55  死の彷徨

 本州の最北端青森県はバンザイしたような形の県である。そのど真ん中にあるのは・・・そう、八甲田山である。青森市荒川寒水沢の八甲田スキー場で2004年1月24日から行方不明になっていたオーストラリア人の女子大学生、アデール・パーブリックさんは25日午前6時10分ごろ、同スキー場ゲレンデ近くの斜面にいるところを、スキー場の圧雪車運転手に発見された。けがはなく、元気という。青森県上北郡、南津軽郡、青森市、および黒石市に広がる山塊を八甲田山と呼び、荒川を境に、北八甲田連峰と南八甲田連峰とからなっており、十和田八幡平(はちまんたい)国立公園の一角にある。八甲田山は独立峰ではなく、名の如く八座で構成される山であり、八ヶ岳や赤城山のような・・・と言えば関東の人にはイメージが湧くだろうか。北八甲田連峰の主峰は、八甲田大岳である。独立峰の岩木山とともに日本百名山に選定されている。青森市から真っ直ぐ南、十和田湖の北に位置する。

■日本映画史上に残る名作
 ちょうど102年前、この山で悲劇が起きた。厳冬の八甲田に挑んだ雪中行軍で、210名中実に199名が死亡するという、日本の山岳遭難史上、最悪の記録として残った事件である。気象学者でもあった新田次郎は、この遭難を「人災」の面からとらえてドキュメンタリータッチの小説にした。『八甲田山死の彷徨』である。東宝から映画化もされ、北大路欣也の神成大尉、高倉 健の福島大尉他、豪華キャストを揃えた日本映画史上に残る名作である。現実に厳冬期の八甲田で2年にわたりロケしただけあって、劇場で見るド迫力の大画面は、厳しい自然の猛威をまざまざと伝えてくれた。小説と映画では異なる部分もあるのだが、歴史的事実よりドラマチックになっているのは致し方ない。


映画『八甲田山』、史上最悪の大寒波、猛吹雪の中立ちすくむ大日本帝国陸軍第八師団第四旅団青森第五聯隊の兵士たち

■冬の厳しさを知る者が何故死ぬ?
 今の時期が日本では最も寒いときである。表題のような不気味なテーマでつぶやくことにしたのには大きな理由がある。筆者の父方の祖父は父が幼少の頃に亡くなって、あまり父の記憶が無いと聞いたが、実はその祖父・国松の弟・兼松はこの雪中行軍で死亡したそうである。盛岡の菩提寺・材木町の永祥院にはこの行軍で無くなった岩手の兵士を弔う墓標が並んでおり、その石碑の数の多さに絶句する。なぜ厳冬期の青森でこれほど多くの岩手の若者が死んだのか?と疑問に感じていろいろ調べたものである。筆者の生まれ育った雫石はやはり日本百名山の岩手山という東北有数の高山があるところで、今の時期には零下15℃を下回る日もあった。零下10℃以上と以下では「寒い」と「しばれる」という感覚の差がある。零下15℃から20℃では肌を刺される感覚があり、それに雪が降っていたりすると睫毛に着いた雪が一瞬で凍ってまぶたがくっついて目が開けられなくなることがある。鼻水は鼻からぶらさがったつららとなる。手袋を2枚していても指先の感覚が無くなってボタンも外せなくなる。基本的に肌を空気にさらすと痛いからゴーグル、耳当て、タオルでマスクして、全く肌を出さずに通学したものだ。だからこそエスキモーは偉いなあと感心したもの。筆者の大叔父・兼松は、どうして凍死するような事態になったのか?と疑問だった。


岩手山と北上川

かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川  
 
 石川啄木 
のうた
ふるさとの山に向ひて
言うことなし
ふるさとの山はありがたきかな

■青森と弘前から雪中行軍
 日露開戦を間近に控えた1902(明治35)年、耐寒訓練の必要性を痛感していた日本陸軍は、第八師団第四旅団に属する青森第五聯隊と弘前第三十一聯隊に、競わすように雪中行軍を命じる。小隊編成で、弘前から八甲田山を経て青森までの行程を踏破した福島大尉率いる弘前第三十一聯隊。これに対して、神成文吉大尉率いる中隊に、大隊本部が随行するという変則編成で、逆ルートをスタートした青森第五聯隊。準備不足と指揮命令系統の乱れに、記録的な寒波による悪天候が重なって遭遇した事故を“愚かな行軍”と言ってしまえばそれまでだが、神成中隊長の悔しさ、軍の命令のもと死んでいった多くの下士卒たちの無念さが、小説から伝わってくる。

■前進あるのみ?
 明治35年1月23日、第八師団歩兵第五聯隊が青森市を出発したのは午前6時55分であった。小峠に到着したのは午前11時30分であったが、この頃から天候が急変し、風雪強く寒気加わり、食糧は凍結し、かろうじて昼食をした。指揮官を中心に撤退を協議したが、大隊長の山口少佐が前進の命令を発したのである。この行軍は最初から神成大尉が計画し実行する指揮官であったのに、階級が上だというので前進という命令を大隊長が発したのである。

■吹雪で道を見失う
 1月24日、道を失った聯隊は、この日の行軍で遭難者が最も多く実に1/3を失った。極寒の中、縦横に吹き付ける吹雪で行く先を見失い、道なき道を死へと向かってさまよい続けた。悲劇を生んだ最大の要因は、天候急変を予測できず、的確に対応できなかったためと思われる。装備・食糧とも充分とはいえず、握り飯や餅は石のように凍りついて歯が立たず、飯盒(はんごう・炊飯兼用の大型弁当箱)の上蓋に注いだ酒はたちまち氷となってこびりつき飲むことができない。暖を取るための豆炭様の炭は湿って点火せず、テントは強風に吹き飛ばされて用をなさず、深い雪の中では燃すべき枯れ枝もない。

■仮死状態で立つ後藤伍長

 1月25日も吹雪は続く。兵たちは方向感覚を失ってさまようばかり。雪の割れ目の渓流に足を入れれば、藁靴を履いた足は凍傷を免れない。背嚢を捨て銃を手放し、立ち木の列を救援隊がきたと集団幻視をし、絶望のあまり気が狂う者が出、隊列は乱れ、次々に兵は倒れてゆく。
1月26日午前11時頃またも吹雪と化し、神成大尉は左の道を、倉石大尉は右に道をもとめ、ついに再び会うことはなかった。倉石大尉の一隊は駒込川の渓谷に、神成大尉の一隊は幸いに帰路を発見したが、大滝平で空腹と寒さのためついに倒れたが、後藤伍長は仮死の状態で雪中に立ち、捜索隊に発見され、息を吹き返したか弱い言葉から遭難の模様がわかって翌日から本格的な捜索を行った。発見された時生きていたのはわずかに17名、しかもその内5名が救出後死亡。神成大尉は死亡、山口少佐、倉石大尉、伊藤中尉は生き残ったが、山口少佐は責任を感じて拳銃自決。結局わずか 11名の生還となった。11名の中でも倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長、及川一等兵の4人以外は両手両足のいずれかあるいは全部を切断する凍傷を負った。福島大尉率いる弘前第三十一聯隊と倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長は後の日露戦争に従軍し、福島大尉、倉石大尉は戦死、伊藤中尉、長谷川特務曹長は重傷を負った。生き残っても結局・・・・

■今でも最低記録の大寒波
 青森大学雪国環境研究所の雪中行軍研究によると、気象記録を基に行軍当時の標高ごとの気温を試算しているが、標高730メートル付近の馬立場付近では最高で氷点下13℃、最低で同16℃ほどになったとみる。同年同月25日、北海道旭川では氷点下41℃、網走では同29.2℃を記録、現在でもこの最低気温の記録は破られていない。日本海から津軽平野を縦断し雪を含んだ南西風と、陸奥湾からのシベリアおろしが八甲田の峰々を互いに回り込み、ぶつかり合い、乱気流を発生させる。山中での体感温度は氷点下20℃を下回ったと思われる。行軍2日目に前夜の露営地付近にいつの間にか戻ってしまったのは、渦巻く風の影響を否定できない。

■撤退も勇気、人災と捉えた新田次郎
 この事件では様々な重要ポイントがある。青森第五聯隊の遭難に比べ弘前第三十一聯隊は何故無事だったのか?あるホームページでは下記のように書いている。

岩手や宮城県の若者が多い第五連隊には、八甲田の厳しさを知る地元出身者はいなかった。だから装備も軽登山の気分で整えられていた。しかしこの中隊にとって、もっと不幸なことは大隊長の山口少佐(小説では山田少佐)のとつぜんの随行だった。案内人を頼む行軍計画も、「いくさにいちいち案内人を頼めるか。磁石と地図があれば案内人は要らぬ!」 大隊長の一喝で消えた。しかし自然の猛威の中でその磁石も役にたたなくなった。

 そうだろうか?弘前第三十一聯隊は青森県出身者の部隊だったから天候を見て行動予定を変えた。しかし青森第五聯隊は冬山の厳しさを知らなかったと言いたいらしい。そうではないと考える。まず第1に我が祖父の弟兼松は岩手の黒沢尻の生まれ、秋田県境の湯田や和賀に近い。だらけの奥羽山脈の豪雪地帯である。北東北3県青森、秋田、岩手の奥羽山脈に近いところに生まれた人たちはいずれも冬の厳しさはよく知っているはずだ。第2に計画立案の問題だ。1泊2日の行動予定を組んだことの安易さ、第3に途中で引き返そうと指揮官がしたのにそれをひっくり返した上官という指揮系統の乱れだ。冬山では撤退こそ勇気ある決断である。少しでも不安があるなら進むべきでない。新田次郎は、この遭難を「人災」の面からとらえ、人間の”弱さ”に眼を向けた。

■弱音を吐いてはいけない指揮官
 随行のはずの大隊長がいきなり指揮権を握り、無謀に進軍の指揮をとる。それに「待った」をかけられない神成大尉。士族出身で占められる将校のなかで神成大尉は数少ない平民出身だった。この「劣等意識」が神成中隊長の口を重くした。それが悲しい結末につながる。ましてや下士卒たちにとっては上官の命令は絶対だ。この行軍を続ければ死につながるとわかっていても死んでいったのだ。また神成大尉の「天は我を見放した」という嘆息が兵士を動揺させ、気力を失った下士卒たちはバタバタ雪の中に崩れ落ちたと伝えられる。指揮官と言うのはどんな場面でも弱音を吐いてはいけないのだ。

■死してなお階級は残る・・・命をかけて上司を守った兵士たち
 将兵たちを埋葬した幸畑墓苑は八甲田への登り口にある。松林に囲われた芝生の墓地。正面、一段と大きい墓標は山口大隊長。その両脇に将校の墓標が並ぶ。兵士達の185の小さな墓石は大隊長に向かってきちんと立っていた。死しても階級の差は厳然として示される。また下級兵の死亡率に比べて将校の死亡率が格段に低かったのは、上官を守った兵士の行動を示している。実際雪中から発見された死体では上官を守るように死亡している兵士の姿に救難捜索隊の陸軍兵士たちも落涙したと記録されている。この暗さを払拭するように陸軍はこの事件でひとりの「英雄」をつくりあげた。神成中隊長の命をうけ山麓に遭難の一報を伝えた後藤房之助伍長。遭難現場の馬立場に全身が凍り付き佇立する銅像が立っている。

■企業と軍隊は違うが、上司は選べない
 指揮官の判断次第で組織の命運が決まるのだ。企業でも同じことだ。ただ軍隊と違って脱走はできる。こんな上司には付いていけないと思ったら「辞めます」と言える自由がある。しかし軍隊では「死ね」と言われたら死なねば成らぬ。Noと言ったら処刑される。企業でも辞める自由はあっても上司の命令には従わねばならない。上司は選べない。

■名湯「酸ヶ湯温泉」
 八甲田には酸ヶ湯(すかゆ)温泉という有名な温泉がある。北八甲田、主峰大岳の西麓、標高約900mに位置する。昭和29年に国民保養温泉の第1号に指定された、とのこと。総ヒバ造りの大きな混浴の「千人風呂」がメイン。 湯治の宿らしさが随所に感じられる。名前の由来は白濁した酸性硫黄泉で湯が酸っぱいため。


八甲田山

さてとかけて鬱憤と解く
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(2004年1月25日)

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