418  10年経過

 河津桜が葉桜となって、我が家の陽光桜が開花しました。日々蕾が開いていくのは楽しみでたまりません。東京のソメイヨシノも開花したようですが、今年は花見もままなりません。川越街道沿いのふじみ野市・地蔵院の桜はエドヒガン、しだれ桜です。


地蔵院の桜

■ 東日本大震災から10年
 2011年3月11日14時46分・・・忘れもしない東日本大震災から10年経ちました。あの日は金曜日でした。翌日の土曜日に岩手県雫石町の鶯宿温泉「ニュー鶯山荘」で中学校の同級会が行われるので、東京大学で行われる「災害事例研究会」は欠席すると連絡して、ボストンバッグを持って当時勤務していた埼玉県戸田市美女木の会社に出社しました。終業後「はやて」で盛岡に向かう予定でした。しかし14時46分、あのすさまじい揺れが・・・二度にわたり、すごく長い揺れが来て、会社の建物が潰れるのではないかと思うほどの強烈な揺れ・・・、今考えても恐ろしい体験でした。実は会社として災害時の体験レッスンを何度もやっていて、避難訓練もやっていたのです。ところが現実に体験したら、非常持ち出しも出来ませんでした。逃げるのに精いっぱいだったのです。帰宅難民を想定し、荒川をどうやって越えるか、いざとなったら自転車で帰宅、20q・・・大したことないと考えていました。ところが、会社の車に乗り合い、荒川の幸魂大橋をすんなり渡り、途中信号機停電は随所にあったものの、特段の支障も無く帰宅できました。帰宅して驚きました・・・なんと、会社の被害に比べ、ふじみ野市の我が家は落ちたものも無く、何事も無かったように見えて、すぐ近くなのに、地盤の差でこれほどまでに違うことにビックリ仰天でした。

■ 会社の状況
 下記は会社の状況です。

パーティションも植木も倒れた

机の引き出しが・・・

書棚も倒れ

応接室の額が曲がり

空気清浄機の上からアロエの鉢が落ち

テレビも落ちた


■仙台の母の住む一帯の状況
 母は当時存命で、仙台市宮城野区高砂の介護施設に居りました。有料老人ホームで皆さん親切だと言っていました。頻繁に夫婦で訪問していました。あるときは東北新幹線で仙台駅から乗り換えてJR仙石線で陸前高砂駅から歩いていきました。またあるときは車で東北自動車道を走り、仙台南ICから仙台南部道路に入り、仙台若林JCから仙台東部道路へ入って、北上して仙台東ICで下りました。車の時は大抵七北田川を挟んで介護施設と向かいのホテルキャッスルイン仙台に泊まりました。ここに「コロナの湯」という素晴らしい温泉施設があったからです。大津波は仙台港から七北田川を遡上し、「コロナの湯」を襲い、母の介護施設の周りを海と化しました。母は上の階に逃れ、皆無事でしたが、11日間停電して、大変だったそうですが、後で母と話したら、昭和三陸津波を宮古で経験していた母は「大丈夫だ〜」と悠然としたものでした。大正生まれで、関東大震災含め三つの大震災を経験した人はたくましいなぁと感心しました。ちなみに「コロナの湯」は津波でめちゃくちゃになってしばらく休館した後、大江戸温泉物語の傘下に入りました。今考えてみると、「コロナの湯」なんてスゴイ名前を付けたものですね。
 下は七北田川を遡上する津波の写真と、仙台駅から乗り換えて陸前高砂駅へ向かうのにいつも利用していたJR仙石線の車両が東名駅・野蒜(のびる)駅間で津波に流されて脱線した写真。東松島にも泊まって、これ以上ない美味しい海の幸をこれでもかと頂いた楽しい思い出があります。まさかあの宿が水没するなんて...東松島にある航空自衛隊基地では戦闘機も被災しましたね。


七北田川を逆流する津波=2011年3月11日17時40分ごろ、仙台市宮城野区の高砂大橋付近(河北新報より)


■東松島市の状況
 JR仙石線の車両が東名駅・野蒜駅間で津波に流されて脱線しました。日本国政府国土地理院の空からの写真を見ますと、脱線したのは東名駅と野蒜駅のちょうど真ん中近辺、住所で言えば宮城県東松島市野蒜亀岡三十数番地です。すぐ北にこのあたりの避難場所野蒜小学校があり、校庭に泥や瓦礫や自動車が残り、1階まで津波が来たとのこと。校舎の中に避難した人は2階、3階に上がり大丈夫だったそうです。駅舎や周囲の家屋は流失あるいは破壊されました。東名運河が仙石線と27号線と並行して東西に延びており、運河の南は完全に泥に覆われました。東松島市の津波防災マップには詳しく津波が来たときの避難場所が書かれていますが、「宮城県沖地震は40年に一度は起きるので、ここに住んでいる人は一生に1度か2度は災害を経験する」と書いてあります。それでも今回の規模の地震や津波は想定していなかったんですね。
 宮城県沖地震津波だったらそれほどすごい津波ではないと考えていたようです。場所ごとに波の高さと到達地域、到達時間予想が書いてあります。概ね地震から30分以上経って津波が来ますから、近くに小高い丘があるところは逃げられるはずです。しかし野蒜海岸の辺りは「かんぽの宿松島」と鳴瀬二中が避難所で、丘の上なのに1階上部まで水が来たそうです。ずっと先の仙石線北側の野蒜小学校まで逃げる間に、津波が追いついたら・・・考えるだけでも背筋が寒くなります。


東松島市の野蒜小学校に近い仙石線の脱線現場  仙石線は東西に走り、この写真の右側が北、左側が南で奥松島方向

この写真の左下側が南、東名運河が線路に並行し、津波が左下から右上方向に襲いました
写真奥側が北西方向だが少し小高くなっています


■岩手県宮古市港町と鍬ヶ崎の状況
 母の生家は宮古市鍬ヶ崎下町です。そこにはナント!観光船が鎮座ましましていました。そこからちょっとだけ港寄りの港町にあった船大工と船鍛冶の従兄弟の家々も流されて、避難所行き。高浜の従姉の家も津波で破壊されて、藤原に所有していた貸家を修理して住むことになりました。


観光船の左奥に残った菱屋酒造店の土蔵と醸造所が見えます

船鍛冶のいとこ宅の機械とコンクリート基礎は重いので残っていました

流されてきた家1軒分ぐらいの防波堤コンクリートブロック(ケーソン)

船大工の従兄宅を眺める船鍛冶のいとこ、自衛隊が片付けて道路確保

中央奥が浄土ヶ浜大橋

蛸の浜は海水浴場でもある。防波堤が崩れている。左手前のコンクリートの巨大塊が流され、左奥に見える日出島が津波のときは完全水没したそうだ

浄土ヶ浜大橋から見下ろした蛸の浜。日和見橋の橋桁が落下している。写真上部のトンネルを潜ると浄土ヶ浜、地上の楽園である
鍬ヶ崎地区の「ケーソンヤード」の部分:○印の辺りが港町で、ここに波が集中し、右方向に走った
■津波対策のヒントが・・・
 宮古市新川町の閉伊川沿いに道路が走り、それに面して宮古市役所があって、1階は水没したが、この閉伊川沿いの防潮塀と言うべき、厚さ20cmもない高さ3mほどの構造物が壊れていないことは、津波の持つ性質を如実に示すものでした。下写真は宮古市広報に載ったもので、宮古市役所の上の階から撮影したものです。
上の写真は15時18分、地震発生から32分後です。閉伊川の川底が見えるほど波が引いて、左上の防潮塀の川側の岸壁と船の位置関係から、明らかに引き潮が見てとれます。完全に津波の予兆です。地震発生3分後には岩手県に大津波警報が発令されたので、直ちに避難指示発報し、宮古地域93ヶ所、田老地域18ヶ所の水ひ門閉鎖が指令されました。消防車が避難呼び掛けで走っています。
 津波第1波は、地震の2分後で20cmでした。下の写真は15時25分、上の写真から7分後です。波は堰を切ったように防潮塀を越え、市街地へ溢れ込みました。この1分後には8.5m以上の最大波が押し寄せました。宮古市の『広報みやこ』には「真黒に染まった波はみるみるうちに水位を上げ、ごう音とともに市街地へと流れ込んだ」と書いてありました。宮古の津波遡上高は、田老小堀内地区で37.9m(東大地震研究所発表)、重茂姉吉地区で38.9m(記録史上最高値・東京海洋大学発表)です。
 壊れなかった防潮塀は閉伊川沿いに遡った津波にまともに対抗した構造物ではなく、並行していて、しかも鉄筋コンクリート造りで、くいが打ち込まれていたから持ち堪えたと考えられます。この場所は上の写真で「みなとオアシス シートピアなあど」という四角塗り潰し白字枠の右上角近辺です。
 宮城県の南三陸町でもそうでしたが、鉄筋コンクリート造りの構造物で、地中に杭を打って建てられたものは津波に耐えて原型を留めたが、鉄骨スレート造りは柱だけ残して中身は皆流されたのです。したがって鉄筋コンクリート造りの建物の上の階にいた人は助かりました。巨大なコンクリート造りのケーソンでさえゴロンゴロンと運ぶ津波に、地中に杭を打ってその上に建てた鉄筋コンクリート建造物が耐えられたというところに、今後の津波対策の大きなヒントがあります。

■石巻市の状況
 1年後、石巻生まれの社員と共に営業車で走ってみました。シックハウス対策の研究で恒温室を2室納入している日本一の合板メーカー:セイホクさんも被災しました。石巻ナンバー1の大工場は日本製紙ですが、工場のプラントの鉄骨がひんまがり、津波の恐ろしさを目の当たりにしました。住宅地は、家が残っていても、1階はメチャメチャ、宮古市の瓦礫の山もすごかったですが、海からすぐ山になっていて平地が狭い宮古市と違って、石巻は平地が広いだけに、被災のスケールが違います。これでは逃げ遅れた人も居ただろうと思いました。ただただ、息を呑む有様でした。瓦礫の山ができており、地盤沈下で道路に水が溜まっています。幼稚園バスが巻き込まれた現場に飾られたたくさんの花が悲しかった...まだまだ復興のレベルではないと実感しました。1年経ってもまだ片付けただけ、さあこれからどうするかという段階でした。

1年経ってもこの状況の石巻

日和山から見下ろした北上川、右がすぐ河口
■その他各地の状況
 今回の地震を気象庁は「東北地方太平洋沖地震」と命名しました。地震大国日本でさえ、記録がある限りかつて経験したことの無いマグニチュード9.0の巨大地震、しかも海溝型地震だったため、巨大津波を惹き起こし、大惨事となりました。防災意識の高い日本でもこれだけの死者、行方不明者が出ているというのは、誰も想定できなかった規模だ、ということで、その後「東日本大震災」と名付けられました。

岩手県宮守町の看板

南三陸町 防災庁舎と日の丸

復興屋台村・気仙沼横町です。気仙沼の海のすぐ近くにあります

石巻やきそば!仙台牛タン!山形風いも煮!B級グルメの気仙沼ホルモン!

復興作業開始初日

石巻にボランティアで来てくれたみんなです。みんなほんとにありがとう!!
 東日本大震災の地震と津波、それが惹き起こした福島原発の事故、未曾有の大災害は、二度と経験したくない大災害ですが、住んでいた場所によってまるで被災の程度は違ったのが特徴でした。下の写真はロイター通信のホームページに載っていたもの、不思議ですが、事故報道は、日本マスコミより、当時は海外マスコミのほうがよくわかったものです。この写真の解説は、 A girl who has been isolated at a makeshift facility to screen, cleanse and isolate people with high radiation levels, looks at her dog through a window in Nihonmatsu, northern Japan, March 14, 2011, after a massive earthquake and tsunami that are feared to have killed more than 10,000 people.=1万人以上を殺した恐ろしい巨大地震と津波の後、高い放射能濃度で汚染された人を検査して、洗って、隔離するための仮設施設に隔離された少女は、2011年3月14日、北日本の二本松で窓越しに彼女の愛犬と会う。

ロイター通信のホームページより
■地盤によって異なる揺れ
 埼玉県戸田市は震度5強、我が家は震度3、同じ市でも荒川に近いほうは震度4、関東ローム層の武蔵野台地が、いかに地盤が強固か、改めて実感しました。そう言えば、我が家では大きな地震は経験ありません。江東区南砂のお客様のところは地盤が液状化して、とんでもないことになっていました。隅田川はじめ、川や海の周辺は皆危ないのです。ウォーターフロントに高層マンションがたくさん建っているのは、建築工学的に言えば、大変危険、どうして東京都がそれを許すのでしょうか?そして、そんなところへどうして日本全国から人が集まって来るのでしょうか?

■家族・親戚の安否
 仙台市宮城野区高砂の母の介護施設は11日間停電が続きました。断水が続いたのは、地中の水道管のダメージがひどかったためです。隣が消防署でした。道路にニョキっとマンホールがキノコみたいにあちこちに立っています。驚きました。地盤沈下したのです。当時、建物前の道路は海のようになったそうですが、建物の敷地が小高くなっているので、1階は浸水しなかったとのこと。すぐ近くを流れる七北田川沿いに高砂中学校、鶴巻小学校、厚生年金病院、国道45号線と仙石線の間に高砂小学校があります。どこも津波の海水が溢れ、外に出られなくなって孤立した地帯ですが、七北田川の堤防は高い上、この辺りは河口から4kmぐらいあるため、溢れた水の量はそれほど多くなかった模様です。
 仙台市泉区八乙女駅前に住む弟のマンションは、テレビは落ち、ピアノは倒れ、箪笥も倒れ、食器はメチャメチャ、壁にも亀裂が入って大変でした。停電は2日後に復旧しましたが、ガスも止まり、風呂も使えないという状態になりました。弟は塩竈神社に避難し、翌日歩いて帰ってきたそうです。塩竈神社から16.2km、仙石線では遠く感じますが、本塩釜というのは意外に近いんですね。

■親切な塩釜の寿司屋さんも水没
 本塩釜ではこの大震災の数年前に夫婦でグルメツアーしたときに、寿司屋に入りました。塩釜は、寿司で町おこしということで、寿司屋マップが駅に置いてあります。入ったところは親切な店で、塩竈神社に行くと言ったら、荷物を預かってあげると言ってくれました。この一帯は駅舎も含め、すべて津波でやられました。多賀城から西は車の残骸がゴロゴロしていたようです。小高いところにある塩竈神社が避難所となりました。地震が起き、すぐ市役所から「津波が来るので避難するように」と放送が鳴り響き、日頃のマニュアル通りのことをして急いで高台の方へ逃げ、階段を昇ったらゴーッと津波がくる音がしたそうです。地震が起きてから津波が来るまで40分位でしたから、逃げる時間はあったはずです。ただ、どこでもそうですが、寝たきり老人などはどうしようも無かったでしょう。本塩釜は最も塩釜湾の奥ですから、到達時間が遅く、更に塩竈神社のある高台が近いので助かったのでしょう。津波は場所によって10メートル近くまであったのでは?と言われました。 なにしろ、マンションの3階位まできたという人もいました。弟の勤務していた銀行は、1階は海水に呑まれ、2階以上は大丈夫だったそうです。銀行のコピー機ははるかかなたで見つかったとのこと。銀行では普段から防災対策をしていて、塩釜支店でも3階に非常食や飲み水、防寒着や毛布、懐中電灯、スコップなど防災グッズを用意してあったので、翌日支店へ行ってこれらを塩竈神社の避難所に運んで、大変感謝されたと言っていました。

■停電だと繋がらない電話
 盛岡の岩手大学隣に住む妹宅は、オール電化にした結果、逆に大変だったそうです。卓上ガスコンロでインスタントラーメンを作って食べたそうです。反射式の灯油ストーブが無くなって、ファンヒータやヒートポンプエアコンになっているのも停電すると困ったそうです。ところが今度は2日後に停電復旧したら、エコキュートも使える、IH調理もできる、何不自由なくなったが、今度は灯油が品切れ。オール電化で良かったのですが、昔と違って歩いて行けるところにあった商店やスーパーが無くなって、巨大なイオンショッピングセンターの周りにあらゆる商業施設が集中するような街に変貌したものですから、ガソリンが無いと買い物にも行けない、仕事にも行けない、大変皆困ったそうです。
 雫石の親戚や友人の誰も電話が通じない、携帯も混んでいてアナウンスが流れるのみ、停電していても固定電話は通じるだろうと思ったのですが、よく考えたらそれは黒電話の時代、アナログの時代、今家庭で使っている電話機で電源コードが無いものはありませんから、現代では停電したら、固定電話も不通になるんですね。

■30m以上駆け上がった津波
 母の実家がある宮古市鍬ヶ崎の従兄弟2人の家は流され、一人は息子が車で迎えに行って奥州市へ連れてきたそうですが、筆者と同い年の人は浄土ヶ浜パークホテルに避難した後、宮古市のアリーナ(市営体育館)に移りました。彼らの家は宮古市港町、宮古港から歩いてすぐ、一人は漁船の船大工、もうひとりは漁師の漁具の鍛冶屋ですから、港の近くでないと商売にならないのです。筆者は夏休みはずっと宮古に行って過ごしていたので、この辺りは詳しく知っており、TV映像で母の生家が跡形も無くなっていたのを見て、虚脱感で、涙が出てきました。蛸ヶ浜へ行く坂道を駆け上がった津波は、心光院というお寺のすぐ下に達したそうですから、お祖母さんの畑のあたりまでと考えると、海抜30m以上のところまで道沿いに駆け上がったことになります。

浄土ヶ浜大橋から港町を望む、中央左に母の生家の上に鎮座した観光船、手前は子どもの頃に遊んだお寺:心光院

■1896年明治三陸地震津波〜1933年昭和三陸津波〜1960年チリ地震津波
 1921(大正10)年生まれの母は、1933(昭和8)年の小学生のときに昭和三陸津波を体験したそうです。このときは3月3日午前2時30分ごろ地震があって、「逃げろ〜」ということで隣近所呼び掛けあって、真夜中に取るものもとりあえず高台へ避難したそうです。そんな真夜中によくもまぁ...津波は数波に分けて繰り返しやってくる可能性があるので、翌日家の前に行ってみたら、大きな漁船が家の前にあったそうです。相当な波高の海水がやってきたのでしょう。ただ家を押し流すとかの津波ではなく、掃除してまた住めたそうです。このときは、三陸沖で起きたM8.1の地震が津波の原因ですが、マグニチュードだけみると大地震であるものの、揺れはたいしたことがなく、普段よくある地震程度のものだったそうです。それなのに真夜中に何故高台へ避難できたかというと、母は明治の津波がいかにすごかったかということを繰り返し聞かされて育ったので、地震のときはすぐ避難するということが身についていたのだそうです。だから今回も皆避難して大丈夫だろうと思っていたそうです。1896(明治29)年6月15日午後7時32分ごろに発生した、三陸沖を震源とするM8.5の明治三陸地震津波は、犠牲者数も日本最悪の死者22千人。釜石などでは、当時の人口の6割以上が死んだそうです。各地の震度は2〜3程度の軽震であり、地震による直接的な被害はほとんどなかったものの、地殻の変動が大きかったため、巨大な津波が来たものです。その後1960年にはチリ地震津波もありました。2011年は震度もすごかったので、間違いなく津波が来ると思って皆逃げて、死者は少ないだろうと思われました。ところがそうではなかった、津波の記憶が薄れ、しばらく津波が来ないので、忘れ物を取りに帰った人や、寝たきりの孤独老人が犠牲になりました。

■魚のおいしかった奥松島・宮戸島の旅館も・・・
 344『地獄に仏』(2009年8月16日)で奥松島・宮戸島の旅館に宿泊して、嵯峨渓を回り、石巻方面へドライブする過程で野蒜海岸の広くアーチした海水浴場を紹介しました。今回の津波で宮戸島の旅館は水没しましたが、その後再開したそうです。旅館は窓の下が海ですから水没は免れませんが、湾が津波の勢いを消して、1階のみの水没で済んだそうです。紹介した里浜貝塚のところは「台」という名前の小高い丘があり、そこに駆け上がれば命は助かります。この辺りの避難所は医王寺です。野蒜海岸の辺りは天の橋立みたいで、真っ平らであり、逃げるところはほとんどありません。この地区の人はかんぽの宿松島か鳴瀬第二中学校が避難場所です。多数の死体が確認された・・・というニュースがありました。自衛隊のヘリが避難所の宮戸小学校に物資を届ける様子が流れました。橋が流されて宮戸島は孤立しましたが、わざわざ安否を確かめに船で渡って情報をくれる人がいたり、停電が続いている現地から母親がメールしてきたという人もいました。充電電池だけでなく乾電池も持っていたのでしょう。マスコミでは報道されないのに、SNSで情報が拡散し、画像まで見れる時代、スゴイ!と思いました。そして見ず知らずの人たちがインターネットを使って助け合うというのもスゴイ!宮戸島の南部、太平洋に面した室浜、月浜、大浜は家屋が全壊したそうです。里浜は海近くは被害が大きいものの、松島湾の内海であった事から家屋はなんとか持ちこたえました。しかし、里浜→月浜→大浜→室浜とドライブして、野蒜海岸から鳴瀬川左岸を北上して東名運河を越え、右折して鳴瀬大橋を渡り石巻へドライブしたときの思い出が甦りました。可哀そうです、残念です。

奥松島・宮戸島の旅館から見た夜明け前の松島湾

里浜

■想定外の巨大地震
 一瞬にして家が流されて、物損はもちろん、大事にしていたものも失い、心に大きな傷を負っている人たちに、何をしてあげられるのか、当時必死に考えました。2011年3月12日(土)に東大で筆者の高校同期の三舩君が代表の『災害事例研究会』が予定されており、「今回は岩手で中学校の同期会なので休みます」と伝えていました。もちろん『災害事例研究会』は休会になりましたが、まさかこれほどの巨大地震が三陸沖で今起きるとは研究会メンバーも想定外でした。東大の建築工学の先生たちが作った『災害事例研究会』の事務局の一員として、毎月1回東大で会合していながら、しかも宮城県沖の大地震の20年内発生確率99.9%と警告を発し、展示会や講演会でPRしておりながら、こんな大震災になってしまったことが口惜しくてなりません。
 東北地方太平洋沖地震
  震源の位置:38.03N、 143.15E、深さ10km
  モーメントマグニチュード: Mw9.0(3月13日にM8.8から気象庁が修正)
  関連するプレート: 太平洋プレートと北米プレート(オホーツクプレート)
  地震のタイプ:プレート境界地震
  震源のメカニズムのタイプ: 低角逆断層(ほぼ東西の圧縮軸)
  観測された津波の高さ: 相馬7m以上、大洗4.2m以上など
 『災害事例研究会』では、宮城県沖地震が、宮城県沖のやや陸寄りの海域で繰り返し発生しているので、マグニチュード7.5程度の大地震が、繰り返し間隔およそ30年で、最近では1978年6月12日にM7.4の規模で発生し、死者28名を出していることから、もう30年以上経つので、絶対近々起きるぞ!と警告していました。仙台で周辺自治体の防災担当者を集めて、啓蒙し、防災レクチュアしていました。しかし今回の地震は、マグニチュードがすさまじく、宮城県沖地震単独ではありません。宮城県沖の他に、福島県沖、茨城県沖、岩手県沖までが震源域となっている連動地震と考えられます。国内では例を見ない大きな地震で、日本の周辺で起こりうる地震としては最大規模の地震でした。南海地震と東南海地震とが連動した場合にM8.5になると見積もられています。世界的に巨大地震としては、1952年のカムチャツカ地震(Mw9.0)、1960年のチリ地震(Mw9.5)、1964年のアラスカ地震(Mw9.2)、2004年のスマトラ島沖地震(Mw9.0)、2010年のチリ中部地震(Mw8.8)などが挙げられます。こうしてみると、東日本大震災を越える規模の地震も世界各地で起きているんですね。恐ろしいことです。この大震災を機に、『災害事例研究会』から離脱しました。
(2021年3月17日)


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