322  母の日
 雨が降りませんね。ふじみ野こどもエコクラブの畑に植え付けた苗が心配で、時々水遣りに行きます。我が家の庭の畑にはきゅうり、ミニトマト、茄子、ピーマンを植えています。ゴーヤは3種類4本植えています。自然に芽吹いたかぼちゃ、じゃがいも、ミニトマトはそのままにしています。みょうがは勢い良くグイグイ成長中、蜜柑の木と八朔の木は青々とした葉を付けていますが今年も花が咲きません。実を着けるのにあと何年かかるかなぁ。花壇にはいろいろな花が咲いています。沈丁花やスオウ、陽光桜、花桃、サツキは花を終えて葉がスゴイことになっています。
 ニホンサクラソウは花が終わりましたが、いわゆるセイヨウサクラソウ、すなわちプリムラは盛りを過ぎ、家を取り囲んでずらりと置かれた長方形の植木鉢でまだピンクの花と白い花を咲かせています。プリムラはたくさんの園芸品種があります。主な品種は、大きく分けて5つです。ヨーロッパ原種をもとにした「ジュリアン」と「ポリアンサ」、アジア原産種をもとにした「マラコイデス」、「シネンシス」、「オブコニカ」です。詳しくは「花時間」を参照下さい。
 ムラサキツユクサとあじさいの花芽が沢山着いて、梅雨時を待っています。紫陽花は家を取り囲むように5本もあります。その中に白い花のものもあり、ガマズミかカシワバか?
 シュロの木ときんもくせいの木が隣り合って成長を競っています。その根元にヤツデが生えています。ドクダミは駆除しているのに毎年生えてきます。
 大きな植木鉢でビワと銀杏、モミジが大きくなっています。ナンテンも大きな鉢に植え替えなければいけないかな。センリョウは水遣りしてますが、なかなか成長しないし、新芽が葉焼けして黒くなっているので日照が強すぎるのかもしれません。横に板を置いて、直射日光や風避けにするしかないかも?

ピンクと白のプリムラ(セイヨウサクラソウ)
 ユキヤナギとユキノシタとツユクサ、ツルニチニチソウの成長度合いは物凄く、必死に切っています。アブチロン、クレマチス、マリーゴールド、ゼラニウム、赤いベゴニア、ピンクのペチュニア、白とピンクのマーガレット、シクラメン3色、パンジー3色、キンギョソウ2色が競って咲いています。ピンクの薔薇もたくさん咲いています。特にゼラニウムは見事、飽きずに眺めています。

■ 面積の換算
 ふじみ野こどもエコクラブの畑は、ふじみ野高校のグラウンドに隣接した一反三畝の広大な畑です。分かりますか、この単位、「反」(たん)は10a(アール)すなわち1,000平米です。300坪ですね。「畝」(セ)は1a(アール)すなわち100平米です。30坪ですね。「町」が100a(アール)すなわち1ha(ヘクタール)10,000平米です。3000坪ですね。ただしすべて「約」です。1坪は3.31平米、約2畳です。30坪は99.17平米、59.88畳です。

■ 母の日
 5月12日は母の日でした。母は2015年10月24日(土)に亡くなりました。94歳で、仙台市宮城野区の介護施設で、誰にも看取られることなく亡くなりました。施設の介護士が部屋を見回っていたら息をしていなかったということで、まさしく大往生でした。そんなに長くないと思っていたので毎月のように仙台へ行っていました。夫婦で9月25日(金)に訪問し、そして10月11日(日)、12日(月)には娘とその婚約者も一緒に4人で行き、「今度は11月6日(金)にまた来るからね」と言ったら、玄関で車椅子で手を振ってニコニコしていたのが最後に見た姿となりました。誕生日は5月13日で、我が夫婦の母校(高校)の創立記念日でした。母の日には毎年ステキな服を贈っていましたが、沢山有るからもういいよと言うので、鉢植えのフラワーギフトにしたりしていました。

■ おめはかわいそうだ
 立派なケアハウスで余生を過ごせたのは良かったか?本人は「良いところだ」と満足していました。この介護施設は全国展開していて、実は我が町内(ふじみ野市鶴ヶ岡3丁目)にも有ります。歩いてすぐです。介護施設は現代版姨捨山ではないかと後ろめたい気持ちもありました。筆者は長男なので、親の扶養義務があると思っていました。昔、父母に埼玉に来てくれと言って断られたといういきさつがあるのです。当時まだ独身だった弟が、岩手からランクルに両親を乗せて遊びに来たとき、武蔵嵐山の槻川原にバーベキューに行きました。

母の日と言えばカーネーション
  我が車は当時トヨタマークUの前のHONDAアコードだった気がします。これに我が一家が乗り、弟のランクルと連れ立って出かけたのです。HONDAアコードの前はケンとメリーのスカイライン2000GTでしたが、会社のすぐ近くに引っ越して、仕事も忙しくドライブに行く時間も無くなったので、弟に安く譲りました。くれてやらないところがニクイですね。兄弟でもお金のことはハッキリしたほうが良いのです。
 その後弟はTOYOTAランドクルーザーに買い換えました。ランクルに乗れるなんてさすが銀行員の独身貴族は違うなぁという感想を持ちました。6百万円前後ですよ。嵐山町まで車で40分ぐらいかかったと思います。槻川原は「関東一の人気バーベキュースポット」と言われるところです。肉を焼いているかたわらで母が言いました・・・「おめはかわいそうだ、こんたなどご雫石だば歩いて来れる」・・・ウ〜ム、なるほど、「翔んで埼玉」で、「埼玉には観光地も無い、せいぜい長瀞だ」というセリフがありましたが、まさにそれを母に言われたのです。結局埼玉はイヤだ、ということに落ち着き、やがて9歳下の若い娘と結婚した弟が転勤して住んでいた杜の都・仙台が良いということになったのです。

武蔵嵐山の槻川原

■ 3.11凄まじい揺れ
 仙台で余生を過ごす母、父はずっと前に亡くなったので、仙台市宮城野区の介護施設で一人で暮らしていましたが、2011年3月11日(金)14時46分、思い出したくもないあの大揺れが宮城県沖を震源として発生しました。東日本大震災です。二度の大揺れがありました。
 筆者は埼玉県戸田市美女木の会社に居て、もしかすると建物が倒壊するのではないかという恐怖体験をしました。翌3月12日は雫石・鶯宿温泉で御所中学校の同期会なのでボストンバッグを持って出勤し、終業後すぐ大宮から新幹線に乗る予定でした。テレビはすべて落ち、壁の額縁が斜めになり、本棚が倒れ、パーテーションや鉢植えも倒れるすさまじい揺れ、震度5.5強でした。しかし帰宅してふじみ野市で見た光景は今でも忘れません。会社では書棚も食器棚もメチャクチャだったのに、我が家では何事も無かったかのように、リビングボードも食器棚の中のグラスや皿のたぐいも何一つ動いてもいません。そうか、慌てて携帯から電話したときに妻の落ち着き払った受け答えの理由が分かりました。戸田市の凄まじい被害を目の当たりにして、気が動転して慌てて電話したときの「どうしたの?」というのんびりした応答に、「この人は完璧天然だ!やってらんない」と思った怒りの感情が思い出されました。そして、たかだか20kmしか離れていない同じ埼玉でこの違いは何なのだ、と思ったのです。
ムラサキツユクサ
 後日、東大地震研究所が発表した東日本大震災での揺れのデータ、我が家のあるふじみ野市の丘側、すなわち桜ヶ丘や鶴ヶ岡の一帯、いわゆる武蔵丘陵は、群馬県渋川市一帯とともに、関東地方で最も揺れなかった地域でした。「トトロの森」などもそうですね。これが荒川や利根川流域との決定的な違いでした。このあと地殻研究などの科学者が引っ越してくるようになり、ずっと人口増が続いています。やはり地盤が強固で水害が無い、心配なのは雷と竜巻だけということが東日本大震災で示されたため、安全志向の人が集まってくるようになったのです。

■ 母と弟妹の安否は?
 帰宅してみたテレビの映像は想像を絶するものでした。母のふるさと岩手県宮古市鍬ヶ崎の映像は目を背けたくなる有様、毎夏雫石から夏休みにずっと遊びに行っていた宮古は、第二のふるさとでした。およそ20日間、おじさん、おばさんの家を3日ずつ泊まり歩いて、山奥の子どもなのに、夏は海の子でした。それがガレキの山なのです。仙台の弟は電話もメールも繋がりません。盛岡の妹も繋がりません。イライラした時間が過ぎて行きました。やがて盛岡の妹から電話が来ました。公衆電話に並んでやっと電話したとのことでした。停電しているのですが公衆電話は通じるのです。オール電化の家は炊事も出来ないが、ガスボンベの卓上コンロでインスタントラーメンを作って食べてると言います。停電以外は、別に何の被害も無い、心配無用とのことでホッとしました。やがて仙台の弟からも連絡が来ました。塩釜の銀行が被災して、塩竃神社に避難していたそうで、仙台まで延々と歩いて帰宅したとのことでした。母は?との問いには、多分大丈夫だと思う、何か分かったら連絡するとのことで、とりあえず弟に任せることにしました。岩手県宮古市の従兄姉たちの消息もやがて分かりました。命は無事でしたが、家は皆流されていました。
ツルニチニチソウの青い花

■ 11日間の停電、地盤沈下も...
 しばらくして弟から連絡があり、母はだいじょうぶ、ちゃんと生きているとのことでした。ただし仙台市宮城野区の介護施設は仙台東部道路のすぐ北、七北田川のすぐ東というシチュエイションなので、七北田川を遡上した津波が堤防を越えて溢れ、一帯が海になってしまったとのこと、隣が消防署でしたが水が引くまで孤立状態だったそうです。ただ盛り土した上に建てられたビルなので、建物の浸水は有りませんでした。念のため二階以上に全員避難して過ごしたそうです。停電は11日間続き、ガスも止まりましたが、炊き出しの人たちが駆け付けてくれたほか、やがて関東の本部のほうから救援隊がドッサリ物資を積んでやって来てくれたので、食うには困らなかったとのこと。さらにボランティアも次々来てくれたそうです。東北自動車道が復旧するまで待って、車で夫婦で駆け付けましたが、隣の消防署前の道路になにやら土管のようなものが林立する異様な光景に遭遇しました。実はこれ、マンホールでした。道路が地盤沈下したため、浮き上がったような形になったのです。まるで道路にモアイ像が並んだような光景、こんなことがあるんだとビックリしました。仙台の沿岸部は皆地盤沈下したのです。
ピンクのペチュニア

■ 人生4度目の巨大地震
 母と話したら、落ち着いたものでした。余震が続いていておっかねぇと言いながらも、人生何度も巨大地震を経験しているので落ち着いたものでした。しかし考えてみると、人生4度目の巨大地震ですよ。スゴイですね。大正12年(1923)9月1日午前11時58分に、相模湾を震源として発生した関東大震災(マグニチュード7.9、最大震度6)、これは三陸に住む母には被害はありませんでした。昭和8年(1933)3月3日、三陸沖のマグニチュード8.3の昭和三陸地震津波、山に登って避難し、翌朝波が引いて戻ってみたら家の前に大きな船がデンと鎮座していたそうです。昭和35年(1960)5月23日にチリ南部でマグニチュード9.5という観測史上最大の超巨大地震が発生し、これによって生じた大きな津波は平均時速750kmという高速で地球をぐるっと回って太平洋を横断し、22時間半後の午前3時ごろに太平洋の真向かいにある日本列島の沿岸に達したチリ地震津波、三陸沿岸に大きな被害をもたらしました。考えてみると、リアス式海岸の三陸沿岸は、津波の宿命下にあるのです。狭い湾に押し寄せた波が一気に波高を増し、10階建てのビルをも飲み込むような巨大な波として覆い被さるので、ひとたまりもありません。しかし、仙台は頻繁に大きな地震はあるものの、広い平野ですから津波なんてアリエナイと皆さん思っていたのではないでしょうか。マグニチュード9.0、最大震度7の東日本大震災はそれだけ物凄かったということです。

■ 母の「遺徳と功徳」
 そんな災害にまみれた母の一生、138『遺徳と功徳』(2015年11月3日)に書いたように、新宿での大学の同窓会開始直後、スマホが唸って、出たら弟からの死亡連絡、94年生きての波瀾の生涯の終幕通知電話で知らされました。

キンギョソウ
それから夫婦、娘、孫二人含む息子一家で、埼玉と東京からそれぞれ車で仙台の泉中央駅前の葬儀社に行き、その日は仙台の天龍閣に宿泊、翌朝天龍閣をチェックアウトし、火葬まで時間があるので瑞鳳殿を観光しました。火葬は炉が20基もあるドデカイ立派な仙台市営葛岡斎場(仙台市青葉区郷六字葛岡)で行いました。収骨して、骨壷に入れて持ち帰り、葬儀社でお花ほか葬儀用セットを貰って車に積みました。翌日は岩手県雫石町で葬儀なので、仙台から移動、この日は作並温泉鷹泉閣岩松旅館に宿泊しました。翌朝東北道を走り、岩手県雫石町の永昌寺に到着しました。葬儀を執り行い、雫石町営七ツ森墓地公園の墓に証明書を持参して、納骨まで滞りなく済ませることができました。その後、この日の宿、源泉掛け流しの鶯宿温泉長栄館に夫婦、娘、孫二人含む息子一家で泊まりました。母の葬儀で観光と温泉ざんまい、これこそ母の遺してくれた「遺徳と功徳」でした。自分もこのようにみんなに笑顔を与えながら死んで行きたい、そのように思わせてくれました。有難うございました。
青森県黒石市の友人の「あずましの里通信」2019.5.12号「津軽野にりんご開花の慶び」より
甘い蜜の香りがただようりんご畑の向こうに、白雪を冠した岩木山がキレイに見えます

■ ワークマン
 5月12日のTBS「ガッチリマンデー」で「ワークマン」を採り上げていました。番組紹介では・・・みなさん、「ワークマン」ってお店、入ったことありますか?★軍手1双17.8円!作業靴680円!!★ガテン系の物ならなんでも揃う、作業服のお店「ワークマン」に潜入!★激安の秘密は中国の山奥に!?★ガテン系のお店と思っていたら大間違い。いま、女性客が殺到中!その謎に迫ります★店舗は夫婦で経営が原則。そのワケって?★フランチャイズを始めるなら「ワークマン」!350万円とやる気だけでOK!?★厨房用の滑りにくい靴が○○さんに大人気!★コーラやケチャップをはじくポロシャツが、なんと980円!激安を実現しているスゴい人がいました!・・・というものでした。凄腕の中国人社員、素晴らしかった
我が家のすぐそばのワークマン
 実は我が家のすぐそばに「ワークマン」があります。川越街道(国道254号線)に面していて、ザックリ言えばマクドナルドと大戸屋の間です。隣にダンススタジオがあって、スタイルの良いきれいな娘さんたちや、少女たちが集まっています。先日も農作業用の長靴を買いにワークマンに行きましたが、きれいなおばあちゃんが一人で店番していました。お客さんはワークマンやワークウーマンでした。品揃えが豊富で、しかも安い!これが人気の秘密なんですね。ところでガテンとは何でしょう?土木・建築・ドライバー・調理などの現場で働く人たちに、イメージや流行ではない職業の選択、自分自身の価値観にあった”合点のいく”生き方を提案してきたリクルートの仕事情報誌「ガテン」が語源なのだそうです。

■ 大塚家具の行く末は
 大塚家具の親子喧嘩、困ったものですね。元はと言えば高級家具路線の大塚家具の経営権を巡って対立し、2015年に娘の大塚久美子氏が株式を握り、社長となって父の勝久氏は大塚家具を離れ、同業の匠大塚(東京)を設立したという経緯でした。久美子社長は4月26日に勝久氏を訪ねて約4年ぶりに再会し、勝久氏に業界団体の名誉会長への就任を要請しましたが、5月10日に勝久氏から大塚家具に辞退を伝える手紙が届き、本格的な和解には至らなかったものです。久美子社長は大塚家具の大衆化路線を推進しましたが、イケアやニトリと顧客を奪い合ったことで、セレブの大塚ファンは離れて行きました。従業員が可哀そうだなと思って見ていました。残念ながら未来は無いでしょうね。

■沖縄復帰47年
 沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたのは昭和47年(1972)5月15日、これを沖縄本土復帰と称します。あれから47年経つんですね。筆者が高校を卒業した昭和43年、母校は夏の甲子園に出場しBEST8に進出しました。準々決勝の相手は沖縄・興南高校、当時沖縄はまだ米国統治下にあって、甲子園観客席は球場全体が沖縄応援一色でした。遠く東北からやってきた盛岡第一高等学校は、吹奏楽無し、太鼓だけで、赤い旗を打ち振るバンカラ応援は時代錯誤とでも言えるもの、しかし球場全体を敵に回しても、蛮声張り上げて必死に応援するその姿は、「応援は出場校随一」との評価を受けました。昭和47年は筆者が大学を卒業して社会人となった年です。すなわち沖縄が本土復帰してからと筆者の社会人生活は同じ年数なのです。いま、沖縄の人口も観光客も増え、経済は好調ですが、国土の0.6%の土地に国内の米軍専用施設の7割が集中する状況は続いています。

ユキノシタは今花盛り


葉の裏は赤いのです
(2019年5月15日)


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