊外の太田村山口(現花巻市)に小屋を建てて移り住みます。草庵とも言うべき粗末な小屋で農耕自炊の生活でしたが、光太郎を敬愛し感謝していた清六さんは、花巻居住中の7年間、便宜を図り続けました。村人たちも1本ずつ木を持ち寄って、光太郎の小屋を建ててくれました。宮沢家と村人たちがどれほど光太郎を敬慕、敬愛していたかがわかるエピソードです。この小屋が「高村山荘」として今も残っています。周りは一面の林と畑、緑以外何も無し、栗は拾い放題、ド田舎出身の筆者が、「イナカだなぁ〜」と言いたくなる土地でした。

■ 「啄木と賢治」を評した高村光太郎
 高村光太郎もまた、花巻の人たちがいかに良い人たちかと著作に残しています。「啄木と賢治」という一文には、岩手県というところは一般の人が考えている以上にすばらしい地方だということが、来て住んでみるとだんだんよく分ってきました。此の地方の人の性格は多く誠実で、何だか大きな山のような感じがします。為ることはのろいようですが、しかし確かです。天然の産物にも恵まれていて、今にこれがみんな世の中に利用されるようになったら、岩手県は日本の宝の蔵になるでしょう。人物にも時々たいへんすぐれた人が出ています。文芸方面でいえば、石川啄木、宮澤賢治などという詩人が出たことは、もう皆さんも知っていることでしょう。啄木の歌や、賢治の詩は学校の教科書にものっていたと思います。「雨ニモマケズ」という賢治の詩などは、思いがけぬほど多くの人に暗記されています。(以下略)
 そしてこの文の最後で光太郎は、宮澤賢治、此詩人は全く世界的な大詩人といっていいでしょう。 啄木といい、賢治といい、皆誠実な、うその無い、つきつめた性格の人でした・・・・と書いて締めています。

■ 筆者の恩師は賢治の初の甥
 筆者の恩師は賢治の初の甥でした。賢治の姉の長男です。賢治は可愛がって、赤ちゃんの頃、八戸の種差海岸に一緒に旅行したこともありました。この甥は、おつかいで、光太郎の山小屋に服を届けたこともあったそうです。その人がやがて電気工学の大学教授になったのです。賢治の甥だけあって、とても温厚で物静かな方でした。
 賢治は、ストイックなイメージがありますが、実は面白く楽しい人だった、と清六さんは後に語っています。コートを着てうつむいている写真は、実はベートーベンの真似だそうです。言われてみると、アッそうだ!と思いますね。科学者で、農民で、教師で、音楽家で、詩人で、仏教家だった賢治が、奔放な人生を送ることが出来たのは、父母や弟の清六さんが賢治の才能を理解し、愛していたためです。1926年5月、清六さんは見習士官だった弘前歩兵第31聯隊を除隊、父宮澤政次郎と共に、故郷花巻で宮澤商会を開業します。金物・建材・電導材・自動車部品を扱う会社でした。これにより賢治の幼少時より課題となっていた「質・古着商からの家業の転換」がようやく実現しました。賢治が農学校を退職して独居自炊の生活を始めることができたのは、父母や清六さんの支えによるものでした。清六さんが賢治作品を世に出す努力を続けられたのは、高村光太郎が賢治の詩を認めてくれたことが支えになったからだそうです。やはり偉人と言うものは、支え、支えられるヒトが居てこそのもの、「人」という字そのものですね。

2016年秋の雫石移住体験・交流ツアーのご案内
雫石と宮澤賢治(宮澤賢治生誕120周年企画)
〜雫石町や周辺の宮澤賢治の作品に登場するゆかりの場所を探訪(解説つき)〜
詳しくは在京盛岡広域産業人会のホームページをご覧ください。

■ 筆者の恩師は啄木研究家
 なお筆者は高校生の時、新聞部の取材で当時盛岡図書館長だった森荘已池(もり そういち、1907年5月3日 - 1999年3月13日)さんにお会いして賢治の話を聞きました。後から考えたら冷や汗ものでした。森荘已池さん(本名:森佐一さん)は直木賞作家で、盛岡第一高等学校の先輩だった宮澤賢治と深い親交があり、賢治作品や賢治に関する文章を数多く残している方です。その方が会って話をしてくれたのは、盛岡第一高等学校の後輩の新聞部員だったからでしょう。それほどまでに同窓の絆と言うのは太いものなのです。森荘已池さんが宮澤賢治と深い親交を結べたのも高校の先輩、後輩と言う絆があったればこそと思います。当時新聞部の顧問だったのは、遊座昭吾先生で、その口利きもあったのかもしれません。遊座昭吾先生は1927年生まれで現在もご存命です。国際啄木学会の元会長で、啄木の父が住職だった寺に、それを追い出す形で着任したのが遊座昭吾先生の父で、いわば啄木も遊座昭吾先生も同じ寺で育ったという因縁から、啄木研究家になったようです。筆者の妻も遊座昭吾先生が担任でした。

■ 大谷完封、最大11.5ゲーム差逆転して日本ハムファイターズ優勝
 花巻と言ったら宮澤賢治だけではありません。2016年9月28日、西武プリンスドームで埼玉西武ライオンズ対北海道日本ハムファイターズ戦が行われ、共に花巻東高校出身の日本ハム・大谷翔平、西武・菊池雄星が先発しました。試合は、序盤3回を0-0で推移、投手戦の様相でした。試合の均衡を破ったのは一発でした。菊池雄星−森友哉のバッテリーが変化球を多投していると見て、4回表、1死で打席に立ったレアードは菊池のスライダーを左翼スタンドに運びました。一方大谷は4回まで完璧に抑える抜群の立ち上がり、打者ごとにストレートとスライダーを巧みに使って、150キロ後半のストレートとフォークを挟む配球、大谷のストレートが頭にこびりついている西武打線からバッタバッタと三振を奪います。結局、大谷は、9回1安打無失点で15奪三振の完封勝利。優勝マジック1で優勝に王手をかけていた日本ハムが、西武に1−0で競り勝ち、2012年以来4年ぶり7度目のパシフィックリーグ優勝を果たしました。6回投げて負け投手となった菊池雄星は、「自分としては精一杯投げたが、大谷が良過ぎた」と後輩を讃えました。地元に帰れば花巻東の佐々木監督ほか皆で宴席を囲むこともありますが、中学、高校時代の菊池雄星はスターで、大谷翔平にとって雄星さんは憧れでした。盛岡市出身(筆者の妻の実家から歩いてすぐのところ)の菊池雄星は甲子園でも150km/hを連発し、躍動感溢れる天才肌のピッチャーなのに対し、奥州市出身の大谷翔平は手足が長いので、スピードは出ますがコントロールがいまいちでした。プロになってからコツコツ努力を重ねて今の二刀流が出来上がったわけで、評論家の張本勲さんが、「二刀流はダメだ」と散々言っているかたわらで次々に実績を積み重ねました。今や大リーグも注目する存在となり、日本ハムの大逆転優勝も大谷翔平抜きでは考えられませんでした。
(2016年10月2日)


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