457  幸畑墓苑

 前回の続きです。JR東日本大人の休日倶楽部パスで旅した3、4日目、後半について紹介します。実は今回の旅の主目的は青森市の「幸畑(コウバタ)墓苑」の墓参りでした。119年前の明治35年(1902年)1月下旬、緊迫する日ロ関係を背景に、ロシアが日本に侵攻して八戸付近に上陸した場合、これを攻めるために八甲田山を越えて進軍しなければならないという想定で、「八甲田山雪中行軍」訓練が企画されました。大日本帝国陸軍第八師団第四旅団青森歩兵第五聯隊と弘前第三十一聯隊がともに厳寒のなか、出発しました。筆者の祖父の弟、すなわち大叔父さんがこの雪中行軍で亡くなりました。その墓参です。

■ 大人の休日倶楽部パス3日目…青森へ
 大叔父さんの墓参のため、上福岡−(東武東上線)→川越−(JR川越線)→大宮8:43−(東北新幹線はやぶさ7号全席指定席)→11:18新青森、速いですね、683kmをわずか2時間35分で走破するのですから、東海道新幹線と比べるとその速さが分かります。但しこのE5系車両は最新モデルではありません。電源コンセントが窓際に1個のタイプです。最新モデルは各座席の前に1個ずつ付いています。C席を取ったので、ノートパソコンはバッテリー駆動にしました。途中ずっとパソコンしていて外の景色を眺めなかったのですが、車内放送で「間もなく盛岡駅に到着します」と聞いて外を眺めたらなんと真っ白、白銀の世界です。盛岡駅で前部のこまち号と連結解除し、こまち号は左折して西へ向かい、雫石経由、秋田方面へと走って行きます。はやぶさ号はその後まっすぐ北へ向かいます。


盛岡駅西隣のマリオス展望室から見ると、北へ向かう東北新幹線と、左方向=西へ向かう秋田新幹線の分岐が明瞭です
日本百名山・岩手山の手前に見えるのは宮沢賢治の愛した鞍掛山


はやぶさ号(E5系) ここにも岩手山が見えます 矢巾あたりを走行中の写真と思われます


日本百名山・岩手山の南を秋田へ向けて走るこまち号(E6系。雫石・七ツ森付近で。林の奥は小岩井農場)

■ 青森駅は雪の中
 新青森駅でJR奥羽本線に乗り換えです。ヨシ、18分ある、わずかな時間で新幹線構内の蕎麦屋に駆け込み、かき揚げそばをすすりました。蕎麦屋を出ると目の前が在来線乗り換え口、改札を通り抜けて急ぎ乗り換えです。JR奥羽本線のホームは寒風吹きすさび、その寒いこと!JR奥羽本線11:36新青森駅発→11:45青森駅着。♪青森駅は雪の中、北へ帰る人の群れは誰も無口で、海鳴りだけを聞いている、さ〜よなら、あなた、わたしは帰ります♪・・・オット着いたばかりで帰るわけには行きません。青森駅に着いたら吹雪でビックリ、ホームも雪でグシャグシャです。歩きやすいトレッキングシューズを履いてきましたが、スノーブーツのほうが良かったかなと思うような路面です。傘を持って来なかった、寒い。上福岡駅から大宮駅までの移動では娘夫婦に頂いたダウンでは暑いなと思ったのに、ここではフードまで被りました。ダウンを着てきて大正解でした。

フードまで被った筆者・自撮り


青森駅市営バス3番乗り場からJ27系統田茂木野行き12時5分発を待ちます
 青森駅市営バス3番乗り場のところにも立ち食いソバの店がありました。値段見たら、新青森駅新幹線構内の店よりずっと安い!新幹線構内はNREプライスなので東京と同じ、コチラは青森市価格なのでしょう。同じくバスを待っていたおばあさんが「寒いね」と話しかけてきました。田舎の人は気軽に話しかけてくるのです。ここが都会と違うところ、嬉しくなりました。「どごへ行くのすか」、「幸畑墓苑です」などと話しました。駅前にはおなじみのルートインとか東横インといったホテルが並んでいます。バスはピッタリ定刻に来て発車しました。

■ 青森市幸畑墓苑へ
 あらかじめ「八甲田山雪中行軍遭難資料館」のホームページを見てバスの時刻表も確認していました。実は資料館前のバス停を通るバスは1日4本だけ、少ないのです。ほとんどは途中の「幸畑」バス停で降りて徒歩10分なのですが、この時刻の田茂木野行きは「幸畑墓苑」バス停に停車します。バスは乗客が結構多く、立つようなことはありませんが、乗降客が多いですね。運転手さんは雪面走行に慣れていて結構大胆に走ります。県庁通りとか市役所前を通り、棟方志功記念館通りなどというバス停もあって、郷土の偉人・棟方志功画伯の記念館があるんだな、と思うのです。やがて「筒井」と言う地域に入り、「青森高校前」というバス停がありました。ここがかつて陸軍第八師団第四旅団青森歩兵第五連隊の兵営だったところです。そうか、ここから雪中行軍訓練に出発したのか、と感慨深く眺めました。やがて「幸畑」バス停を過ぎ、定刻12時35分に「幸畑墓苑」バス停に到着、料金¥410を払って降りました。雪道を30分も走ったのに正確な時刻を刻むとは青森市営バスはスゴイ!八甲田山雪中行軍遭難資料館正門は目の前でした。

八甲田山雪中行軍遭難資料館(青森県青森市幸畑阿部野163-4)
 資料館受付で担当の男の方に入館料金¥270を払おうとしたら、「70歳以上無料」と書いてあります。「あの〜コレ」と免許証を見せたら無料になりました。ラッキー!というほどのことでもありませんが...この資料館は青森市の施設で、管理運営は(一財)青森市文化振興財団に委託しているそうなので、この方はその職員でしょう。「あの、〇〇〇〇の墓参に来たのですが...」と話したら、資料を持ってきて詳しく説明してくださいました。お蔭で当時のことが良く分かりました。
 雪中行軍の死亡者は圧倒的に岩手県出身者が多く、次いで宮城県でした。当時は家を継ぐのは長男で、次男以下は家を出て行くので、最も就職するのに安定しているのは軍隊だったのです。東北の陸軍の本営は弘前なので、青森県人は弘前入営が多く、青森入営は岩手や宮城の若者だったようです。この雪中行軍の司令官は神成大尉で、写真を見るとキリリとしたイケメンです。編成は「特別移動大隊本部」12名;山口少佐(東京出身)他大尉2名、少尉2名、軍医1名、特務曹長4名、軍曹1名、看護長1名、「第一小隊」47名;神成大尉、伊藤格明中尉、曹長1名、伍長4名、看護手1名、上等兵6名、1等卒20名、2等卒13名、筆者の大叔父は序列26位でした。「第二小隊」42名、「第三小隊」41名、「第四小隊」45名、「特別小隊」23名でした。

青森歩兵第五聯隊210名の英霊写真
我が大叔父・兼松(第一小隊伊藤格明中尉の下3人目)の写真はありません 遺族から提供が無かったのでしょう

■ 八甲田山雪中行軍と遭難顛末
 詳細は「ななめのつぶやき」55『死の彷徨』(2004年1月25日)をご覧ください。もうすぐ120年になりますが、明治35年(1902年)1月23日の朝6時半、大日本帝国陸軍第八師団第四旅団青森第五聯隊210名は穏やかな天候の下、青森連隊兵営地(現青森高等学校)を出発しました。しかし天候は次第に悪化し、昼食の握り飯が凍り付いて食えない程の吹雪となったのです。この時、帰営すべきとの意見もありましたが、部隊は前進を選び、先の見えない雪景色の中へと突入して行きました。行軍には橇隊が同行しており、これが遅れの原因となりました。午後8時頃には既に露営地として設定していた田代の温泉宿に辿り着くことは不可能と判断され、露営が命じられます。しかし雪濠を作ろうにも2メートル以上掘り続けても土が見えず、仕方なく雪の上で炊事を行うと、火が雪を溶かし、うまくいきません。気温は氷点下20度を下回り、酒も凍り付き、兵士たちは凍死を防ぐためにほとんど仮眠もとれませんでした。この時、大隊長であった山口少佐が部下の神成大尉に帰営を命じたのですが、時は翌24日の午前1時で、まだ日が昇る時間ではありません。午前2時半、雪中行軍隊はその暗闇の中を出発するも、すぐに進むべき道が分からなくなります。しかし彼らは帰路を求めてひたすらに進みます。風雪が激しく彼らの体に打ち付け、顔は凍り付き、手足の指は凍傷を発症し、やみくもな帰営行軍は兵士たちの体力を急激に失わせて行きました。後から分かったことですが、実はグルグルと同じようなコースを回っていたようです。やがて25日の朝が来た頃には全体の三分の一が既に命を失い、もう三分の一が凍傷によって体の自由を奪われていました。残る三分の一は比較的健全でしたが、生き残った者たちは救援隊の集団幻覚を見るほど追い詰められていたのです。そして翌26日には、生き残っているのはわずか40人弱となっていました。救援活動は24日には始まっていたのですが、やっと見つかったのは27日になってからでした。最初に発見されたのは、雪の中で仮死状態のまま立っていた後藤房之助伍長で、軍医の手当てによって回復した後、雪中行軍隊の状況がその口から伝えられました。それから捜索が進められ、雪の中に倒れている兵士が2人発見されたものの、激しくなる吹雪に阻まれ、本格的な救援活動は28日からとなりました。大人数の救援隊が組織され、捜索が行われました。北海道から寒さに強いアイヌの人たちも捜索に加わりました。雪中行軍隊210人のうち、生存したまま救助されたのは17人のみで、さらにそのうち6人は病院に入院後、治療の甲斐なく死亡し、最終的に生きて帰ることができたのはわずか11人でした。生き残った者たちの中でも、8人は凍傷のために手足を切断することになりました。生存者は2月2日以降発見されることはなく、そこからは遺体の捜索が行われたのですが、雪山での捜索は限界があり、二重遭難の可能性が強いため、最後の死体が見つかったのは雪も解けた5月28日だったそうです。我が大叔父も5月10日に見つかったと記録されていました。1971年(昭和46年)、作家の新田次郎がこの事件を詳細に取材し、『八甲田山死の彷徨』という小説を書き上げました。そしてこの小説を原作として、1977年(昭和52年)、映画『八甲田山』が公開されます。この映画は当時の日本映画における歴代配収新記録を打ち立てました。東宝でブルーレイ/DVDリマスター版が発売されています。またこの映画で北大路欣也さんが演じた神田大尉(実際は神成大尉)の「天は我々を見放した」というセリフは当時の流行語になり、「上に立つものはどんな時でも弱音を吐いてはいけない」という教訓として、企業研修などでもたびたび使われるようになりました。なお、『八甲田山死の彷徨』という小説はあくまで新田次郎が取材をもとに創作したものであり、生存者の口から後日語られたところによれば、事実とは異なる部分も随所にあるそうです。弘前第三十一聯隊がカッコよく描かれていますが、それは10日以上かかって弘前に帰還したことの素晴らしさを讃える意味ではその通りですが、現実にはいろいろ美談には出来ない部分もあったようです。青森県十和田湖町出身の元時事新報新聞記者;小笠原孤酒(本名・小笠原広治)が退職後、青森県に戻り雪中行軍遭難事件の史実を調査し大量の資料を集めて、新田次郎を紹介されその資料を寄贈し「八甲田山死の彷徨」が出版されベストセラーとなったようです。



映画『八甲田山』、史上最悪の大寒波、猛吹雪の中立ちすくむ大日本帝国陸軍第八師団第四旅団青森第五聯隊の兵士たち

■ 八甲田山雪中行軍遭難資料館の展示
 八甲田山雪中行軍遭難資料館の展示を見る前に、まずは外の墓苑のお墓にお参りしました。雪に覆われた墓標は、さながら雪中行軍遭難者を弔うのにふさわしいシチュエイションに感じました。「こんな寒い時期に記念館を訪れるのはご遺族だけです、ホラ、あそこの一番末尾の石碑に花が添えられているのが見えますか?」と係の方が親切に説明して下さいました。結局資料館に居た2時間に、ここを訪れたのは筆者のみでした。墓石の配列は、見事に当時の階級そのもので、大きさも階級に応じて大〜中〜小となっていました。

階級によって墓標の大きさも厳然と違う、軍隊とはそういうものなのですね


青森歩兵第五聯隊左側の墓標群


我が大叔父・兼松の墓標 寒かっただろう、冷たかっただろうと思いを馳せて手を合わせました


左上:青森歩兵第五聯隊駐屯地の正門 下左:聯隊長の神成大尉 下中央:後藤伍長 右下:山口少佐


弘前第三十一聯隊の写真は、実際に当時撮った写真だそうです 右下は福島大尉、イケメンです


馬立場にある後藤伍長銅像の同サイズレプリカが資料館玄関ドアを開けると佇立しています
 展示室には当時の時代背景と、陸軍の装備、雪中行軍時の服装、靴などが展示してあり、軍服の着服体験や背嚢を背負ってみることが出来ました。下写真は、生き残った11人の記念写真です。雪中行軍隊210人のうち、生存したまま救助されたのは17人のみで、青森衛戍病院に入院して治療を受けました。そのうち6人は病院に入院後、治療の甲斐なく死亡しました。映画『八甲田山』で三国連太郎が扮した山口少佐は、実際の写真が上のように残っていて、リリー・フランキー的風貌ですね。1月31日に救助され、2月1日に入院して、2月2日に心臓まひで死亡したという記録が残っています。一説には責任を感じて病院内でピストル自殺したとされていますが、展示を見ると自殺ではなく、陸軍による薬殺だろうというのを初めて知って、そうなのかと納得しました。凍傷を負った指でピストルの引き金を引けるはずがないという疑問や、病院内で発射音を聞いた記録が無いそうです。弘前大学医学部の鑑定で、心臓が弱っていたところに高濃度のクロロフォルムの注射で心臓が止まったのだろうとされました。陸軍が責任回避のため、余計なことをしゃべってもらっては困ると薬殺したのだろうとされているそうです。最終的に生きて帰ることができたのはわずか11人で、そのうち凍傷を免れたのは倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の3人のみで、生き残った者たちの中でも、8人は凍傷のために手足を切断することになり、浅虫転地療養所で静養しながらの治療後、兵役免除となって帰郷しました。
 筆者の大叔父兼松は伊藤中尉の随行員で阿部卯吉一等卒と共に行動していたようです。倉石大尉と伊藤中尉は雪の中抱き合って、何日経ったかわからない状態でしたが、奇跡的に凍傷を負わなかった理由として、倉石大尉は東京で目にした舶来のゴム長靴を購入してそれを履いていたことが良かったようです。革靴の上に藁靴ではダメだったみたいですね。ただこれら将校の周りを我が大叔父など下級兵が取り囲んで寒さから守ったことが生還の理由でした。しかし倉石大尉と福島大尉はのちの日露戦争で戦死、伊藤中尉と長谷川特務曹長は日露戦争で重傷を負ったそうです。生きるも地獄の時代だったんですね。阿部卯吉一等卒は退院して兵役免除となって岩手県紫波郡紫波町に帰郷し、手指、足切断にも関わらず、大工の腕を生かし、不自由にめげず机やタンスを作っていたそうです。昭和31(1956)年、渋谷での身体障害者全国大会の席上で、昭和天皇・皇后両陛下ご臨席の下、厚生大臣から表彰されました。また昭和37(1962)年の八甲田山雪中行軍遭難60周年記念式典には、82歳の高齢にもかかわらず羽織袴の元気な姿で列席されたそうです。
 2時間は短い時間でした。あっと言う間に過ぎた気がして、後ろ髪を引かれながら資料館を後にしました。帰りのバスは14時36分発、青森駅まで行かず、手前の新町1丁目で降りてビジネスホテルにチェックインしました。実は温泉オタクの筆者には、ここでも目指すところがあったのです。

■ 3日目夜は青森市泊、青森まちなか温泉へ
 ビジネスホテルで良しとしたのは「青森まちなか温泉」があったからです。青森市街地で唯一の源泉の湯「古川温泉」を使った大風呂・露天風呂・薬湯・子供風呂・水風呂・大型サウナなどがあるのです。しかも入浴料が¥450と格安!大きなサウナ室から出た後、露天風呂スペースへ行けば、外気の寒風で水風呂不要なくらいです。源泉はナトリウム-塩化物泉(低張性弱アルカリ性高温泉)で癖が無く、やや黄みがかった湯です。常連さんと思しき人たちで結構混んでいました。なお食事処などももちろんあって、安いようでした。風呂上がりに青森の市街地を散策しました。



大浴場

露天風呂

■ 4日目…青森駅からつがる2号で秋田へ
 翌朝ホテルから青森駅へ歩いて行く途中、青森駅前の「AUGA(アウガ)」という施設の地下に「新鮮市場」があったので寄りました。まあすごい市場で、八戸市には八食市場という有名な市場がありますが、ここは海産物一色でした。80軒以上の商店がひしめいていました。ここですき昆布を買いました。青森駅からJR奥羽本線で秋田に向かいました。つがる2号2号車17番C席をとりました。

つがる2号はきれいな車両です
 つがる2号は新青森→浪岡と快適に走ります。進行方向左手には八甲田連峰がきれいに見えます。しかし右手の岩木山は残念ながら上にスッポリ雲がかかっています、残念。やがて弘前に着くと岩木山にかかるきれいな虹が見えました。左手は黒石ですね。弘前を出て、途中弘南鉄道が分岐する大鰐温泉駅に着くと、駅前に「湯の駅 鰐.com」がありました。今度来よう!と思いました。やがて碇ヶ関です。指定席は空いています。大人の休日旅と思われる老夫婦が結構見受けられますが、押しなべて奥さんが若く見えます。旦那は白髪や薄毛ですが、奥さんは実年齢もやや旦那より下かもしれませんが、毛染めしたりお肌のお手入れをしているので、随分歳の差があるように見えます。津軽湯の沢という駅を過ぎてトンネルに入りました。恐らくトンネルを抜ければ秋田県でしょう。陣場〜白沢と通って大館へ着きました。言わずと知れた名産「曲げわっぱ」の里ですね。江戸時代に佐竹公が領内の豊富な天然秋田杉に目を付け、武士の内職等に薄板を曲げて作らせたようです。主におひつや弁当箱、わっぱ飯などに使用されます。大館は「秋田犬」でも有名です。
 秋田の民謡と言えば、知らぬ人がいないでしょう、秋田音頭です。
 ♪ヤートセー コラ 秋田音頭です
 ♪ハイ キタカサッサー
 ♪ヨイサッサ ヨイナー
 ♪コラ いずれこれより ご免こうむり
 ♪音頭の無駄をいう(アーソレソレ)
 ♪お耳障りも あろうけれども
 ♪さっさと出しかける
 ♪ハイ キタカサッサー
 ♪ヨイサッサ ヨイナー
 ♪コラ 秋田名物 八森ハタハタ
 ♪男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)
 ♪能代春慶 桧山納豆 大館曲げわっぱ
 ♪ハイ キタカサッサー
 ♪ヨイサッサ ヨイナー
 ♪コラ 秋田の国では 雨が降っても
 ♪唐傘などいらぬ(アーソレソレ)
 ♪手頃な蕗の葉 さらりとからげて
 ♪サッサと出て行がえ
 ♪ハイ キタカサッサー
 ♪ヨイサッサ ヨイナー
 ♪コラ 秋田の女ご 何どしてきれ(綺麗)だと
 ♪聞くだけ野暮だんす(アーソレソレ)
 ♪小野小町の 生まれ在所を お前はん知らねのげ(以下略)
 ちなみに男鹿ブリコの「ブリコ」とはハタハタの卵です。秋田を走るつがる2号、昨日とは打って変わって好い天気です。もっこりした山がぽこぽこと続きます。木がいっぱい生い茂って、あ〜SDGsだ、という感じです。杉林が多いですね。松も枯れていません。人家の屋根に瓦がありません。雪が落ちやすいようにトタンかスレート葺きです。秋田内陸縦貫鉄道乗換駅の鷹ノ巣駅に着きました。ここから角館に行けるわけです。田園が拡がり、サギがいっぱい居ます。二ツ井を過ぎて、五能線乗換駅の東能代に着きました。八郎潟で「リゾートしらかみ」号とすれ違いました。テーブル席でお食事してますね。人家がやたらと多くなったなと思ったら終点秋田駅でした。

■ 秋田駅で名物弁当購入
 秋田駅からこまち24号12時13分発の指定を取ってあります。大宮駅15時39分着です。秋田駅で駅弁を買いました。花善の比内鶏めし弁当¥1,200です。新幹線の中で見た「トランヴェール」で紹介されていました。花善は大館だそうですが、秋田県人で花善を食べたことのない人はいないのではないか、とのこと。ステーションビルの「トピコ」で買おうかと思いましたが、NewDaysの表で売っていました。大人の休日倶楽部の切符を見せたら1割引きになりました。これこそラッキー!食べてビックリ、美味い!これはまた買いたい、と思う味です。

花善の比内鶏めし弁当¥1,200



秋田新幹線こまち24号(E5系)
 秋田駅発こまち号は前にも乗りましたが、とても違和感があります。後ろ向きに発車するのです。大曲までこの状態が続きます。大曲と言う地名の意味がここで分かります。鉄道も、道路も、川も、ここで大曲がりするのです。秋田新幹線は大曲から前向き走行に変わります。角館、田沢湖、雫石と走行します。雫石で見た風景、駒ヶ岳から岩手山までのきれいな山並み、あ〜やっぱり雫石はきれいだ、最高だ、そして4日目の旅も終わり、秋田駅−(秋田新幹線こまち24号指定席)→大宮−(JR川越線)→川越−(東武東上線)→上福岡で帰ってきました。ふじみ野はいい天気でした。

■ 仕上げはやっぱりエコパへ
 上福岡駅へ迎えに来た車でエコパに向かいました。バーデプールで歩いて、露天風呂に入って、帰宅しました。やはり旅の仕上げは風呂に入らなければなりません。

■ 事業譲渡・承継がいま問われています
 2021年12月10日放送のNHK総合「NEWS おはよう日本」で、「中小企業に後継者を!事業譲渡のカギは?」が放送されました。経営者の高齢化が進む中、後継者が見つからないなどの理由で中小企業の休業や廃業が増えていることを捉えて、大変時宜を得た企画・放送でした。2020年の中小企業の休業・廃業は4万9698件と、コロナ禍もあって前の年より15%も増加しました。そのうち実に6割以上が黒字だったのです。これはもったいない!ということで、後継者を探して事業を承継するためのカギを探るのがこの企画でした。
“名物チキンの味” 承継 「支援センター」活用
 事業を譲渡する相手を探している企業と譲り受けたい企業を結び付ける支援を行っているのが、国からの委託を受けて都道府県の商工会議所などが窓口を設けている「事業承継・引継ぎ支援センター」や「日本政策金融公庫」です。こうした仕組みを通じて事業が受け継がれたケースが紹介されました。盛岡市中心部にある「平船精肉店」のケースです。1960年創業、看板商品のローストチキンには固定客がついていて堅実な売り上げを続けていました。お客さんは「味がしみている」とか、「よそでも売っているが、ここの味でないと落ち着かない」というのだそうです。こうした声を受けて、この店は4年前、創業者の平船繁さんから、地元に住む当時30代の竹林誠さんに事業が引き継がれたのだそうです。そのころ平船さんは、80歳を間近にして体力的な限界を感じていました。守り続けてきた味は残したいが、身内に若い後継者の候補はいない・・・そこで頼ったのが地元の支援センターでした。平船さんは「突然(店が)消えると客は困るのではないか。そういう意味ではなんとしても残していきたい」という気持ちだったそうです。一方、店を引き継いだ竹林さんは福祉関係の企業で働いていました。親が飲食店を経営していたこともあり「いつかは独立したい」と考えていたところ、紹介されたのがこの精肉店だったのです。引き継いだ当初は、ローストチキンの焼き方から肉のさばき方まで、慣れない立ち仕事に体もきつかったそうです。店を引き継いだ以上、ネットを活用した販売や情報発信を行い、コロナ禍の中でも売り上げを確保してきました。竹林さんは、既存の事業を引き継ぐことが独立の夢を実現する近道になったと言います。「固定のお客様もついているし、最低限の売り上げは確保できた状態でトップがかわるという形だと思うので、起業したい人にとってリスクは極限まで低いのかな」と話していました。

1960年創業「平船精肉店」の看板商品;ローストチキン NHKのホームページより

中小の事業譲渡は「義理・人情・浪花節」
 国内には後継者がいない企業が127万社もあると言われています。そうした中、事業譲渡を仲介する民間のビジネスも拡大しています。東京千代田区に本社がある、中堅中小企業を対象に事業譲渡の仲介を行う会社「日本M&Aセンター」は、全国各地にコンサルタントを配置し、地域の金融機関などとも連携して事業を譲渡したい企業と、譲り受けたい企業の情報を収集し、マッチングを提案しています。例えば、富山県の金属加工会社が愛知県の鉄鋼製品卸売り会社に事業を譲渡するなど、広範なネットワークを生かして地域を越えたマッチングも実現、これまでにまとめた案件は7000件にも上るといいます。社長の三宅卓さんに中小企業の事業譲渡を成功に導く秘けつを聞くと、「譲渡企業がつくってきた歴史・技術・ブランド・のれんを『引き継がせてもらうんだ』という敬意を払うことがすごく大事」、「中小企業は社員が20人30人なのでオーナー社長の顔が見えている。社員からしてみれば(社長は)『おやじさん』。そのおやじさんがリタイアして違う会社に買われる。これは非常に心配で、寂しさもあるし、つらい」、「だから買った側のオーナーがきちんと自分の顔を出して『私がこういう意思のもとに皆さんの会社を買わせてもらった』『これからこんな経営をしていきたい』と自分が顔を出して自分の言葉で説明することが大事」、「中小企業のM&Aは本当に人間くさくて、泥くさくて、義理と人情と浪花節、そこをきちっとやらないと成功しない」。日本では働く人の7割が中小企業に勤めていて、廃業の動きが続けば経済全体にとっても大きな損失となります。とりわけ、黒字の企業の後継者をどう見つけてくるか・・・経営者の高齢化が進む中で喫緊の課題となっています・・・というのがこの放送の骨子でした。実に良くまとめられていて、視聴者には大いに役立ったと思います。

■ 生涯未婚率のデータ
 11月末に、2020年国勢調査の人口等基本集計の確定結果が発表されました。それにより2020年時点の50歳時未婚率データを見ると下記の通りです。女性のトップが高知県、東京よりも高いとは意外でした。女性の上位に大都市が多いのは、仕事を求めて集まるからでしょう。男性をみると、北東北3県がTop3、概して東日本が高く、西日本が低いという傾向です。背景色がベージュ色が西日本、薄青が東日本です、明らかに男女で傾向が分かれます。未婚女性は西日本が多く、未婚男性は東日本が多いのです。高知県は男でも5位です、男女とも高知、沖縄が高いのは、「暖かい」ことが要因の一つでしょう。北東北3県は、女が仕事を求めて都会へ行ってしまうので、相手が居ないという悲しい現実にさらされているのでしょう。では何故男の第4位が埼玉なのか?これは謎です。
 
 このデータを発表した「東洋経済online」では次のように書いています・・・男女の生涯未婚率のエリア差をみてわかるのは、仕事を求めて若年層の人口流入の多い都市部においては、女性の生涯未婚率が高くなり、反対に、若年層の人口流出の激しい地方においては、男性の生涯未婚率が高くなるということです。その要因のうちのひとつが経済問題であることは間違いありません。30年間も平均給与が上がらない日本・・・そんな雇用環境を突きつけられて、たとえ正社員であっても年収300万円に達しない若者も大勢いるのが現状です。正社員として雇用されたとしても「45歳定年制」などといわれ、自分が40代を過ぎた時に安定した収入を維持できているか不安ばかりが煽られています。加えて、子育てや教育費など結婚後にはより一層のお金がかかるという情報も溢れています。そんな状況下では、「経済生活たる結婚」に踏み切れない若者がいたとしてもそれを責めることができるでしょうか。それを「草食化」などという根拠のない価値観のせいにして、若者を責めても意味がないでしょう。結婚や子どもを産みたい若者を「お金がないから」という理由で諦めさせないよう、大人たちのお膳立てが求められているのではないでしょうか・・・ウーム、そうなんでしょうね。それは間違いないでしょうが、悲し過ぎますね。どうしてこんな日本になってしまったのでしょうか。

■ F1・・・ホンダ30年ぶり総合Vで有終の美飾る
 自動車のF1シリーズ最終第22戦、アブダビ・グランプリ(GP)は2021年12月12日、アブダビで決勝が行われ、レッドブル・ホンダの24歳、マックス・フェルスタッペン(オランダ)が今季10勝目、通算20勝目を挙げ、ドライバー部門初の総合優勝を果たしました。今季限りでF1活動を終了するホンダはマクラーレンと組んでいた1991年のアイルトン・セナ(ブラジル)以来、30年ぶりの同部門制覇です。
(2021年12月13日)


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