385  小鹿野と宮澤賢治

 とにかく雨、雨、雨・・・・、いったいいつになったら青い空を見れるのか?東京オリンピックの開会式に合わせて、無理やり7月23日(木)海の日、24日(金)スポーツの日、25、26の土日含めて四連休を作ったのに、雨続きで、しかもコロナ禍、第1波以上の感染者数が続いて、”Go To トラベル”と言われてもトラブルが怖くて出掛ける気にもなりません。しかも九州、四国、中国地方から東海地方にかけて梅雨末期の大雨で災害情報が連日もたらされる有様、とてもじゃないが観光気分にはなりません。27日(月)までは四国、近畿、東海、関東甲信、北陸で雨量が増えるため土砂災害などに警戒、28日(火)以降は、西日本から晴れる所が多くなり、九州南部(鹿児島)は28日(火)ごろ梅雨明けしたと見られると発表されました。順次他の九州、中国、四国、近畿、東海が梅雨明けとなるでしょう。28日(火)新潟県から東北各県は大雨となって、川が氾濫するなど大変な事態になっています。前回「あの梅雨明けのカーッと晴れた空は7月末くらいになるかもしれませんね」と書きましたが、我がふじみ野市では8月4日(火)まで全く晴れの予報がありません。しかし待ちきれぬ蝉がジージーと鳴いています。過去最も梅雨明けが遅かったのは1982年の8月4日ごろですが、続いて1998年と2003年の8月2日ごろ、果たして今年はどうなるか?もしかすると梅雨明け発表無しになるかもしれません。

■ 富士六湖?赤池出現
 今年、富士山の麓に9年ぶりに幻の池が出現しました。富士五湖(山中湖・河口湖・本栖湖・西湖・精進湖)に次ぐ第六の湖、富士六湖とも呼ばれる通称「赤池」です。精進湖の南東およそ2キロにあり、国道139号の瀬々波橋の下にあって、直径は数十mなので「湖」ではなく「池」が妥当です。今年は小さく20mぐらいで、梅雨明けには消えると言われます。赤池の名前の由来に付いては『富士八海をめぐる(富士山叢書)』(富士吉田市歴史民俗博物館編 富士吉田市教育委員会 2003年)の「閼加(あか、富士山に供える水)を取った場所だと考えられる」という説と、『富士山の謎:ニッポン不思議発見3(ワニ文庫)』(上村信太郎著 ベストセラーズ 1994年)の「赤池という名は、池が浅く、湖底を埋めた赤い溶岩から名づけられたと思われる」という説があるそうです。昔は常にあった池なので、赤かったのでしょうが、今は普段キャンプ場で緑に覆われていて名前が不思議なのです。1200年くらい前までは本栖湖も精進湖も西湖も「せのうみ」と呼ばれる大きな湖の一部でしたが、延暦19年(平安時代の西暦800年)と貞観6年(平安時代の西暦864年)の富士山噴火で、湖に溶岩が流れ込み、現在の形に分割されたのでこの三つの湖は地下水脈でつながっているのです。したがって水位は通常海抜902mと一緒です。「赤池」も同じで、降水量が多くなると地下水脈を通って、池が出来るのです。本栖湖と西湖には防災兼発電用の放水路があり、これによって水位調節しているので今は増水による水害が起きなくなりましたが、これによって赤池も消え、7〜8年に一度大雨のときだけ現れます。実は1998年に赤池が発生したときも、台風が6月まで一つも発生せず、梅雨明けも関東甲信地方で8月2日頃、北陸や東北地方では梅雨明けの発表ができないという異例の年でした。その後、9月〜10月に台風が4個も上陸し、各地で水害が発生、赤池の発生となったわけですが、その後中越地震の2004年に現れ、さらに2011年の東日本大震災の年、秋に相次いで台風が襲来して、忍野八海も浸水被害を受けた時以来出現していませんでした。今年も、これからが台風シーズンです。さらに1000ミリを超えるような大雨になれば、秋にもまた出現するかもしれません。もしそうなれば、一年に二回出現ということになり、異例の事となります。既に各地で尋常でない水害被害が起きているのに、何かイヤな予感がします。


新年の精進湖初日の出


■ 八坂神社大祭と停電
 2020年7月24日(金)外からテンツクテンツクテンツクテンと祭礼のお囃子の音が響いた午前9時ごろ、「ああそうか、今日はご近所の鶴ヶ岡八幡神社の八坂神社大祭だな」と思いながらパソコン作業していました。八幡神社は武運長久の神様で日本で一番数多い神社ですが、鶴ヶ岡八幡神社は稲荷神社と八坂神社、大獄神社の三社を合祀しているのです。突然画面がプッツン、アレ?何が起きたの?と一瞬呆然、すると階下で連れ合いが「停電だ!」とおっしゃる。さっそくブレーカーをチェックしましたが落ちてません。外へ飛び出したら他の家の方々も飛び出してきました。スマホを耳になにやら話している人も居ます。川越街道に出たら信号機も消えています。街道沿いの焼肉、ラーメン、カフェもワークマンも皆真っ暗、そのうちに東京電力のユニック車というか作業車がけたたましくサイレンを鳴らしてやってきました。やがて復旧しましたが、東武東上線上福岡駅西側から川越街道にかけての一帯が、川越市も含め1,920戸停電したとの事、電気技術者である筆者は「変圧器が故障したのだろう」と想像しましたが、範囲から見て柱上変圧器ではなく変電所だろうと推定しました。しかし東京電力ホームページを見ても、停電理由はずっと「調査中」のままです(注;後記・・・「弊社設備の故障」と後で掲載されました)。発生は9時25分、復旧は10時19分でした。久しく停電というものを経験したことが無くビックリするとともに、緊急車両は電力会社にもあるんだなと認識を新たにしました。

■ 長崎県諫早市のがけ崩れで母娘死亡
 2020年7月25日(土)午後、長崎県諫早市の観光地「轟の滝」の遊歩道でがけ崩れが発生し、長崎市から訪れていた家族5人が巻き込まれ、40歳の母親と8歳の娘が死亡、12歳の娘は足の骨を折る大怪我、離れて歩いていた父親と息子は無事だったというニュースが流れました。諫早市では7月になってから24日までに、平年の2倍以上となる900mmを超す雨が降っていたので、がけ崩れに注意と呼び掛けられていました。この辺は多良岳山系、無数の川が大村湾や有明海に流れ落ちるところです。境川の上流に轟峡があり、ここに「轟の滝」があります。マイクロツーリズムとは言え、この辺りはまだ危険、梅雨明けまでは自粛すべきだったのでしょう。

■ 潮受け堤防の防災効果
 あの有名な有明海「潮受け堤防」の北部排水門のチョット西側に境川が注いでいます。南部排水門側は雲仙市、あの雲仙岳が聳えます。「潮受け堤防」を巡ってはご存知の通り長年裁判で争われています。佐賀県=漁業者、長崎県=農業者の争いで、両方の裁判所で異なる判決が出て、テンヤワンヤです。調整池は普段海水面よりマイナス1m程度に水面を保っており、今回の大雨では調整池の水面が上がったため、諫早湾のほうに排水しました。これによって長年水害に悩まされてきた諫早市ではその心配が薄らぎ、「潮受け堤防の効果」と言われています。



潮受け堤防の位置
水門

 長崎県のホームページによれば、筑後川などの有明海の各河川から火山灰等の砂や泥が有明海に流れ込み、特に目の細かい泥が有明海の反時計回りの潮流にのって諫早湾にまで運ばれて堆積(ガタ土)し、このガタ土による干潟が毎年10メートルも前進していました。また、この地域は、雲仙山系、長崎半島の山々、多良山系に囲まれ、その間を東シナ海からの湿った空気が流れ込み、集中豪雨が発生しやすい地域であるとともに、台風の常襲地帯でもあります。火山活動もあります。しかも、諫早湾奥部は高潮の発生しやすい地形になっているため、昔から水害の危機にさらされてきた地域であり、昭和32年の諫早大水害では、死者・行方不明者630名にのぼる大水害となりました。また、諫早湾の満潮と台風が重なると、低気圧により海面が上昇し、たびたび高潮被害が引き起こされてきました。有明海は干満の差が日本でも最大級で、大きいときは、その差は6メートルにも及びます。津波並みですね。諫早湾干拓事業により潮受堤防が設置される前は、この地域の海岸堤防の前で、満潮、干潮の水位変動が繰り返されていたため、周辺の低平地からの排水は潮位が下がった干潮時にのみ行われ、排水時間に制限がありました。潮受堤防設置後は、潮受堤防排水門からの排水によって、調整池の水位を背後地の最低標高(マイナス0.8メートル程度)よりも低い標高マイナス1メートルの水位で管理することにより、有明海の潮汐に関係なく、常に周辺地域からの排水が可能となりました。これにより、洪水被害は大幅に改善されました。また、高潮災害についても、潮受堤防設置後は全く発生しなくなりました。このように長崎県側から見れば「潮受け堤防さまさま」なのです。

■ 湯平温泉「つるや隠宅」の家族4人中3人発見
 前々回書きましたが、大分県由布市の湯平(ゆのひら)温泉の旅館「つるや隠宅」の家族4人が7月7日深夜に車2台で避難所へ移動中、増水した大分川支流の花合野(かごの)川に流され行方不明になっていました。祖母の渡辺登志美(としみ)さん(81)は8日、約15キロ離れた大分川沿いで、遺体で見つかりました。23日には渡辺健太さん(28)、25日には旅館を切り盛りする母由美さん(51)の遺体が見つかりましたが、会社員の父渡辺知己(ともみ)さん(54)はまだ見つかっていません。渡辺健太さんは、「電脳女将」のアカウントで情報発信を一手に担ってきて、湯平温泉観光協会によりますと、将来の地域リーダーとして期待されていたそうです。約1年前には湯平温泉のPRキャラクター「湯平燈華(とうか)」も手掛けていました。まことに残念で、心よりご冥福を祈ります。

■ COVID-19第二波でも経済優先
 新型コロナウイルスCOVID-19の感染者は、世界的には4月から5月半ばに飽和傾向が見られましたが、その後北米、南米、ロシア、インド、アフリカと拡大して、今や右肩上がり、一方的に増える傾向です。アメリカでは毎日千人以上が死亡するというとんでもない状況です。日本は下のYahooニュースのグラフを見れば一目瞭然ですが、明らかに第二波とみられる様相を呈しています。イスラエルでも同じ傾向が出ていて、経済活動再開が早過ぎたと抗議デモが起きているそうです。スペイン、ベルギー、オーストラリアなど、各国で第二波が発生しています。ところが日本国政府は第二波を否定しています。と言うよりも、第二波と言いたくないというほうが正しいでしょう。7月22日新型コロナウイルス感染症対策本部で安倍首相は「感染状況の拡大を十分に警戒すべき状況にはありますが、検査体制の拡充や医療提供体制の整備が進んでいること、感染は主に若い世代の中で広がっており、重症者が少ないことなどを踏まえると、4月の緊急事態宣言時とは大きく状況が異なっています」と発言し、医師会などから猛反発を受けています。政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の専門家たちはどう言ってるのかと調べたら、さすがにこんないい加減な説明はしていません。感染を抑えるため「現時点で早急に取り組むべき対策」を提言し、尾身茂会長は「政府は直ちに具体的アクションをとってほしい」と求めていますが、この分科会提言を政府は事実上無視しています。それでいながら何故か「専門家の意見を踏まえて...」と言います。何を踏まえているのでしょうか。マスコミも何故か尾身茂会長の話を以前のようには採り上げず、岡田晴恵白鴎大学教授、二木芳人昭和大学医学部客員教授、松本哲哉国際医療福祉大学・感染症学講座主任教授、賀来満夫東北医科薬科大学特任教授などが頻繁に登場して来ます。その中でGo Toキャンペーンのスタートです。ブレーキを踏むべきときにアクセルを踏んでいます。緊急事態宣言の影響が余りにも大き過ぎて、もはやあんなことできない、多少感染者が増えても、死者が増えても経済を回さねば、というトラウマに陥っているのでしょう。


■ COVID-19で影響が大きかった業界
 世界中で実体経済が大打撃を受ける中、バーチャル経済はいち早く復旧しました。金融や株式など、ネットで取引する分野です。最も打撃が大きかったのは芸能・スポーツでしょう。欧州などと違って日本ではこれらは不要不急とされがちです。次にインバウンドが無くなった上に国内需要も激減した観光業界、旅館・ホテル業界、鉄道、航空、バスなど旅客運送業界です。飲食業界も大きな打撃を受けました。4月7日に7都道府県を対象に緊急事態宣言が発令され、飲食店には営業時間の短縮が要請されました。加えて「ステイホーム」の呼びかけでリモートワークを導入する企業が急増し、都心部の人口は激減、オフィス街周辺にあった飲食店は、完全に干上がってしまいました。5月25日に緊急事態宣言は解除されたものの、人の戻りは以前同様にはならず、厳しい状態が続いているようです。影響が大きかったのはキャバクラやホストクラブは論外ですが、居酒屋、ディナーレストラン(寿司屋などを含む)、喫茶、ファミレスの順で、ファストフードは都心部を除き極端な影響を受けず、むしろKFCやマックは絶好調です。今後都心部の飲食業界はリストラになるでしょう。

■ COVID-19で変わる生活
 2月26日に国の感染症対策本部がイベントなどの実施を自粛するよう要請を出し、これを境に翌日から人々の行動は大きく変わりました。外食業界では2月27日からガクッと売り上げが下がりました。「経営者の皆様へ、社員に通勤を頑張らせることは本当に必要なのでしょうか?がんばるな、ニッポン!これからもテレワークという選択肢を」というサイボウズの広告は典型的ですね。東京にしても大阪にしても都心部を中心に放射状に鉄道網、道路網が形成されていますが、みんなが毎朝都心部へやってきて、夕方以降蜘蛛の子を散らすように去っていくというニッポン型パターンは変わって行くようです。これまで都心部に近い高層マンションにヒトが移り住む傾向がありましたが、今後はリモートワークが進むことによって、逆に人口が都心部から周辺地域に分散すると言われています。ただし人口移動があるとしても、それほど地方までは行かないと言われています。東京に通勤していたエリア、千葉、埼玉、神奈川あたりまで、道路で言えば国道16号線の内側あたりと言われています。そして、オフィスが拡散して職住近接して来ます。ただ、最近は都市型水害や直下型地震も心配されていますから、企業もヒトもBCP(事業継続計画)最優先に考えれば、地盤強固で川から離れた丘の上、緑に囲まれた地域で職住近接というパターンになるでしょう。

■ 岩手県がCOVID-19感染者数ゼロのワケは健康的な生活
 新型コロナウイルス感染者数ゼロが続く岩手県の達増拓也知事(56)が7月24日、フジテレビ「直撃LIVE グッディ!」(月〜金曜13:45〜)に生出演しました。ジャーナリストの木村太郎氏(82)がロッテの佐々木朗希投手(18)を名指して、「岩手県というと私が連想するのは時速160キロ以上の球を投げられる投手を育てられる県。県民の体質として、そういう優れた保健とか健康面の特異性っていうのが岩手県の人にはあると思うんですがどうでしょう?」と質問すると、達増知事は「空気や水が良くて食べ物はおいしくバランスとれた食べ物をしっかり食べて…あと睡眠時間も全国では長い方ですので、かなり健康的な生活をみんなやっていると言えます」と答えました。感染者ゼロを続ける県民のプレッシャーについては「個人情報を守るべきところはきちんと守りつつ、感染者が出たとしてもその人が責められないようにあらゆる手段を尽くしたいと思います」と強調しました。

■ 藤井聡太棋聖、今年の竜王望み絶たれる
 7月25日の第33期竜王戦決勝トーナメント3回戦、ランキング戦3組決勝で師匠の杉本昌隆八段(51)を破って優勝した藤井聡太棋聖(18)と2組2位の丸山忠久九段(49)の対局は、千日手指し直しとなった末に、丸山九段が押しに押して勝利しました。例によってABEMAテレビで食いつきで観ていました。初対戦ですが、丸山忠久九段は藤井聡太棋聖の将棋をよく研究していた感じでした。ズバズバ指して、持ち時間の差がドンドン拡がっていきました。先の棋聖戦第3局で渡辺明九段が見せたパターンです。しかしヤレと言っても、真の実力が無ければこんなことは出来ません。ましてや千日手指し直し後は後手です。さすがは元名人、一分将棋に持ち込まれ、必死に粘った藤井クンでしたが、23時31分116手で投了となりました。ABEMAテレビかぶりつき・・・疲れました。

■ メシの差
 両者の差は何だったか?注文した昼食は、両者とも千駄ヶ谷の将棋会館出入りの出前5店のひとつ「鳩やぐら」のメニューから選択、藤井クンが「肉豆腐(キムチ)弁当」のご飯少なめ、丸山九段は「チキン南蛮+肉豆腐(キムチ)弁当」で、ご飯をそうめん大盛りに変更しました。2食分ですよ!値段も倍です。昼からこの食欲は丸山オジサンすごい。竜王戦は各5時間持ちなので夕食休憩も設定されており、藤井クンは「チキンガーリックバター焼き弁当」、丸山九段も「チキンガーリックバター焼き弁当」ですがご飯大盛りを注文、長丁場の体力勝負、メシの差だ!というのが筆者見解です。

ABRMAテレビの画像より


■ 第33期竜王戦の今後
 第3シード久保俊明九段(1組3位。44)は佐々木勇気七段(2組優勝、25)を破ってすでに準決勝進出を決めており、7月31日行われる丸山忠久九段と第2シード佐藤和俊七段(1組2位、42)の勝者との対戦になります。もう一方のヤマは、梶浦宏孝六段(5組優勝、25)が破竹の勢い、1回戦高野聡史五段(6組優勝、26)、2回戦石井健太郎六段(4組優勝、28)、3回戦で木村一基王位(1組5位、47)、4回戦で元竜王の佐藤康光九段(1組4位、50)を退けて、竜王7回の第1シード羽生善治九段(1組優勝、49、所沢市出身)と準決勝を戦います。羽生九段にはタイトル通算100期という大記録がかかっています。過去5組や6組から竜王挑戦者が出たことはありません。この戦いは注目です。決勝戦は三番勝負です。これを勝ち抜いて初めて、豊島将之竜王(30)との対戦となるわけです。

■ テレビ中継の解説も楽しい
 ABEMAテレビの中継は解説者が深浦康市九段(48)、中座真七段(50)、三枚堂達也七段(27)が交替で、聞き手は千葉涼子女流四段(40)と武富礼衣女流初段(21)が交替で勤めました。普段知らない棋士たちの人柄が分かるので、この解説も楽しいものです。開催中の叡王戦七番勝負で、永瀬拓矢二冠(叡王・王座、27)と豊島将之二冠(竜王・名人、30)が、5局戦った中で千日手1局、持将棋2局、200手超が3局という史上稀に見る大接戦になっていますが、深浦九段が解説に戻ると千日手指し直し、「ん?これも?」と思ったか、なおかつABEMAの中継に用いられている「SHOGI AI」が、指し直し局でも千日手の可能性があると表示すると、思わず笑っちゃいました。現役立命館大学生でもある聞き手の武富礼衣女流初段は「えっ…何か出ましたか?幻覚ですかね」とフォローしました。この二人は深浦九段が長崎県、武富女流初段が佐賀県出身で、上の有明海「潮受け堤防」のように隣県同士、九州談義に花が咲いていました。
 やがて局面を真剣に考えていると思われた深浦九段が、「なんか藤井さんのバッグ、ゾウさんに見えない?」と言いました。「ほら、目、目、鼻だよ」と続けました。どうやら藤井七段の後方に置かれていたグレーのバッグが、黒い部分が目に、手前に垂れた部分が鼻に見えたようです。武富女流初段は、この珍手を受けて「せんせぃ…待ってください、やめてくださぃ…」と、必死に笑いをこらえます。カメラがズズズズーッと“ゾウバッグ”に寄ると、「ほら、アップされちゃったじゃないですか」と、さらに笑い続けます。「(ゾウに)見えますっ!見えますけど、そこに目が行く先生がすごいです」と声を振り絞ると、完全に勢いづいた深浦九段が「(対戦相手の)丸山さんが気づかないことを祈るばかりです。気づいたらちょっとヤバいですね」と畳み掛け、武富女流初段は「ヤバくないです!」とようやく反撃、「ちょっと危なかったです…。息も絶え絶えでした」と、怒涛の深浦ラッシュで乱れた呼吸をやっと取り戻しました。

『歩』
歌手:北島三郎
作詞:関沢新一
作曲:安藤実親
 ♪肩で風きる 王将よりも
 ♪俺は持ちたい 歩のこころ
 ♪勝った負けたと 騒いじゃいるが 
 ♪歩のない将棋は 負け将棋
 ♪世間歩がなきゃ なりたたぬ

 ♪あの娘いい娘だ 離れもせずに 
 ♪俺を信じて ついてくる
 ♪みてろ待ってろ このまますまぬ 
 ♪歩には歩なりの 意地がある
 ♪いつか と金で 大あばれ


■ Go To 秩父
 5月25日に新型コロナウィルス感染症に関する緊急事態宣言の全面解除、6月19日に都道府県をまたぐ移動自粛要請が全面解除されました。そこで石和温泉、そして埼玉で一番の観光地;秩父へと立て続けのマイクロツーリズム...しかしその後7月に入ってCOVID-19第二波の模様なので、グッとこらえて旅行自粛中です。ここでは秩父小鹿野温泉旅館「梁山泊」に行った結果をご紹介します。埼玉県秩父郡小鹿野町大字般若260番地です。車なら関越自動車道花園IC〜秩父方面140号経由30分、電車なら西武池袋線西武秩父駅または秩父鉄道秩父駅下車です。高速道路を使わず、川越街道(国道254号線)でぐるっと大回りせず、最短ルートの狭山〜飯能〜正丸峠越え、芦ヶ久保フルーツパークからセメントの横瀬町、秩父市経由小鹿野町というルートで、一般道でも2時間かからない山越えルートを選びました。


■ 花と歌舞伎と名水のまち おがの
 「梁山泊」のある小鹿野町は、埼玉県の北西部に位置し、秩父盆地の西側にあります。町制施行も県内では川越に次いで古く、中心部の小鹿野地区は県内でもいち早く教育・交通・産業の振興など各分野で近代化が進められ、西秩父地域の中心地として発展しました。しかしながら公共交通機関などの交通網が無く、開発が進まなかったおかげで小鹿野には豊かな自然が残りました。日本百名山の両神山、日本の滝百選の丸神の滝、平成の名水百選の毘沙門水、日本の地質百選のようばけなどに代表される自然がたくさん残っています。2011年9月には、小鹿野町を含む秩父地域がジオパーク秩父として認定されました。これは日本全体で50地域しかありません。また、小鹿野といえば歌舞伎のまちとして知られます。役者から裏方まですべて住民が行うのも全国的に珍しく、地芝居として小鹿野歌舞伎は高い評価を受けています。小鹿野町のキャッチコピーは「花と歌舞伎と名水のまち おがの」です。

■ 盛岡高等農林学校秩父地質巡検の旅
 しかし筆者には小鹿野町で別の目的がありました。大正5(1916)年9月1日から8日間、盛岡高等農林学校農学科と林学科の2年生23名が、関豊太郎教授と神野幾馬助教授に引率され、秩父地方へ地質巡検を行いました。盛岡高等農林学校ではこの頃毎年、秩父地方への地質巡検をしており、いかにこの地が地質学にとって貴重な場所であるかがうかがい知れます。筆者の先輩である宮澤賢治がこれに参加していたのでその足跡にちょっと触れようと思ったのです。

 賢治はドイツ語の講習会受講のため7月末から東京に来ていました。賢治は花巻の裕福な家の生まれで、あの有名な彫刻家・画家で文人の高村光太郎が賢治の家を頼って疎開したほどです。同じく筆者の先輩である石川啄木が渋民村(現盛岡市玉山)で育ち、生涯を貧困の中で過ごし、東京都文京区で26歳で没したのとは対照的です。啄木死去時、賢治は盛岡中学(現盛岡第一高等学校)在学中で、先輩である啄木の影響を受け短歌を作ったりしていました。賢治は生涯で何度も東京を訪れており、それは家に財力があったためですが、それとともに父・政次郎の理解と弟・清六の支援があったことはつとに知られております。
 話を戻して、盛岡高等農林一行は9月1日19時盛岡発の夜行列車で上京し、翌2日12時53分上野着(乗車18時間!)、賢治は盛岡高等農林一行と合流して13時20分上野発の列車で熊谷に向かい、15時20分熊谷着、同地の「松坂屋」に泊まりましたが、熊谷直実とゆかりのある熊谷(ゆうこく)寺を訪れるなど、熊谷の町を散策したようです。熊谷市の八木橋百貨店に賢治の歌碑があります。
  「熊谷の蓮生坊がたてし碑の旅はるばると泪あふれぬ
  「武蔵の國熊谷宿に蠍座の淡々ひかりぬ九月の二日

■ 荒川を上りながら岩石採集、岩畳や虎岩を見学し、親鼻橋へ
 盛岡高等農林一行は9月3日早朝に熊谷駅から秩父鉄道に乗り込み、寄居〜末野〜国神(現上長瀞)へと移動しますが、途中下車して岩石を採集しながら荒川を上っていき、途中で再び鉄道に乗り、国神(現上長瀞)で下車したようです。この間、寄居の玉淀大橋のチョット上流、鉢形城址がある立ヶ瀬断層、さらに上って象ヶ鼻などクネクネ曲がる荒川河岸で岩石採取したようです。長瀞の岩畳ポットホール虎岩の結晶片岩を見学し、さらに親鼻橋付近の世界的に有名な紅簾片岩などを見学しました。


長瀞の岩畳・・・国指定天然記念物(筆者撮影)

虎岩(結晶片岩・筆者撮影)

 この日は国神村(現皆野町)金崎の「梅乃屋旅館」に宿泊したようです。その際、一学年下(生年は同じ)の親友・保阪嘉内(山梨県駒井村、現韮崎市に実家あり)に宛てた葉書中に9首の短歌を記したうち、岩石名を詠み込んだ一首「つくづくと「粋なもやうの博多帯」荒川ぎしの片岩のいろ」がよく知られています。これは、長瀞で「虎岩」と俗称される黒雲母片岩(現在では「スティルプノメレン片岩」)の岩肌が場所によって帯赤褐色の黒雲母(現在ではスティルプノメレン)と、その片理に直交する白色の石英や方解石が層状・脈状をなす様を博多帯の模様になぞらえたものです。


長瀞の埼玉県立自然の博物館前にある賢治歌碑(筆者撮影)

長瀞の日本地質学発祥の地の碑(筆者撮影)

 なお長瀞にある埼玉県立自然の博物館は入館料¥200、ジオパーク秩父日本地質学発祥の地と言われる所以が展示でよく分かります。見どころいっぱいですから是非見学されることをオススメします。関東地方で地面が地中に引き込まれる場所が2ヶ所あることが展示で分かりました。東京湾のど真ん中と、茨城県古河市近辺、渡良瀬遊水池や三県境のあるあたり、関東南部が「すり鉢プリン」と言われる揺れ易い地域である理由が分かりました。

■ 「ようばけ」や「皆本沢」を見て小鹿野町・寿旅館に宿泊
 9月4日には盛岡高等農林一行は国神から3台の馬車に分乗して小鹿野へ移動し、途中小鹿野町長留の赤平川右岸、鋭い刃物で切り取られたように高さ約100メートル、幅約400メートルに及ぶ白い岩肌がのぞく地層の大露頭「ようばけ」(国指定天然記念物、夕闇迫る谷あいで夕日に輝く崖にちなんで命名されたといわれます。新第三系の秩父町層の露頭で鯨や蟹などの多くの海生動物化石が産出されています)や「皆本沢」などを見学しました。ここで賢治は短歌を詠み、ようばけを見渡せる場所に建てられたおがの化石館には、2つの歌碑が寄り添うように並んでいます。
  宮澤賢治 「さはやかに半月かゝる薄明の秩父の峡のかへり道かな
  保阪嘉内 「この山は小鹿野の町も見へずして太古の層に白百合の咲く
皆本沢近くの小鹿野町三山の小鷹神社境内にも賢治の歌碑が建立されています。
 「霧晴れぬ分れて乗れる三台のガタ馬車は行く山岨のみち


ようばけ(国指定天然記念物)をバックに

 その夜、盛岡高等農林一行は小鹿野の「寿旅館」に宿泊したことが当時の館主・田保の日記から確認されたのですが、それはついこの前、2011年のことです。寿旅館は江戸時代から続く老舗でしたが、2008年に閉館。その後、歴史ある町並みの保存を進めていた小鹿野町が建物を購入し、改修工事を実施しました。思いがけない掘り出し物になったのは、館主が残していた38冊の日記帳でした。教育委員会が調べたら、大正5年9月4日のページに「盛岡高等農林学校生徒職員一行二十五人宿泊ス、午前中来館三田川村三山源沢ニ向ハレ夜帰宿セラル。原町箱屋辺迄ムカヒニ出リ」「本日午後盛岡高等農林学校御定宿の看板を掲げる…」と書いてあったのです。さらに9月5日のページには「盛岡高等農林学校関先生、神野先生、生徒23人を送る。パン代2円を入れ置く。馬車へよろしく頼み遣わす。生徒一行の石をも送る」と記録されています(注:賢治がこの時採集したと思われる結晶片岩のうち絹雲母片岩・滑石片岩・緑泥片岩・石墨片岩が岩手大学の農業教育資料館に所蔵公開されています)。田保館主の日記によれば、9月6日は「大宮」(秩父町)の「魚惣角屋旅館」に泊まる予定なので、小鹿野町の「馬車屋要吉」に指示して、一行の岩石標本を一足先に「角屋旅館」に運ばせておき、また、一行が三峯から空腹で到着することを予想して、「角屋旅館」がパンを買って用意しておくようにと、パン代2円を預けたというのです。なんと親切な人でしょうか。


■ 三峯神社に泊まり、秩父町の「角屋」に泊まり、盛岡へ帰る
 9月5日盛岡高等農林一行は白川村(現秩父市)の贄川(にえがわ)を経由して、三峯神社の登山口のある大滝村(現秩父市)の大輪(おおわ)へ進み、そこから三峯神社へ登ったようです。賢治は「峡流の白き橋かもふるさとをおもふにあらず涙あふれぬ」という歌を詠んでいます。その夜は三峯神社の参籠所(さんろうじょ=宿坊)に泊まり、賢治は「星月夜なほいなづまはひらめきぬ三みねやまになけるこほろぎ」と詠んでいて、山上では美しい夜空が広がる一方、小鹿野の町は激しい雷雨に見舞われていたようです。
 9月6日は三峯神社を出発して徒歩で下山し、秩父町(現秩父市)の市街に向かい、途中の影森村(同)にある橋立鍾乳洞(札所のひとつです)を見学して秩父大宮(現秩父市)の「角屋旅館」で宿泊したと推定されます。秩父町は、現在の秩父市中心部ですが、もとは“秩父郡大宮町”という地名でした。町の中央にある秩父神社の門前町・宿場町として発達したことで「大宮町」だったのですが、同じ埼玉県で、東北本線の大宮(氷川神社の門前町)が有名になると、こちらも“大宮”なので紛らわしくなり、1915年に秩父鉄道がこの町まで延伸したさい、駅名を“秩父駅”としたことから、町名のほうも、この1916年1月1日付で「秩父町」に改称しました。賢治が来た時にはすでに「秩父町」なのですが、長年の呼びならわしから、当時はまだ「大宮町」と呼ぶことが多かったようです。なお「角屋旅館」は現在の秩父市中町3の中町通りと東町通りの交差点の角にあったらしく、ご子孫はいま古美術「アトリエ古都」を営んでおられ、お名前も賢治さん、お父さんが宮澤賢治が宿泊したことにちなんで名付けられたようです。
 9月7日に荒川対岸の甌穴(おうけつ)を見て、長瀞町の秩父鉄道本野上の駅(現・野上駅)から汽車に乗って熊谷〜上野〜盛岡への帰途に着いたようです。賢治は「盆地にも 今日は別れの 本野上 駅にひかれる たうきびの穂よ」という短歌を残しています。この歌碑は秩父鉄道野上駅に建てられています。一行が夜行列車で盛岡に着いたのは9月8日でしょうか。当時の旅は大変だったのですね。


盛岡高等農林学校と宮澤賢治については次回触れます


■ 宮澤賢治で町おこし?・・・小鹿野町
 熊谷市から寄居町、長瀞町、小鹿野町には賢治の歌碑が合計8箇所建立されています。賢治の秩父地質巡検をいかにこの地域の人々が誇りに思っているかの顕れと言えるでしょう。筆者はまず小鹿野町役場庁舎の駐車場に車を停めて、賢治の歌碑を見学しました。
  「山峡の町の土蔵のうすうすと夕もやに暮れわれらもだせり
賢治が親友・保阪嘉内に宛てた葉書中の9首の短歌のひとつです。「もだせり」というのは黙(もだ)す、すなわち「黙った」ということです。山峡(やまあい)の町が果たして小鹿野町なのかは不明です。寄居町から末野、波久礼、野上、長瀞、皆野町金崎「梅乃屋旅館」と移動した間のどこかかもしれないし、翌日の小鹿野の「寿旅館」までの間かもしれません。小鹿野町には賢治の会もあります。


小鹿野町庁舎前にある賢治歌碑(筆者撮影)

 小鹿野町役場庁舎前の賢治の歌碑のところに、小鹿野町観光交流館「本陣」のところにも歌碑があると書いてあったので、地図の方向へ徒歩で向かいました。立派な建物があり「文化センター」と書いてあるのですが歌碑らしきものは見当たりません。ここはどうやら「小鹿野歌舞伎」のメッカみたいでした。中で「宮澤賢治の歌碑はどこにあるんですか?」と聞いてみましたが、「チョット...分かりません」ということでほかにたくさん居る職員に聞いてくれましたが、結局「今詳しいヒトが席を外しているので、戻ったら聞いてみます」とのこと、「ジャッ、イイですゥ〜〜」と言ってここを後にしました。町の文化センターの職員が誰も賢治の歌碑の在所を知らない...宮澤賢治で町おこしというわけではないのか?と首をひねりました。「詳しい人」というのは、どうやら教育委員会の人のようです。

■ 小鹿野町は老人クラブ発祥の地
 もう一度小鹿野庁舎に戻る道すがら、「総合センター」というボロボロの建物の前に「老人クラブ発祥の地」という立派な碑がありました。日本で最初の老人クラブは1946年に千葉県八日市場町(当時)で発足したそうですが、埼玉県で最初の老人クラブの発祥の地は小鹿野町だそうです。1952年に「長若としより倶楽部」が結成されたそうです。この発祥碑は老人クラブ20周年を記念して、1972年に建立されたそうです。


小鹿野町は老人クラブ発祥の地だそうです(筆者撮影)

小鹿野庁舎に戻って、賢治の歌碑在所を再確認したら、小鹿野町観光交流館にあるとのことで、車のナビで探しました。

■ 南高梅を買えました
 出発しようとしたら、道路を隔てて向かいに「JAちちぶ農産物直売所」があります。入ったらナント!南高梅を売っているではありませんか。しかも安い!実は近所のスーパーでも今年は早々に南高梅が売り切れて姿を消したので、馴染みの八百屋さんで聞いたら「今年は近年に無い不作らしくて、入荷が少ないのよ、予約も出来ない状態なんです」とのこと。コロナの影響でもあるのか?とネットで調べたら、和歌山県と三重県の南紀地区は「暖冬で梅の開花が早く、交配する虫の活動時期と合わなかったため、経験したことのないほどの不作」だそうです。仕方無い、今年は梅干しも梅漬けも諦めようということにしましたが、思いがけず遭遇したので、この直売所で南高梅をあるだけ全部買いました。良かった...でも10kgも無い、もっと欲しいなと思い、翌日も秩父市内の直売所に行ったら、ここにも有りました。ヨシ、来年から梅を買いに秩父へ来ようと思いました。帰宅後、梅を漬けました...雨続きで三日三晩の土用干しがまだ出来ません、8月2日は土用二の丑、この頃には出来るかな〜?

■ 寿旅館転じて小鹿野町観光交流館へ
 車のナビで探し、小鹿野町観光交流館「本陣」に向かいました。この辺りの通りはなかなか風情があって、ブラブラ散策したら楽しそうです。入場無料、中に入りました。ザクロの木もあり、「雨ニモマケズ」の歌碑もありました。となりに無料駐車場もあります。観光交流館の「宮沢賢治宿泊の宿」というページを見ると、小鹿野町は賢治が訪れて歌を残したことを誇りに感じているようです。歌は残したけれど、石は持ち帰ったみたいですね。


本陣寿旅館→今は小鹿野町観光交流館(筆者撮影)

奥には賢治の「雨ニモマケズ」の歌碑があります(筆者撮影)


■ 秩父小鹿野温泉旅館 梁山泊へ
 さてやっと秩父小鹿野温泉旅館「梁山泊」の話です。観光交流館「本陣」を出て車で5分も走れば「梁山泊」に到着です。ここは宿の裏が「赤平川」で、露天風呂から崖になって川原が眼下に見えました。「小鹿野温泉大竜寺源泉」だそうですが、キャッチフレーズは「高アルカリイオン泉」とのことでした。温泉分析表を見ると、pH10.0、オォなかなかだな、と思いましたが、泉温18.6℃、水じゃないの?25℃以上じゃないと温泉じゃなく鉱泉なのでは?と思いました。もしくは溶存物質総量1000mg以上とか...陽イオンはNa99mg、陰イオンは炭酸水素イオンHCO393.7mg、炭酸イオンCO370.9mg、メタケイ酸イオンHSiO427.5mg、メタホウ酸イオンHBO25.5mg、これだ!メタホウ酸イオンが5mg以上なら温泉だと法律で定義されているのです。したがってここでは24時間ボイラーで加温しているのです。カネがかかりますね。


「梁山泊」のエントランス、和風の宿です(筆者撮影)

露天風呂 柵の向こうは崖


■ 梁山泊のお料理
 夕食は個室のお部屋食でした。しかも大人おひとりお酒1本(お銚子)か生ビールその他サービスしますが何が良いですか?というので生ビールを頼みました。料理は和牛の陶板焼きと猪鍋、お刺身、茶碗蒸し、煮物、その他諸々、もちろん後でご飯やお吸い物もありますが、その前に手打ちざる蕎麦も出てきました。ご飯は結構と断りました。ただし、折角だから地酒をと、秩父錦の冷酒をオーダーしました。


盛り沢山の夕食、ビールサービス(筆者撮影)

宿自慢の手打ちざる蕎麦

 翌朝の朝食も、COVID-19感染対策を施した中で、大変美味しく頂きました。チェックアウトのとき、秩父のクッキーのお土産プレゼントと、お茶orラムネor秩父源流水をプレゼントという特典もありました。秩父源流水をオーダーしました。

■ 秩父ミューズパーク旅立ちの丘で夜景鑑賞
 「梁山泊」の特典の中に、「秩父ミューズパーク旅立ちの丘で夜景鑑賞」というのがありました。夕食終わって19時50分にマイクロバスで出発しました。クネクネと走って登って、秩父ミューズパークの中のいろいろなスポットも眺めながら、バスは旅立ちの丘に着きました。展望デッキから眺める秩父市の夜景を楽しむことができました。
 全国各地で歌われている卒業ソング「旅立ちの日に」の発祥の地・秩父をPRし、さらに広く歌い継がれていくことを祈念して秩父市は『旅立ちの丘』を造りました。このモニュメントは、展望デッキとなっていて、メロディーが流れる通路を進み、先端のステージでは、誕生の舞台となった影森中学校の生徒によるコーラス (2005年12月:音楽堂にて録音)が流れます。1991年に埼玉県の秩父市立影森中学校の教員によって作られた合唱曲で、作詞は当時の校長であった小嶋登先生、作曲は音楽教諭の坂本浩美(現・高橋浩美)先生でした。
  ♪白い光の中に 山並みは萌えて・・・♪このひろい大空に 夢をたくして 


秩父ミューズパーク旅立ちの丘、カップルにも人気のデートスポットです

秩父市街の夜景(筆者撮影)


■ 訃報
 山本寛斎さん・・・ファッションデザイナー イベントプロデューサーとして活躍した山本寛斎さんが 2020年7月21日 闘病むなしく 急性骨髄性白血病で死去されました 76歳でした 女優の山本未來さんは娘 俳優の伊勢谷友介さんは異母弟です
 弘田三枝子さん・・・ヒット曲「人形の家」で知られる歌手の弘田三枝子(ひろた・みえこ、本名竹永三枝子=たけなが・みえこ)さんが 2020年7月21日 22時31分 心不全のため千葉県内の病院で死去されました 73歳でした 前日までピンピンされていたとのこと
(2020年7月28日)


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