306  四国一周W
 年始の伊香保で腰を痛めて以来、どうも芳しくありません。良くなったかと思うとまた痛くなります。しかし、トシですから仕方ありません。先日は69回目の誕生日を迎えました。よわい70古来稀なりというトシですから、いろいろなところにガタが来るのでしょう。それでもふじみ野市・三芳町の余熱利用施設エコパのバーデプールは、水中なので浮力が働くのか、腰はこのときばかりは大丈夫です。

■ 満月、寒中、大寒、節分
 本日2019年1月21日は満月(望月)です。当地の日の出は6時49分、日の入は16時56分、月の出は15時52分、月の入は5時34分です。夕方エコパのバーデプールでバシャバシャ歩きながら、全面ガラス張りの窓から、16時45分頃、真っ赤な夕日が沈むのを見ると、そのすぐ左に富士山の雄姿が見えます。そして振り返ると白くてほぼ満月のお月さまが見えます。
 昨日は二十四節気の「大寒」でした。正確に言えば「大寒の節入りの日」です。二十四節気は太陰暦の日付と季節を一致させるために考案されたもので、明治五年まで使用されました。一年を二十四に等分し、その区切りと区切られた期間とにつけられた名前です。月の公転との関係があるので、二十四節気の月日は年毎に微妙に変化します。「大寒」は太陽視黄経300度、一年で一番寒さの厳しい頃を表します。寒中に入る日は、「寒の入り」と呼ばれ、小寒(1月6日〜1月19日)の入りの日です。大寒の始まりは1月20日で、2月3日までです。したがって寒中は小寒(2019年1月6日)から節分(2019年2月3日)までの期間です。

エコパのバーデプール、窓は南向き
大寒を過ぎれば春はもう目前で、その後は暖かくなると言うことです。今年の節分は2月3日ですね。「季節を分ける」ことから節分と言われます。本来は春夏秋冬すべてに節分があるのですが、現在では春の節分だけを「節分」と呼ぶようになりました。かつては大晦日的な意味合いもあり、「鬼やらい」の行事が行われ、「節分の豆まき」として現在にも伝わっています。2月4日は立春です。

■ 愛媛県から香川県、徳島県、そして帰京
 四国一周1日目は徳島県から高知市のホテルに宿泊まででした。下図の赤線から青線です。2日目は高知市から清流四万十川の屋形船、愛媛県を北上、みかんの名所・真珠の街宇和島に寄り、白壁の町並みが保存されている内子の町を散策、さらに伊予灘に沈む夕陽が見られる絶景の無人駅下灘駅に寄って、松山市道後温泉のホテルに泊まる橙線のコースでした。
 3日目は松山市道後温泉を出て、松山道を東進する緑線のコースです。右図には四国しか描かれていないので、松山市の沖合いに浮かぶ中島まで、今治市の先はしまなみ街道の大島、伯方島、大三島、岩城島、生名島、弓削島までしかありません。坂出市と岡山県を結ぶ瀬戸大橋は描かれず、小豆島はありますが淡路島はありません。したがって、瀬戸内海の狭さはピンと来ませんね。ホテル→四国を代表する名城;松山城→海の神様金比羅さん→鳴門公園海峡眺望「渦の道」→徳島空港とバスで走り、徳島空港発20:35JAL464便→21:45羽田空港着で帰って来ます。
 ところで前回は、道後温泉に着いたところまでは紹介しましたが、道後温泉の詳しい内容は紹介しませんでした。まずは道後温泉の紹介からはじめましょう。

■ 道後温泉グランドホテル泊
 道後温泉で最も豪華な宿は大和屋でしょうが、宿泊した「道後グランドホテル」は和風の建物で、ロビーは広くて、十分立派な宿でした。

愛媛県松山市・道後温泉〜香川県宿毛市〜

道後グランドホテル
館内62室すべて和室で、綺麗で見晴らしの良い部屋でした。周囲にセブンイレブン、ローソン、ファミリーマートがすべて揃い、業務スーパーに大黒屋までありました。カラクリ時計のある、いよてつ道後温泉駅までハイカラ通り商店街を通って300m、道後温泉本館まで240m、すぐ近くです。
 道後グランドホテルのすぐ近くに消防署があり、その向こうが道後温泉飛鳥乃湯泉、さらに隣が道後温泉椿の湯、さらに真っ直ぐ行けば道後温泉本館です。道後温泉本館を取り囲むように並ぶホテル群の中で最も西の宿です。

大浴場

■ 美味しかった愛媛の郷土料理会席
 道後グランドホテルでの夕食は「愛媛の郷土料理会席」を頂きました。刺身、豚、鶏、鯛の揃い踏み、鯛めしも付いて満足、満足...朝食は愛媛名物じゃこ天を網にのせて炙り焼き、はふはふ...美味

 高知市のホテルはおばあさんばかりの給仕でしたが、こちらはまた男女皆若い!聞いたら揃って大学生だそうです。これがまた良く訓練されていて、早く食べ上げた席の料理を片付けたりしません。お客様を急かせないようにじっと待っています。感心しました。

■ 道後温泉の魅力
 道後温泉は、日本最古といわれている温泉で、今から約3000年前、傷ついた一羽の白鷺が傷を癒していたことから発見されたと言われています。ちなみに岩手・雫石の鶯宿温泉は、鶯が傷を癒していたことから命名されたと言われているので、似たようなエピソードです。街中にこんなに大きな温泉があること自体特異です。東北の温泉地に育った身から見ると、温泉とは山懐に抱かれて、川のほとりに展開するものというイメージがあります。それがこんな街中で、海辺で、しかも平日だというのに賑わっている、ビックリでした。
 道後温泉は2016年に、観光庁などが行った「温泉総選挙」でも、女性にお勧めの温泉地、第1位に選ばれました。廃れゆく他の温泉地との決定的な違いは、そぞろ歩いているお客さんたちが若いこと、しかも若い女性が多いこと、魅力はどこにあるかと言いますと、@歴史を感じる『道後温泉本館』A2017年12月にオープンした新しくて豪華な道後温泉飛鳥乃湯泉B庶民的な道後温泉椿の湯と趣の異なる3種の湯が揃い、更に伊予鉄・道後温泉駅には坊ちゃん列車も運行され、夜間には駅前に停まり展示されています。駅前にはカラクリ時計もあり、ここまでの斜面の細道にハイカラ通り商店街が展開されていてとにかく楽しいのです。正岡子規記念博物館や神社、仏閣、公園、様々なデート、街歩きスポットが用意されています。うまく斜面を利用しながら、『道後温泉本館』を中心にして、あたかも田園調布の街づくりのように放射状に形成された湯の街なのです。
 『道後温泉本館』は明治27年に建築され、国の重要文化財にも指定されています。120年を越える建物なので、2019年1月から7年がかりで営業しながらの改修工事を行うとのことでした。右は夜の『道後温泉本館』です。

歴史ある道後温泉本館

道後温泉本館前の桶募金

朝の道後温泉飛鳥乃湯泉

道後温泉土産みきゃんグッズ
 『道後温泉本館』前には改修費用の寄付を募る「桶募金」の風呂桶と風呂椅子が置いてありました。本館で実際に使用されている風呂桶と風呂椅子の3倍の大きさなのだそうです。『道後温泉本館』には夜にも翌朝朝食前にも行きました。いずれも風情がありました。上下写真はいずれも朝に撮った写真です。
道後温泉名物坊ちゃん列車

道後温泉名物からくり時計

バットを持った正岡子規像

■ 道後温泉の湯は
 道後温泉は、肝心の温泉の泉質はと言うと、アルカリ性単純泉で、19本の源泉から汲み上げられるお湯は、20度から55度の温度で、これらをブレンドすることで42度から50度にしており、加温や加水もしていないそうです。これまで1号から29本の源泉を開発してきましたが、各源泉から汲み上げた温泉は、地中に埋設した送湯管で4か所の分湯場という温泉の配湯施設へ集められます。1号源泉は、現在汲み上げていませんが、本館神の湯(男)東浴室の石張りの床に、井戸があった位置が記されています。開湯3000年の歴史を誇る道後温泉ですが、1日当たりの温泉供給量は約2000トンで、別府温泉(13万7000トン)、草津温泉(3万9000トン)、熱海温泉(2万6000トン)など他の有名温泉に比べて格段に少ないそうです。この理由は四国には火山が無いからで、たまたま松山市近辺は地熱が高いので地下水が温められているだけだそうです。したがって温泉自体も高張性にはなりません。筆者のように足元火山の温泉地で育った人間からするとなんとも物足りない温泉というわけです。本当に湯質を楽しむのなら、九州各地の温泉や、北関東、東北、北海道の温泉になりますね。

■ 松山城
 道後グランドホテルを出立してまずは松山城に向かいました。松山城は海抜132mの勝山山頂に本丸があります。そして登るために城山ロープウェイ・リフトが設置されています。東雲口駅舎から乗るのですが、バス駐車場から歩いて少しかかります。登りはロープウェイ、降りはリフトを使いました。料金は往復券+観覧券で¥1,200、私達は団体割引¥920でした。天守閣入場は別途\510でした。山頂駅は長者ヶ平(ちょうじゃがなる)で、ここで降りてからお城まで約10分の道のりです。
 松山城は別名勝山城とか金亀城とも呼ばれ、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で有名な七本槍の1人、加藤嘉明が築き始めたお城です。門・櫓・塀を多数備え、狭間や石落とし、高石垣などを巧みに配し、攻守の機能に優れた連立式天守を構え、日本で12ヶ所しか残っていない「現存12天守」のうちのひとつ、江戸時代以前に建造された天守を有する城です。日本で唯一現存している望楼型二重櫓である野原櫓や、二之丸から本丸にかけて、日本では松山城と彦根城しか存在が確認されていない「登り石垣」がある城としても有名です。

松山城の入場チケット半券

■ 松山藩は代々松平家が統治
 加藤嘉明が築き始めた松山城ですが、完成直前に会津藩へ転封となり、あとを継いだ藩主が完成させました。1635年に松平定行が城主となり、それ以降、明治維新までの235年間松平家が統治しました。松山城の天守の紋章は、江戸幕府の将軍、徳川家とゆかりのある「丸に三つ葉葵」(三つ葉左葵巴)となっているのはこうした訳です。
石垣が実に見事です

松山城天守と小天守
 川越も松平家が統治した地ですから、なんとなく親近感がありますね。

■ 層塔型天守の松山城
 松山城は、日本で最後の完全な城郭建築(桃山文化様式)として、層塔型天守の完成した構造形式です。
 天守とは防衛の要として一大事のときにだけ籠城する場所です。普段は城主やその側近らが足を踏み入れることもなく、生活の場ではないのでトイレも炊事場もありません。床は板張りで天井板もないのが通例なのに、松山城は一重、二重、三重とも天井板があり、畳の敷ける構造になっています。さらには床の間もしつらえられ、襖を入れるための敷居まであるので、どうしてこのような構造にしたのか謎とされています。余りに見晴らしが良いので展望台代わりかな?
 リフトから松山市街の見晴らしは壮観でした。

松山城天守から見下ろした松山市街地

松山城からリフトで降りました

■ 松山市にある伊丹十三記念館
 松山市は約51万1千人の人口を有する四国最大の都市です。松山城を中心に発展して来た旧城下町で、道後温泉で有名な古くからの温泉地であるとともに、俳人正岡子規や種田山頭火また文豪夏目漱石ゆかりの地で、俳句や小説『坊っちゃん』『坂の上の雲』などで知られる文学の街でもあります。これら観光資源を背景として、「国際観光温泉文化都市」の指定を受けています。松山市のガソリンスタンドの看板はレギュラー1リットル¥130〜¥137、安い!
 バスガイドさんが伊丹十三記念館の前を通ります、とアナウンスしました。松山城から南に向かい、松山自動車道の松山ICの入り口のちょっと前、33号線に面して左手にある黒い建物でした。バスガイドさんが「G番の車庫に愛車が停めてありますからご覧下さい」と言います。そういえばかつて飛行機で伊丹十三と乗り合わせたことがあったなと懐かしく思い出しました。そうそう、山城新伍とも隣り合わせたことがある・・・二人とも故人です。伊丹十三は俳優、エッセイスト、TVマン、雑誌編集長、映画監督、商業デザイナーと興味のおもむくままに様々な分野の職業に分け入り、多彩な才能を発揮した人でした。館長は妻の宮本信子さんが勤めていて、時々来館するので、そのときは予めアナウンスがあるとのことでした。伊丹十三が監督、宮本信子主演の映画『ミンボーの女』では、ゆすりをやる暴力団は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描きましたが、これで逆恨みされ、自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治三ヶ月の重傷を負いました。犯人たちは逮捕され刑務所行きとなりました。1997年12月20日の夕刻、港区にある事務所マンションに隣接する駐車場で遺体となって発見されました。警察は「飛び降り自殺」としましたが、大島渚や立川談志など古くから伊丹十三を知る人物(二人とも故人です)は、「飛び降り自殺は絶対に選ばない奴」と話し、自殺を否定しました。64歳で、脂の乗り切った時期の死は「どうして?」「なぜ?」と不審に思ったことを覚えています。今でも謎ですね。

■ 愛媛県から香川県へ松山道を走る
 バスは松山ICから入って瀬戸内海沿いに高速道路;松山道を東へ向かいました。いわば左手(北側)が瀬戸内海、右手が四国山地です。山地を境として、四国南部は多雨の太平洋側気候で、毎年台風等による水害が多発しており、北部は少雨の瀬戸内型気候で、南部とは逆に水不足に悩まされている地域が多いそうです。ただ、愛媛県の新居浜市や西条市など、石鎚山や笹ヶ峰など高い山々を背にする都市では、その高さ故に保水力が高く、地下水に恵まれています。四国山地は寒気が瀬戸内海の水蒸気を凍らせて四国山地にぶつかるために雪が多く、スキー場も多いそうです。愛媛県と高知県の境を成す石鎚山脈と、香川県と徳島県の境を成す剣山地は西日本屈指の高峰が集中しています。剣山地と讃岐山脈を切り裂くように四国三郎吉野川が流れ、徳島平野を形成しています。
 四国は険しい山々が荘厳で神々しいことから、古代より山岳修行が盛んであり、西日本最高峰の石鎚山1982mや剣山1955mなどはその代表格です。さらには弘法大師ゆかりの四国八十八箇所遍路により、全山あるいは四国全域が霊場といっても過言ではありません。

四国は狭いのに高山があり、しかし火山は無い独特な土地柄

■ 福田和子の話題
 バスガイドさんが福田和子の話題を出しました。松山市内で同僚だったホステスの首を絞めて殺害する松山ホステス殺害事件を起こし、逃亡して偽名を使ったり美容整形を繰り返したりするなどして全国のキャバレーを転々として逃避行を続けた女です。石川県能美市では和菓子屋で非常によく働き、接客も得意だったことから、店はたちまち評判となり、繁盛しました。和菓子屋の主人は福田をたいそう気に入り、正式に結婚を申し込みましたが、福田は正体の露見を恐れ、結婚を渋ったそうです。その店には、家が近所で、当時小学生だった松井秀喜も客としてよく菓子を買いに来たそうで、松井は福田逮捕後のインタビューで「きれいで愛想のいい奥さんだった」と語ったとのこと。あまりに結婚を渋る福田の態度に不審を抱いた和菓子屋店主の親戚が石川県警察に通報し、警察は福田の逮捕に向かいましたが、当日、近所の葬式の手伝いに出掛けていた福田は警察の行動を素早く察知し、とっさの判断で近くにあった自転車に乗り逃走しました。その後も捜査網を巧みにくぐり抜け逃亡を続けましたが、福井市に潜伏していた1997年、市内のおでん屋の店主から提供されたビール瓶とマラカスから採取された指紋が決め手となり、ついに逮捕されました。当時、時効を目前に控えたこの事件は盛んにテレビのワイドショーなどで取り上げられており、福田の肉声も繰り返し放送されていました。福田はこのおでん屋の常連客であり、店主や他の常連客はテレビでよく耳にする福田和子と声がそっくりな彼女を怪しむようになったのだそうです。松山東警察署で取調べを受けた後の1997年8月18日に福田は殺人罪で起訴されましたが、公訴時効成立まで11時間前の起訴だったそうです。2005年2月に、無期懲役で服役していた和歌山刑務所内の工場の作業中に、くも膜下出血のため緊急入院し、意識の回復のないまま3月10日、入院先の和歌山市内の病院にて死去、57歳でした。

■ 愛媛県西条市から新居浜市へ
 バスは讃岐山脈の更に北側に位置する琴平山を目指して走ります。快晴です。東温市から西条市にかけては右も左も山という地域を走ります。左は高縄山、右は石鎚山です。やっと開けてきた辺りで見回すとため池がポツポツと見られます。左手北は今治市ですとバスガイドさんが案内します。言わずと知れたタオルの街ですね。そう言えば皆さん、内子や道後温泉でお土産に今治の高級タオルを買っていました。西条市には四国で唯一のビール工場(アサヒ)があり、これは水が良いからだそうです。石鎚山の伏流水でしょう。隣には今治造船西条工場やクラレ西条、ルネサスエレクトロニクスなどの工場がひしめいています。
 伊予西条で燧灘に注ぐ川は加茂川です。笹ヶ峰隣の寒風山の下を潜って高知市に通じる寒風山トンネル5432mは難工事で有名でした。更に走って新居浜市に入りました。住友の街です。住友金属鉱山、住友林業、住友化学、住友重機、とにかく住友だらけです。これは昔別子銅山があったからだそうです。栃木県の足尾銅山と並ぶ有名な銅山で、鉱毒事件が数回発生しました。別子は住友金属鉱山の銅山で、坑道延長700kmで、最深部は海抜ー1,000mにもおよび、日本で人間が到達した最深部だそうです。跡地の近くにはマイントピア別子という観光施設もあり、東洋のマチュピチュを謳い文句としています。マチュピチュは一般的には兵庫県の竹田城と言われますが・・・

■ 愛媛県四国中央市へ、純信・お馬の駆け落ち話
 四国中央市に入り、松山道は海岸に沿って走ります。四国中央市土居町は赤石五葉松の園芸産地として有名で、山から吹き降ろす山地(やまじ)風でも有名です。これは日本三大局地風と言われる強風です。確かに家の作りが違います。屋根が吹き飛ばされないように工夫してあります。
 川之江に入りました。「エリエール」ブランドの大王製紙で有名ですね。もう一つ有名な話があります。♪土佐の 高知の はりまや橋で ♪坊さん カンザシ買うを見た ♪ヨサコ〜イ ヨサコイで知られる純信・お馬の駆け落ち話です。四国八十八ヶ所三十一番札所・竹林寺の脇坊の一つ、南の坊の住職純信は37歳、一方、竹林寺東参道入口、五台山村長江に住む鋳掛屋大野新平の娘、馬は17歳、親子ほど歳の違う僧侶と町娘が恋に落ち、駆け落ちするという、世間をあっと驚かす事件が起こりました。二人は四国の険しい峠を越えて、丸亀から船に乗り、京に向かおうとしていましたが、夢は儚く消え、金毘羅表参道の”一の坂”で捕らえられ、土佐へ連れ戻されました。4ヶ月の入牢の後、番所三ヶ所で3日間、面縛(晒しの刑)に処せられ、別々に追放されました。その後二人はどうなったか。お馬は、須崎で結婚し3人の子に恵まれたそうです。明治18年、お馬さん47歳の時、一家で上京し、初孫にも恵まれ平穏な日々の中、明治36年66歳で没したとされています。東京都北区豊島2-14-1の三縁山・西福寺境内にお馬塚と銘した一基が建立され、波乱万丈の生涯を送ったお馬さんの菩提が弔われているとのこと。一方、名を岡本要と改めた純信は、伊予の国へ国外追放となり、四国中央市川之江に寺子屋を開いたそうです。今も純信堂が建っています。その後愛媛県美川村東川に移って寺の住職となり、結婚して一男一女をもうけ、明治21年69歳で没したそうです。

■ 香川県に入りました
 川之江JCTで松山道は終わり、真っ直ぐ北は高松道、右折して東は高知道に分かれます。高知道はちょっと進むと川之江東JCTがあり、右折南下の高知道と真っ直ぐ東方向の徳島道に分かれます。バスは川之江JCTを真っ直ぐ北東へ、高松道を海沿いに走り観音寺市に入りました。愛媛県から香川県に入ったわけです。この辺りはとにかく右も左もため池だらけ、川はあっても水が流れていません。観音寺市と言えばカト吉の本社があったところ、その後テーブルマークと社名を変え、今では日本たばこ産業(JT)の子会社となって本店は東京・築地になっています。
 三豊市に入りました。今NHK朝ドラ「まんぷく」の香田忠彦という画家の役の俳優・要潤の出身地です。香川県をPRするキャンペーンで架空の県名「うどん県」の副知事として広報活動を担当、三豊市の「三豊ふるさと大使」でもあります。バスは善通寺ICで高速道を降りました。善通寺市と言えば従兄が四国の国立の農業試験場に研究員としてかつて勤めていたことを思い出しました。今は農研機構西日本農業センター四国研究拠点(仙遊地区)です。バスの車窓から善通寺五重塔が見えました。木造としては国内3番目の高さ45mだそうです。ちなみに1位は京都・東寺54m、2位奈良・興福寺50.5mとのこと。ここまでの話はほとんどバスガイドさんの話です。必死になってメモしていました。

■ 海の神様金刀比羅宮
 金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社です。こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれます。ホームページには参拝や祈祷の案内、各ゾーンの案内、アクセスマップなどいろいろあります。
 バスは琴平町の『にしきや』というレストセンターに駐車し、ここで昼食、ちらし松花堂弁当+讃岐うどん\1,200を頂きました。この店のお土産は、主に香川県や徳島県などの四国東部で伝統的に生産されている砂糖の一種;和三盆が売りでした。独特の風味を持ち、上品な甘さと細やかな粒子、口どけの良さが自慢の最高級の砂糖です。
 昼食後、にしきや専属の女のガイドさんに引率されてこんぴらさんの階段を上りました。全部で785段、上り甲斐がありました。途中で1段だけ下がるところがあるのですが、786段だと”なやむ”ということで語呂が悪いためだそうです。

階段に継ぐ階段、延々と

御本宮です・・・金毘羅宮の社紋は独特

■ 讃岐富士がきれいに見えました
金刀比羅宮へのお参りのルートはいくつもあります。表参道の石段を上るのが王道です。785段上ってたどり着いた御本宮の右手は展望台になっています。海抜251mの高さから見渡す風景は絶景で、讃岐平野の向こうに讃岐富士が見えました。標高422mの飯野山です。
飯野山は丸亀市にあり、どこから眺めても美しい三角形を保つ讃岐平野のシンボル的な存在です。ところが、ず〜〜っと眺めていると、富士山に似た山が讃岐平野にはたくさんあるのがわかりました。あれも富士、これも富士...小さいけれど小富士がたくさんあるのです。
 女のガイドさんは年の頃・・・ウ〜ン60歳行ってるんじゃないかと思うのですが、体型はスラリとして引き締まっており、足取りは軽く、言葉も軽く、この日は三度案内するんだと言っていました。785段×3=2355段ですよ。いや往復すると考えたらその倍です。ものすごい運動量、信じられません。こんなスーパーウーマンが世の中には存在するんだと思うと、負けちゃいられないとファイトが沸いてきました。ちなみに下山は裏参道を降りました。こちらは階段ではありません。途中上る人とすれ違いました。裏上りの人もいるんだなと分かりました。

■ 亀山城を見ながら讃岐富士を巻いて徳島県に向かう
 さて再びバスは善通寺ICに向かいます。途中高校野球で有名な尽誠学園高校の前を通りました。またビニールハウスでうどん屋営業している店の前も通りました。繁盛していました。善通寺ICから高松道に入り東へ向かいます。途中バスガイドさんが、「遠くに四国四大名城の丸亀城が見えます、ハイ、アソコです」と言いました。見えました。標高約66mの亀山に築かれた平山城で、別名亀山城とも言われ、石垣の名城として全国的に有名だそうです。
 バスは走り、まもなく坂出JCTに到達しました。坂出JCTから左へ曲がり北上すると瀬戸大橋で、岡山県倉敷市は間もなくです。バスは、讃岐富士の飯野山を巻いて東へ、ひたすら東へ高松道を走ります。高松市、さぬき市、東かがわ市と過ぎて徳島県板野町に入りました。そして徳島県鳴門市の鳴門北ICで降りました。

■ 鳴門公園海峡眺望「渦の道」
 さて四国旅行最後の観覧スポットは鳴門公園大鳴門橋「渦の道」です。大鳴門橋には以前仕事の途中でちょっと寄ったことがあります。近くに大塚国際美術館という驚くほど立派な施設もあります。大塚グループの保養所も半端ない豪華さでした。鳴門公園駐車場にバスが停まり、マイクロバスに乗り換えてすぐ着いた所が物産館でした。歩いても3分ぐらいだそうですが、マイクロバスに乗せて土産物屋に連れて来て、お土産買わせて集合写真撮らせるというビジネスです。ここでもオバサン大活躍、今回の旅行でつくづく思ったのは、日本の観光地で活躍しているのはおばさん、おばあさんであるということ、すごいバイタリティです。高齢になっても元気で長生きするのは、こうやって働いているからだろうと感じました。
 この日の渦潮のベストタイムは12:40と19:20だったので、スゴイ渦は見られませんでしたが、足元のガラス窓から45m下の海面に渦巻く波を見ていると迫力がありました。右写真の撮影時刻は16時41分です。「渦の道」の観覧料は¥510でした。

「渦の道」の足元ガラス窓から下を見る

「渦の道」の入場チケット半券

■ 徳島ラーメン
 鳴門海峡から徳島阿波おどり空港はすぐ近くです。徳島市のガソリンスタンドの看板はレギュラー1リットル¥147、高い!と思っているうちに着いてしまいました。まだ18時前です。JAL464便は20:35発ですので、えらく早く着いてしまいましたが、無理もありません。徳島交通のバスの運転手さんとガイドさんは、これから車庫に帰って掃除をして今日の営業を終えるのでしょうから、まだまだ仕事があります。お疲れ様でした。
 徳島空港で時間があったので、ちょいと一杯引っかけて、「徳島ラーメン」という看板にひかれ、「徳島宝ラーメン」という店に入りました。九州の細麺に惚れた店主が、徳島でも喜ばれる味を追求し、完成したラーメンだそうです。豚皮を使用したとろみのあるまろやかなスープ、かえしに野菜や昆布のほか、ほたてを入れることで濃厚なスープにもかかわらず、スッキリとした後味を実現したので細麺との相性が良いのだとか。食べやすくスライスされた豚バラチャーシューと甘辛く炊いて味付けされたメンマがトッピングされ、煮玉子が入っています。
 前にも書きましたが、ご当地の物価は駅前のラーメンの値段で分かると言われていて、日本全国津々浦々仕事で旅した筆者が最も安いと感じたのは徳島駅前の中華そばでした。徳島ラーメンは、徳島県東部のご当地ラーメンで、地元では「中華そば」や「そば」と呼ばれてます。徳島ラーメンには大きく分けて「茶系」「黄系」「白系」の3系統があり、戦後まもなく白系が誕生し、後に黄系・茶系と登場したといわれています。博多豚骨ラーメンは、日本全国のラーメンの中でも特異ですが、徳島ラーメンは醤油ラーメンが基本で、オーソドックスなラーメンです。そういう意味では、徳島空港の宝ラーメンは徳島ラーメンの王道から少し外れている感じがします。九州の細麺は豚骨スープがあまり麺に絡まないようにしたストレート麺で、一般的な中華そばの縮れ麺はスープが麺に絡むようにしたものです。麺にはちょっと違和感がありましたが、スープは美味しかったですね。

徳島宝ラーメン

■ 羽田空港から自宅へ
 JAL464便は定刻に徳島空港を飛び立ち、21:45羽田空港着の予定通りのフライトでした。遅い便なのに満席、読売、阪急、JTB、近ツー、クラブツーリズムなどなどいろいろなツアーがひしめいているのです。乗降口から出たお客さんの大多数は京急に向かいました。我が夫婦はかつて馴染みの平和島TRC(東京流通センター)をどうしても通りたかったので東京モノレールに乗りました。昔は京急より東京モノレールのほうがずっと人気がありましたが逆転したんですね。最近はリムジンバスや、空港送迎タクシーの利用客など乗り物も分散しています。東京モノレールは山手線との接続キップがあるので、浜松町とちょうど反対側の池袋に行く人にとってはとってもお得です。しかも速かった!自宅に帰るのは午前零時を回って日付が変わることを覚悟していたのに、その日の内に帰宅できました。

■ 大差で否決、どうする?EU離脱案
 英議会下院(定数650)は2019年1月15日、政府が提出した欧州連合(EU)離脱合意案の採決を行い、英領北アイルランド問題をめぐる不満などを背景に、反対多数で否決しました。投票結果は賛成202、反対432と倍以上の大差が着きました。EU離脱を最重要課題とするメイ政権にとって「屈辱的な敗北」(英メディア)であり、メイ首相は2016年7月の就任以降、最大の試練に直面することになります。否決を受け、首相は21日までに代案を明らかにするようですが、首相は辞めさせたくない、しかしEUとの離脱合意案はイヤだ、と言う結果ですから、このままでは前にも後にも動けません。離脱派、残留派が拮抗している議会では、どんなプランも過半数の支持を得るのが容易ではなく、離脱の行方は混沌としそうです。

■ 稀勢の里引退
 横綱・稀勢の里(32=田子ノ浦部屋)がついに現役引退を決断しました。進退を懸けて初場所に臨んだ稀勢の里ですが、初日から3連敗、昨年秋場所千秋楽から不戦敗を除いて8連敗となり、1場所15日制が定着した1949年夏場所以降の横綱では貴乃花を抜いてワースト記録を更新しました。地元・茨城県牛久市の後援者たちは、「引退は残念ですが、牛久市を有名にしてくれて感謝しています」と口々に引退を惜しみました。稀勢の里は2017年初場所で新入幕から73場所目にして初優勝。場所後に第72代横綱に昇進しました。日本出身横綱の誕生は1998年夏場所後の3代目若乃花以来、19年ぶりとあって、日本中が「稀勢の里フィーバー」に沸きました。看板力士として抜群の人気を誇り、相撲界を支えてきた和製横綱ですが、ケガに泣き横綱在位12場所の短命横綱となりました。
 横綱の引退と言えば潔さを求められるのが昨今の風潮ですが、怪我には勝てません。稀勢の里のように何とかして横綱の責任を全うしようとしてあがきながら無念の引退を選択せざるを得なかった姿も、評価されてしかるべきではないでしょうか。

■ JOC竹田会長ピンチ
 平成天皇のハトコである竹田恒和JOC会長が東京五輪招致を巡る贈賄疑惑でフランス当局の捜査対象となりましたが、タイミングがタイミングだけにゴーンさんの問題に対するしっぺがえしではないか、などと言う人もいました。しかし日本の法曹関係者は「関係ない」と断じています。竹田会長は2018年12月にフランス当局の事情聴取に応じ、国際オリンピック委員会(IOC)が1月11日に開いた倫理委員会でも聞き取りをされたそうです。
 問題となっているのは、2020年東京五輪招致のコンサルタント契約についてです。2013年に東京五輪の招致委員会が、国際陸上競技連盟(IAAF)前会長でもあったセネガル人のラミン・ディアク氏の息子で、招致に影響力のあるIOC委員のパパマッサタ・ディアク氏が実質的なオーナーを務めるシンガポールのコンサルタント会社に約2億3000万円を送金した件です。これは五輪招致のための「賄賂」だったのではないかという疑惑が浮上し、JOCは問題が発覚した後に調査委員会を設置し、「違法性はない」と調査報告書で結論づけました。「日本の法律では違法性がない」かもしれないけれど、ロビー活動、および関連する情報を収集するコンサルタント業務の委託料としてこんな大金を払うことが果たして真っ当なのか?と言う疑問は、以前問題となったときに感じたことを覚えています。対象のアフリカ諸国の多くがフランスの旧植民地ですから、フランスの法律では有罪となるのかもしれません。オリンピック・パラリンピック組織委員会は大丈夫でしょうか?

■ 沢田研二と福田こうへい
 Yahoo!ニュースによりますと、全国ツアー中の歌手の沢田研二(70)が2019年1月19日、東京・日本武道館で3日連続公演の初日を迎えました。昨年10月にさいたまスーパーアリーナで予定していた公演を「空席が目立つ」として開演直前でキャンセルして、騒動に発展しました。9千席の予定なのに7千人ぐらいしか入っていないとプンプン怒って帰ってしまいました。開演を待っていた7千人のファンの気持ちはいかばかりだったでしょうか?
 武道館公演は予定より5分遅れで無事に開演、当日券が発売されていて、用意された推定8000〜9000席がほぼ埋まったそうです。ジュリーは1時間50分のステージを完走。「ここに来てる皆さんで、『開場までに何か起こるかも』と思った人、いるでしょう?」と自虐ネタを披露したうえで、「地道にやっていくしかない。背伸びしなくていい。まあ、ちょっとさいたまスーパーアリーナは背伸びしたんですけど」と笑いを誘ったそうです。音楽関係者によりますと、「席を埋めた割合はファン6割、関係者が4割ほどだったそうです。業界関係者には1枚で複数の人数が入場できる招待状を送るなど、赤字覚悟の集客だったようです」と、いかに空席をなくすかが最優先だったことを明かしたそうです。
 なおさいたまスーパーアリーナの代替公演は、大宮ソニックシティで行うとのこと、たしかにバツが悪いでしょう。さいたまスーパーアリーナで公演することは歌手の夢だと言われていますから...
 同じ日の夜にBS朝日で、いま一番聞きたいあの人の言葉を心の奥底から引き出すインタビュー番組『ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜』が放送され、歌手の福田こうへいが登場しました。インタビュアーは舘野晴彦さん、幻冬舎の専務です。話の内容は知っていることばかりでしたが、52歳でガンで死んだ父との確執がメインでした。地元の牛の鳴きまね大会で優勝した経験を持つこうへいは、牛を育てていて自然と身についた特技「牛の鳴きまね」も披露し、「世界のどこにもモウと鳴く牛は1頭もいません」と、ホルスタインと黒毛和牛、2種類の鳴き方の違いを披露しました。全国のステージを飛び回り、2018年にこなしたステージは200以上、観客動員数は25万人を突破し、演歌歌手では断トツのナンバーワンという超多忙な日々を送るこうへいは、2018年11月吐血して緊急入院しました。今回のインタビューが行われたのは、その2日前でした。
 福田こうへいが予定されていた公演をキャンセルして入院したのはこれで2回目です。確かに殺人的スケジュールだし、あの小さい身体で全身全霊でステージを勤める姿を見ていると、いつか倒れるだろうと思っていました。倒れても倒れても、スケジュールを緩めないその姿は、浅田次郎原作、滝田洋二郎監督の映画『壬生義士伝』の吉村貫一郎を彷彿とさせます。ななめのつぶやき2『たそがれ清兵衛』と『壬生義士伝』(2003年1月20日)をご覧下さい。
 「南部蝉しぐれ」でメジャーデビューする前のこうへいは、盛岡サンビルの呉服店に勤めながら、民謡歌手として地元のステージに呼ばれていました。大型トラックの横開きカバーの片側をオープンして移動ステージにする野外ステージだと、どこへ行っても広場があれば公演できるので、岩手ではそういうことが良くありました。

『壬生義士伝』の雫石の家
 しかし雨が降ってきて、集まっていた観衆がゾロゾロ帰ってしまい、目の前には傘を差した人が二人だけ、ということもあったそうです。それでもこうへいはいつもと同じく精一杯心をこめて歌いました。たった二人でも、ましてや、こんな悪天候でも傘を差して聴いてくれる、ありがたいと感謝して歌ったそうです。今ではウェスタ川越さえも満席にする福田こうへいの、お客様に対する気持ちがインタビューによく出ていました。沢田研二との、なんという違いでしょうか。

■ 人生100年時代
 「人生100年時代」と言われるようになりました。本当でしょうか?2017年の平均寿命は男性81.09歳、女性87.26歳ですが、死亡年齢の最頻値をみてみると、男性87歳、女性93歳で平均寿命よりも高い年齢となっています。つまり、これから死ぬ私達は、早死に困難になってきていると言えます。そして今現役の世代にとっては、長寿高齢社会を迎え、60歳や65歳でリタイアすることが現実的ではなくなっているのです。「75歳まで働け」とか、「死ぬまで働け」というのが当たり前になりつつあるようです。そんな中、健康を失ったらどうすればよいのでしょう。

■ 西部邁(すすむ)さん(当時78歳)の自死について思うこと
 評論家の西部邁(にしべすすむ)さんが2018年1月21日未明に東京都大田区の多摩川で入水自殺してからちょうど1年経ちますね。テレビで日常よく見る顔の人が、病臥しているわけでもなく、ある日突然死んでしまう・・・三島由紀夫ほどの衝撃ではなくても、芥川龍之介や太宰治の死にも似たようでいて、しかし現実には親しい人たちに手助けしてもらって死んだというところに特異性があり、衝撃を受けました。手助けしたとして、東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)の子会社社員窪田哲学さん(45)と会社員青山忠司さん(54)の二人が自殺幇助の疑いで警視庁に逮捕されました。窪田さんは西部さんの出演番組のプロデューサーを担当し、青山さんは西部さんと約20年にわたり親交があったそうです。当時の西部氏はいまだ舌鋒衰えず、第一線で言論活動を続けていました。一方、4年前に妻に先立たれ、利き腕の神経痛にも悩まされていたようです。「近親者を含め他者に貢献すること少なきにかかわらず、過大な迷惑をかけても生き延びようとすることこそが自分の生を腐らせるニヒリズムの根だ」とも言っていました。西部氏は果たして本望を達せられたのでしょうか?
西部 邁さん

■ 迷惑をかけたくない?
 西部氏は、家族に迷惑をかけるぐらいなら死んだほうが良いと思っていたようで、実際に家族にも親しい友人にもそんなことを語っていたようです。もちろん家族も親しい友人たちも、「そんなこと言わないで」と言っていたようです。この死に方は「自殺」と言うより「自裁死」といえるもので、本人の遺志は達成されたのでしょうか。暗くなってからも行方不明の父を探し回ったあげく、水に濡れて冷え切った遺体を目にした家族の衝撃、青山忠司被告も窪田哲学被告も懲役2年、執行猶予3年(求刑懲役2年)を言い渡された結果...迷惑をかけたとしか言いようがありません。

■ 安楽死
 スイス、オランダ、ベルギーといった安楽死容認国では、安楽死の出発点は「個人の明確な意思」にあるそうです。死は「個人の最期の決定」と考える欧米では、医師はもちろんのこと家族ですら、安楽死という決断を尊重しようとするわけです。オランダで扁平上皮癌を患っていた65歳の男性は、安楽死当日にパーティを開きました。彼は、長い眠りにつく前にシャンパンを飲み、タバコを吸って「じゃあみんな、僕はこれからベッドに行って死ぬ。最後までパーティを楽しんでくれ、ありがとう」と言って死にました。未亡人となった妻は、後日、悔やんだ顔一つ見せず、夫との出会いから別れを、美しかった人生の1ページとして語ったそうです。しかしこうした安楽死について日本ではまだタブーとされています。橋田壽賀子さんは安楽死したいと言っているようですが、日本では反発が強いようです。

■ 延命治療はイヤ
 日本の医療は「病は敵」、「死は敗北」、「一日でも、死の時期を延ばす」というように命を救うことを前提としていますが、今や延命治療を断る家族が年々増えています。胃ろうなどによって当人の意識が無くなっても長くベッドに父母を置いて、本当に本人のためだっただろうか?本人は早く楽になりたかったのではないかと葛藤した経験から、自分のときは延命しないでくれと希望する人が増えたからだそうです。自分は「どう死ぬか」「どう死にたいか」について、考えておくことが求められるようになってきたのではないでしょうか。

■ 食べなければ死ぬ
 すごい死に方をしたのは沢村貞子さんですね。大女優でした。その波乱の生涯はNHK朝ドラ「おていちゃん」として50%もの視聴率を上げましたから、見た方は沢村貞子さんのことをよくご存知でしょう。まだシャキシャキと見えた80歳のときに、NHKのドラマ『黄昏の赫いきらめき』を最後にスパッと女優を引退、その後は横須賀市に隠居し、執筆活動に励みながら2歳下の夫とともに毎日湘南の海を眺めて過ごしました。自然葬を実施する葬送の自由をすすめる会の顧問を務めていました。夫に先立たれ、その三回忌を出した直後、熱が出て寝たきりになった89歳のとき、日頃から「人間は10日も食べないと自然に死ぬそうだよ」と周囲に語っていて、食事が喉を通らなくなったので流動食を勧められても食べなかったそうです。甥っ子の津川雅彦が、叔母の沢村貞子さんを見舞った際にはもう口も利けない状態なのに、自分の力でトイレに行く姿を見て、鬼気迫るものを感じたと語っていたそうです。病院に運ばれることもなく、自宅マンションで静かに息を引き取ったそうです。老衰でもなく心臓が停止する、死因は「心不全」ということになります。生前から望んでいたように夫の骨とともに相模湾に散骨されました。壮絶な死に方でしょうか?いえ、自らの意思による自然死と言えるのではないでしょうか。

■ 死について考える
 西部氏が「自裁死」を選ばなかったとして、他にどんな選択肢があったでしょう。生前、西部氏は病院での延命治療や、施設での介護を避けたいと周囲に語っていたそうです。しかしながら自殺も憚られます。筆者の幼少時、雫石では今頃の時期自殺が多かったことを覚えています。当時は生活が苦しい人がたくさんいました。そんななかで病気にでもなったら、家族に迷惑掛けたくない、先行きの人生を悲観して、冷たい川に身を投じたり、木にぶら下がって死にました。西部氏がなぜ、あのような死を迎えたのかを考えることは、西部氏の死を悼むことにつながります。故人が残した日本人への宿題でしょう。
(2019年1月21日)


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