252  明治維新150年
 2018年となりました。毎年ゆえあってJR東日本のカレンダーを頂くのですが、今年は右です。表紙は使うと切り離されてもはや見られなくなる運命ですが、分かりますか?筆者は一目で「会津磐梯山」だ、と分かりました。すると手前を走るのは磐越西線ですね。車両は「TRAIN SUITE 四季島」です。翁島と磐梯町の間だそうです。昨年の204『熱海』(2017年2月8日)で磐梯山と会津について紹介しました。猪苗代駅から眺める磐梯山は、ウットリするほど堂々とした山です。
 このエッセイでは、高校と大学同窓会の新年会を主目的としながら、(伊豆)熱海温泉→東京→盛岡→仙台→会津東山温泉→磐梯熱海温泉と旅したことを紹介しました。メインは二つの熱海温泉の話題でした。

■ 会津藩と新選組で京都守護
 明治維新については、近年その真実が明かされてきました。実は英国が薩長(土肥)の西軍テロリストに資金援助して、フランスに支援された幕府との英仏代理戦争だったことが分かったのです。確かに若い坂本龍馬がどうしてあんな立派な軍艦を手に入れたのか?と考えると、その謎が解けますね。尊皇攘夷の浪士に手を焼いた幕府は、京都守護職を新設し、強力な藩をもって京都の治安維持にあたらせることとして、会津藩に白羽の矢を立てました。会津藩の士道「忠義」に共鳴した壬生義士組が幕末の京都で会津藩御預として「新選組」となり、浪士狩りに当たりました。


1月は白銀の我がふるさと雫石を走る秋田新幹線こまち号、寒そうですね、でも美しい

■ 戊辰戦争
 会津藩の庇護を受けた新選組は、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争に参戦するも、無念の敗北を繰り返し、戦争の舞台はどんどん東上、北上してついには会津へと移ります。平成25年大河ドラマ「八重の桜」の主人公“新島八重”は会津藩砲術師範の娘で、圧倒的な勢力を持つ西軍を向こうに回し、難攻不落の名城とうたわれた鶴ヶ城に攻め寄せる相手に、父譲りの鉄砲の腕を生かして、銃を片手に凛々しく勇ましく、まるで「ジャンヌ・ダルク」のように戦いました。1ヶ月にもおよぶ籠城戦でした。

■ 白虎隊
 会津藩では藩を守るために予備軍をいくつも編成していました。その中のひとつ白虎隊は16歳、17歳の若者たちで構成されていましたが、中には16歳未満の子どもながら年齢を偽って参加している者もいました。白虎隊もいくつかの隊で編成されていましたが、有名なのは飯盛山から見下ろした城下の焼ける有様を見て、もはやこれまでと自刃した20人の義士たちですね。

美しい鶴ヶ城

■ 白虎隊の生き残り
 実は年齢を偽って白虎隊に参加した飯沼貞吉は生き残ってしまいました。会津藩士の二男で、母は西郷家の出でした。会津藩家老・西郷頼母の妻千重子は父の妹です。飯盛山で飯沼貞吉も他の19人に遅れじと、咽喉に脇差を突き立てましたが死にきれずにいたところを救出されて、手当てを受け一命を取り止めました。その後、新政府軍に捕らわれ、見込みがあるとして長州藩士の楢崎頼三に引き取られました。頼三は彼をふるさと山口(現在の美祢市)へ連れて帰り、庄屋の高見家に預けて庇護しました。会津方にも長州方にも養育していることが知られると不都合が生じるため、飯沼の母に生存のみを知らせ、自らの家族や知人以外には存在を秘匿したそうです。当初飯沼貞吉は何度か自殺を思い立ったそうですが、ある日頼三は自殺しようとした貞吉に、「今、日本には外国船が押し寄せており、会津・長州と言っている場合ではない。日本人は団結して国を強くしなくてはならず、その担い手は若者だ。国の役に立てるよう勉強せよ」と諭し、以降貞吉は貞雄と改名して一心不乱に勉学に励んだと伝えられています。逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍しました。最後は仙台逓信管理局工務部長、日本の電信電話の発展に貢献したとして、正五位勲四等を受章しました。墓は仙台市の輪王寺にありますが、1957年(昭和32年)9月、戊辰戦争九十年祭に当たり、飯盛山にも墓碑が建てられました。

■ 仙台・輪王寺の墓参
 2017年11月11日(土)、仙台・輪王寺に99歳で亡くなられた大学の大先輩・阿部源祐さんの日帰り墓参に行ったことを244『三回忌』(2017年11月12日)で書きました。そのとき同じ墓所に眠る草刈遜(ゆずる)先生と佐藤利三郎先生のお墓にも手を合わせました。阿部源祐さんの同期の佐藤利三郎先生は、東北大学の教授として日本のアンテナの権威だけあって、墓地の最も高い丘の上に眠っておられました。お隣が白虎隊の生き残り飯沼貞吉さんのお墓でした。貞吉さんの曾孫・飯沼一虎君は、電子工学を学び、我らが同窓会の会員です。何も知らずに行った輪王寺で、偶然にも飯沼貞吉さんのお墓があった!不思議なご縁を感じました。
 しかもそれだけではありません。墓参に各地から集まる同窓生を待つ間、輪王寺の受付応接室で休ませていただくことになりましたが、壁に掲げられた額が目に入りました。それによりますと、2016年11月11日(金)明治記念館で開催された「第36回緑の都市賞」表彰式において、「輪王寺の森づくり」が緑の事業活動部門で都市緑化機構会長賞を、曹洞宗 金剛寶山輪王寺とエスペックミック株式会社連名で受賞されたとのことです。受賞理由は、「かつて樹高20mを超える杉並木であった参道が、敷地の下を通り抜ける県道トンネル工事のため、ほとんど伐採された。そこで、生命力あふれる森づくりをコンセプトに参道の復旧に取り組んでおり、その経験を震災復興の森づくりに生かし取り組んでいる」というものでした。
【ホームページでの事例紹介参照】公益財団法人都市緑化機構 エスペック株式会社 エスペックミック株式会社
 エスペックミック株式会社の前川社長とは、エスペックの宇都宮時代から親しくさせていただいて、様々な現場でご一緒しました。植物工場や、ビオトープ、水辺づくりなど、農業や都市の緑化に携わるその企業姿勢に共感し、あるときは連携し、またあるときは競合して、共に切磋琢磨した仲間であるだけに、この受賞はたいへん嬉しく思います。おめでとうございます。受賞からちょうど1年の日に、奇しくも輪王寺で、この額に、そして飯沼貞吉さんのお墓にも遭遇したことは、大学大先輩のお導きとしか考えられません。

■ 会津藩が下北に移封→その後県庁が青森に
 前回のエッセイでは、会津藩が戊辰戦争に敗れ、今の青森県の、あのマサカリのような形をした下北半島に斗南藩という小藩として移封されたことを紹介しました。会津も盆地で雪深いところですが、極寒の下北はよりいっそう厳しいところ、大変だったでしょうね。廃藩置県当初は弘前県でしたが、弘前藩、黒石藩の津軽と、南部藩、八戸藩の南部と、その間の下北の斗南藩(元会津藩)、そして北海道南端の渡島(おしま)半島、それらに取り囲まれたド真ん中の漁村に県庁を置いて青森県としたことを紹介しました。明治新政府の薩摩藩出身の役人が来て、青森に県庁を置いたのはスゴイ英断だったと思います。というのも弘前ではあまりに偏りすぎていますし、津軽と南部の対立という面からすると、そういうしがらみの無い斗南藩も含めてこの青森という地が最適という判断だったのでしょう。

■ 明治維新後の廃藩置県
 廃藩置県は明治4年に実施されましたが、山口藩出身の山縣有朋らが大蔵省の井上馨(小岩井農場の「井」の人)を味方に引き入れ、井上は木戸孝允(桂小五郎)を、山縣は西郷隆盛を説得しました。戊辰戦争後の薩摩藩における膨大な数の士卒の扶助に苦慮し、藩体制の限界を感じていた西郷は、中央集権化を密かに目指していた大久保利通の賛成も得ました。廃藩置県案は薩長両藩の間で密かに進められ、薩長の要人が木戸邸で案を作成した後に、公家、土佐藩、佐賀藩出身の実力者である三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈重信らの賛成を得ました。明治4年、新政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じました。藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられたのです。したがってかつて藩主だった家柄の方たちは皆東京に居るわけです。

■ 明治維新への川越藩の対応は?

 ところで幕末に我が住む一帯を治めていた川越藩は明治維新に対しどう立ち回ったのでしょうか?ふじみ野市の図書館で調べてみました。幕末に幕府側の藩として最も苦労したのは会津藩ですが、その次に苦労したのは恐らく川越藩だったのではないかと思われます。幕末の川越藩では国替えがありました。それまで藩主は越前松平氏の分家でしたが、幕府滅亡直前の1867年に前橋に転封になり、代わって奥州棚倉藩(現在の福島県東白川郡棚倉町に城あり)の松井松平氏が川越に入り明治維新を迎えました。この時の藩主は松平康英という人で、川越藩としての石高は8万石でした。康英は5千石の旗本出身でしたが、とても有能な人だったようで、幕府の要職(外国奉行→神奈川奉行→大目付→勘定奉行→南町奉行→奏者番兼寺社奉行)を歴任し、その後本家の棚倉藩松井松平氏の養子になり、1864年に藩主になると幕府の老中に就任しました。そして川越藩主になった1867年には老中のまま会計総裁を兼務することになったのですから、まさしく幕府の中枢的人物だったのです。しかし、1868年1月初めの鳥羽伏見の戦いに敗北した徳川慶喜が江戸に戻ってきました。新政府は、諸藩の大名に新政府に帰属すべく急ぎ京都に上洛するように布告を出して来ました。川越藩主康英は幕府の要職にあったため、近江にあった領地2万石が没収されてしまいました。ここからが、康英の有能さが分かる場面です。幕府に見切りをつけ、老中職を辞任して、家老を幕府討伐軍に派遣し、朝廷帰順を申し出て近江領の返還を求めましたが却下されました。それではと康英自らが静岡の討伐軍本部に出頭し、京都上洛を願い出ます。しかし、討伐軍としても幕府の重臣だった康英をおいそれと仲間とすることは出来なかったようで、名古屋で待機するよう命じました。その後康英の必死の活動の結果、やっと上洛が認められて、新政府に帰順することができました。この間、川越藩は農民一揆の鎮圧を命じられたり、討伐軍の荷駄の運搬や食料提供を命じられるなどものすごく苦労しましたが、忍藩(今の行田市が本拠、のぼうの城や陸王で一躍有名になりました)に比べると対応ははるかに上手でした。このあたりに藩主康英の政治家としての資質の高さが見られます。しかも明治2年(1869年)4月10日、家督を養子の康載に譲り隠居したのです。川越城の堀を埋め、官軍にひたすら恭順することで、川越の戦火を回避することに成功したのは特筆モノです。康載は版籍奉還を願い出て、知藩事となり、明治4年(1871年)廃藩置県を迎え、川越県となりました。以後、県庁が置かれた入間県・熊谷県を経て埼玉県に編入されました。川越藩の江戸藩邸・上屋敷は、現在ホテルオークラ本館が建っている場所、中屋敷は現在アークヒルズ内のサントリーホール、下屋敷は現在の高輪警察署近辺、いずれも良いところでした。見栄も外聞も無く、戦火を回避した松平康英はアッパレと言えるでしょう。

■ 京都デスティネーションキャンペーン

 毎年1月から3月までJRと京都市と京都市観光協会が展開するイベント「京都デスティネーションキャンペーン 京の冬の旅」は、第52回を迎えます。今年は「明治維新150年記念」と「西郷隆盛」をテーマに、非公開文化財特別公開をはじめ、ゆかりの地を定期観光バスで巡る特別コースや、「伝統産業・文化」、「朝観光・夜観光」、「京の食文化」の視点からさまざまなイベントを実施するそうです。

■ 日仏友好160周年
 今年は明治維新150年です。明治維新については様々な評価がされていますが、一言で言えば、欧米の文明を受け入れて日本が一大転換した出来事でした。江戸時代というのは実は世界史上稀に見る平和な時代でした。この中で今西欧が尊敬する様々な文化が培われたのです。
 宝島社は毎年正月に新聞見開き2ページの巨大企業広告を出します。今年はその意図を次のように書いています・・・太古より自然を崇拝し、異文化を融合させながら常に新しい文化を創造してきた国、日本。誠実、勤勉、礼節、友愛を尊び、調和を「美」とし、“独自のモノづくり文化”を大切に育んできました。いまや経済大国となった日本ですが、昨今、欧米の合理性を追い求めるあまり、自らの手で、その“モノづくり文化”を傷つけ、自信を失いつつあるように感じられます。今年は日仏友好160周年でもあり、これを記念する「ジャポニスム2018」がパリで開催される年のはじめに、あらためて「日本文化の素晴らしさ」について考える機会になればと思い、企業広告のテーマとしました。フランスを代表する二人の名優、アラン・ドロン氏(82)、ジャン=ポール・ベルモンド氏(84)からのメッセージを届けて、日本人の心を鼓舞。このメッセージが、いま一度、悠久の歴史によって培われた、日本文化の素晴らしさと自信を呼び覚まし、プロアクティブな行動に駆り立てるきっかけになれば幸いです・・・とのこと。
宝島社の2018年企業広告・・・昨今、日本はちょっと萎縮していないだろうか、という問題意識が出発点とのこと。アラン・ドロンの「ジャポンは、自信を持って世界をリードすればいいのに・・・」、ベルモンドは「その深くて大きい精神性にも、美意識にも、私は誉れと友情を感じている」という一言を添えています・・・・世界は、日本を待っている。

■ 日経平均株価は大納会比で約3.3%も上昇する幕開け
 2017年東京株式市場は、日経平均株価の年末の終値としては1991年以来26年ぶりの高値水準である2万2,764円94銭で大納会を迎えました。それでは2018年大発会はどうか?2018年は日経平均株価が741円39銭高と急騰する幕開けとなりました。年末に越えられなかった23,000円の壁をアッサリ寄りで突破すると、その後も右肩上がりで最後は綺麗な高値引け、最終的に大納会比で約3.3%もの上昇となりました。この勢いだとまだまだ上がりますね。コワイコワイ。

■ 有働アナ「あさイチ」降板

有働由美子
 NHKの有働由美子アナウンサー(48)が3月末で「あさイチ」(月〜金曜8:15〜)を卒業するそうです。この時間帯ブッチギリ1位の人気番組です。飾らぬ人柄とぶっちゃけキャラが魅力で、コンビを組むイノッチことV6・井ノ原快彦(41)との掛け合いが評判でした。いつも“朝ドラ受け”からスタートしました。ニューヨーク赴任から帰国してすぐ「あさイチ」を担当して8年間、NHKのトップに可愛がられ、紅白の司会などとにかく人気があったため、結婚も出来なかったのは無念なところもあるでしょう。恐らく疲れたのでしょうが、本当にご苦労様でした。後輩にポストを空ける意味もあったのではないでしょうか。後任はNHK「ブラタモリ」(土曜19:30〜)で人気を集める近江友里恵アナウンサー(29)とのこと。
近江友里恵


■ 「打てるものなら打ってみろ」・・・燃える男・星野仙一さん逝く

 楽天球団副会長で、中日や阪神、楽天で監督を務めた熱血野球人星野仙一さんがすい臓がんのため、2018年1月4日死去、享年70歳でした。
 この人ほど純粋に野球を愛した人はなかなか居ないのではないでしょうか。投手として常に全力で打者に対峙し、決して逃げることの無いひとでした。マウンドでのあの気迫、まさに「カッコイイ!」と思わせるピッチャーでした。投手というのは闘争心が無い人には出来ないポジションです。しかしながら弱気になればつい逃げたくなるもの、絶対そんなことが無い投手と言えば、野球が好きな人はほぼこの人の名前を挙げるでしょう。「打てるものなら打ってみろ」と打者を睨みつけての真っ向勝負、素敵でした。
 3球団で監督を務め実績を残したことも素晴らしいことです。どの球団で野球をやろうと、野球が好きなヤツが一番活躍できるようにとトレードも積極的に行いました。鉄拳制裁など、今の時代ならご法度ですが、殴られた選手が感謝する監督など普通有り得ません。それだけ人間愛に溢れていたから、誰からも慕われたようです。この人の人情話はたくさんありますが、メディアを大事にしたことも訃報記事が多方面から愛情を持って追慕を持って報じられたことが如実に示しています。残念だったのは愛妻を享年51歳で亡くされたことですが、めげずに野球界で活躍されました。
 人間いつかは亡くなります。早いか遅いかですが、追悼の多寡がその評価です。ご冥福を祈ります    合掌


殿堂入りを祝う会で挨拶する
星野仙一氏(2017年11月28日)

(2018年1月7日)


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