305  四国一周V
 新年早々の伊香保は連泊でした。さすがに標高700m以上ですから寒い!けれども残雪が伊香保神社の片隅に少しあっただけでした。伊香保神社の社務所は閉じており、40歳前後の女性が御朱印帳に記帳してもらいたかったみたいで、ドアを開けようとしても開かず、横に回ってもダメで、残念そうでした。扉に張り紙があって、土日祝日だけしか開かないようです。なんという商売気の無さ!というか、お客様サービスの面から考えたらアリエナイと思った次第です。

■ 高知市から南西へ
 四国一周1日目は徳島県から高知市のホテルに宿泊まででした。下図の赤線から青線です。高知市の印象はクレーンが多いということでした。それだけ工事が随所で行われているということです。また交差点がアルファベット表記になっています。さらにとさでんの路面電車が走っていて、1904年開業だそうです。日本最古1895年開業の京都電気鉄道の市電は1978年廃止、都電荒川線も今やわずか12.2kmだけ、本格的な市電としては日本最古&最長と言えます。すべての路線の起終点は「はりまや橋」です。
 2日目はホテルを出て清流四万十川に向かい、屋形船に乗りながら昼食を食べた後、高知県を後にして愛媛県に入り、みかんの名所・真珠の街宇和島に寄り、白壁の町並みが保存されている内子の町を散策、さらに伊予灘に沈む夕陽が見られる絶景の無人駅下灘駅に寄って、松山市道後温泉のホテルに泊まって「鯛会席」の夕食を頂くというコースです。右図の橙線の経路になります。
 高知市街を走ってバスは高知自動車道に向かいました。伊野ICから入って、土佐市から須崎市に入ります。高知県の地名は濁らないのが多いそうで、須崎は「すさき」だそうです。ここから高速道は無料区間となり、新荘川を渡り、須崎市から中土佐町を経由して四万十町中央ICで高速道路は途切れます。道の駅あぐり窪川から国道56号線を南下して黒潮町に入りました。土佐佐賀で海が見えました。この近辺は入り江になっていて、38mの津波を想定しているそうです。そこで黒潮町役場は土佐入野の高台に移転していました。その下に家がイッパイ...

高知県高知市〜土佐市〜須崎市〜中土佐町〜四万十町〜黒潮町〜四万十市;屋形船なっとく〜高知県宿毛市〜
愛媛県愛南町〜宇和島市〜西予市〜大洲市〜内子町;白壁の町並み〜下灘駅からの夕日〜伊予市〜松山市・道後温泉

■ 日本最後の清流・四万十川
 四万十市に入ったら、驚いたのはガソリン価格でした。レギュラー159円/リットル、埼玉県ふじみ野市のGSではこの頃142円/リットルぐらいでしたから高いのに驚きました。製油所から遠いのでしょう。
 四万十市に入り、バスはそれまでの南下から一転四万十川に沿って北上します。四万十川は全長196km、四国で一番長い川です。古来、わが国を代表する河川は「坂東太郎・利根川」、「筑紫二郎・筑後川」、「四国三郎・吉野川」と言われてきました。関東の利根川の総延長は322kmであり、長さでは信濃川の367kmの後塵を拝しています。徳島の吉野川は194kmで四万十川の後塵を拝しています。しかし、坂東太郎とか四国三郎と言われるのはそれなりの理由があるのでしょう。
 四万十川は「日本最後の清流」と言われていますが、実は暴れ川です。埼玉県を形成する荒川は呼んで字の如く荒れ狂う川ですが、四万十川に比べればそれほどでもないと言えます。この日乗る船の船着場「四万十川屋形船なっとく」に着いて納得しました。四万十暴れ川のいわれが分かったのです。四万十川には随所に「沈下橋」(別名;潜水橋)があります。洪水が多いので、欄干が無く、水かさが増すと水面下に没します。欄干があると流木などが引っ掛かって橋が壊れてしまうので、できるだけ抵抗を減らしているのです。それだけではありません。船内から見た光景で暴れ川のゆえんが分かります。

高瀬沈下橋

■ 四万十川屋形船
 「四万十川屋形船なっとく」の700m下流に「高瀬沈下橋」があります。屋形船に乗って、この沈下橋まで下り、橋を潜ってからUターンして川を上り、大きく左へ90度川が曲がっている地点の少し手前で船頭さんが、ここで深さの関係でまた戻らないといけないと言います。この地点はもともと浅瀬なのですが、なんとか深いところを辿って昇り、本来は左へ90度曲がって少し進んだところ、「船頭泣かせ」まで行ってUターンするのですが、2017年7月豪雨で運ばれた土砂が川底の地形を変えてしまい、もうこれ以上昇れないと言います。川に沿って走る441号線に面して真新しいバンガローが建っています。「四万十ひのきの家」という家具付き宿泊施設だそうです。そのちょっと下流には「四万十カヌーとキャンプの里かわらっこ」という施設があって、夏にはたくさんのカヌーが川を埋めて、屋形船の船頭さんいわく「邪魔でしょうがない」そうです。この屋形船の料金は本来¥2,000だそうですが、大人数の団体様だったので特別価格¥1,200とのことでした。乗船中¥1,080の一番安い弁当を昼食として頂きました。これは良い商売だなと思いました。
高瀬沈下橋を潜る(船内から)
 船内から両岸を見ますと、木や竹が川下に向かって斜めに傾いています。そして木の枝の高いところにビニールや木の枝などが引っ掛かっていて、ここまで水が上がったことを示していました。信じられない光景です。これだけ川幅が広いのに、7mぐらい水かさが増すとはなんという水量か!

■ 高台の建物が水没する水位まで水が上がる

四万十川屋形船なっとくの船着場、下流に高瀬沈下橋が見えます
 「四万十川屋形船なっとく」の事務所は441号線に面して建っていますが、その隣にある建物が右写真です。川面から見るとかなり高台です。壁に水位表示線がありました。下は2004年10月の台風23号時、上は2005年9月の台風14号時です。2階まで水没したことが分かります。スゴイ!津波みたいじゃありませんか。もちろん道路もすべて水底、左写真の船着場の右側に見える木も、ほぼ水没した水位です。船はどうしたか?ロープでつないで流されないようにしたようです。
高台の家の壁に台風時の水位表示有り

■ 宿毛市と言えば小野 梓と小野義眞、小岩井農場へつながる
 四万十川の屋形船や遊覧船の業者は他にもあるようですが、四万十川に別れを告げ、高瀬沈下橋のちょっと下流で右折、441号線から別れて50号線に入り南下、山間の道を走り、再び国道56号線に合流しました。宿毛(すくも)市に入りました。またくろしお鉄道と並行です。土佐はたくさん偉人を輩出しています。長宗我部元親や山内一豊などのサムライのほか、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、自由民権運動の板垣退助、後藤象二郎、ジョン万次郎、幸徳秋水、植物分類学の世界的権威・第一回文化功労者の牧野富太郎、言わずと知れた岩崎彌太郎などなど...枚挙に暇がありません。吉田茂のお父さんは宿毛市出身です。
 宿毛市と言えば小野 梓と小野義眞ですね。小野 梓はわずか34年の生涯でしたが、そのわずかの間に彼は、大隈重信と共に、立憲改進党を創立し、早稲田大学の前身である東京専門学校を設立し、更に多くの法律書を著作し、自ら東洋館書店を経営して良書の普及に尽力するなど、幾多の大事業を成し遂げました。明治時代の英傑・大隈重信が彼を最も尊敬し、その反対の立場にあった伊藤博文や、井上馨が、彼をはばかっていたそうですから、小野 梓というのは並々ならぬ人物だったことが分かります。
 一方小野義眞は青年時代に緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、維新後は大蔵省や工部省に勤務しましたが、ほどなく官職を辞し、岩崎彌太郎の三菱会社に顧問として招かれました。その後、日本鉄道会社を創設して現在の東北本線のもととなる東京、青森間の鉄道を完成させました。長州出身で日本の鉄道の父と言われる井上勝が、東北本線の延伸工事視察のため盛岡を訪れたとき、岩手山南麓に広がる荒地を見て、国家公共のため、荒地に農場を拓きたいと考えました。自分はこれまで鉄道敷設のために農地を犠牲にしてきた。その罪滅ぼしに、農場を拓こう、この構想を岩崎家のもとで三菱を支えていた小野義眞に打ち明け、助力を依頼します。当時、三菱社は、彌太郎の死後、実弟の岩崎彌之助が第2代社長に就いていました。小野義眞は、早速、井上と彌之助を引き合わせます。井上の高邁な願いに感銘を受けた彌之助は、その場で出資を快諾したといいます。こうして、1891年(明治24年)1月1日、井上が場主となり小岩井農場が開設されました。小岩井という名前は、小野、岩崎、井上、3人の名字から1字ずつ取って作られたものです。
岩手山南麓に広がる日本一の民間牧場;岩手県雫石町の小岩井農場

■ 宇和島の山肌をえぐる爪痕
 宿毛市から西へ走り、また海が見えました。豊後水道です。愛南町、愛媛県に入りました。徳島空港から紀伊水道を望みながら南下、徳島県美波町から太平洋沿いに南西に進み室戸岬でV字ターン、土佐湾沿いに北西に向かい、高知市からまた南西に向かい、そして西へ進んで愛媛県に入り、豊後水道を見ながら今度は北上、四国はたくさんの海があります。
 宇和島市に入ると驚いたのは海岸がとにかくギザギザ、三陸海岸や伊勢志摩のリアス式海岸と同様、岬や入り江が連続して海からすぐ山が立ち上がっています。したがって伊勢志摩同様真珠が名産です。そしてその山にみかんの木がたくさん植えられています。とにかく一面みかん山、オレンジの実がたわわです。
 宇和島市吉田町は昨年7月の水害でみかん山が崩れた地域です。三日間で1000mmを越える大豪雨、鉄砲水だけでなく土砂そのものが土石流として落ちてきて、えぐれた山肌が悲惨、いまだに被害の爪痕が見えました。

宇和島はみかんの大産地

宇和島のドライブインの金ピカ闘牛
 宇和島は暖かい地域なので山は12月なのに青々としています。宇和島市は闘牛でも有名です。バスの車窓から四国四大名城のひとつ宇和島城が見えました。天守閣がそのまま残されている珍しい城、バスは松山自動車道に入り、無料区間を快適に走ります。

■ 肱川
 やがて西予市に入り、海から少し離れて内陸を走り、大洲市へと入りました。肱川に沿って走ったときに、これまた先の水害を思い出しました。死者がたくさん出ましたね。水害で壊れた橋や、建物も見えます。上流のダムの放流など、いろいろ問題となりました。これだけ山が連なっている地域に三日間で1000mmを越える雨が降ったら、災害は避けられないだろうなと感じました。肱川は「ひじかわあらし」で有名ですね。川沿いの空気が急な温度低下で露点に達し、谷あいが霧に埋もれて雲海となってしまう現象です。肱川を越えて松山道の内子五十崎ICで降りました。

■ 内子・白壁の町並み
 愛媛県内子町内子は江戸後期から明治にかけて和紙と木蝋で栄えた商家町です。和紙と木蝋なので、道端にはこうぞ、みつまたが植えられています。ろうそくの材料となる蝋(ろう)のうち、櫨(ハゼ)の木や漆(ウルシ)の木から作るのが木蝋です。
 もともと遍路道にあたることから近世には集落が整い、城主の菩提寺・高昌寺の門前町としても栄えていました。八日市・護国地区には、江戸から明治にかけての繁栄をしのばせる白壁・土蔵の建物が約600mに渡って続いています。バスが駐車したパーキングから、なだらかな下り坂の道の両脇に建物が続いています。黄漆喰、白漆喰で塗り込められた重厚な外壁の商家や土蔵が並び、贅を尽くした漆喰細工や虫籠窓が見事です。昔の職人さんはスゴイですね。上芳我邸は木蝋資料館として公開されています。詳しくは内子さんぽをご覧下さい。
 この町並みは1982年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、現代に至るまで大事に保存されています。JR内子駅から八日市護国の町並みにつながる県道沿いにも、今は飲食店として使われている下芳我邸などの古い建物が残ります。商いと暮らし博物館の近くには、内子で最も知名度の高い観光スポット、内子座があります。木造2階建てで長い間、歌舞伎公演や映画の上映等に使われていましたが、老朽化が進んだことで一度は壊されることが検討されたものの、地元の強い要望で残すことが決まり、1985年に復原作業が完成、その後も改修を重ねて今に至ります。

八日市・護国地区の町並み
現在では、歌舞伎や文楽の公演やイベントなどに使われていて、昔と同じようにたくさんの人に親しまれています。

■ 眼の前は猫の青島、遠くに見えるは周防大島
 内子町から再び肱川沿いに北西に向かいました。肱川が大きな川であることが良くわかりました。しかもクネクネ蛇行しています。大水のときはこのカーブで水が溢れると共に水の流れがせき止められるため水位が上がるのです。長浜に出ました。目の前の海は瀬戸内海、伊予灘を挟んで、一番近い小さな島は青島です。猫の島として有名です。ず〜〜っと遠くに見える大きな島は周防大島です。2017年はいろいろな事件で有名になりました。親と共に帰省中の2歳児;藤本理稀(よしき)ちゃんが8月12日行方不明になり、スーパーボランティアの尾畠さん(78)が3日後に発見したり、大阪府警富田林(とんだばやし)署から逃走し、9月30日に加重逃走容疑で逮捕された樋田(ひだ)淳也容疑者(30)が、自転車で日本一周を目指す旅行者に完全になりきって山口県周防大島町の道の駅「サザンセトとうわ」の従業員に気さくに話しかけ、記念撮影にも応じたりしていたというニュース、あげくには10月22日貨物船が山口県柳井市と結ぶ大島大橋にぶつかって、水道が止まって12月1日にやっと復旧するなど、大きなニュースになりました。

■ 下灘駅からの夕陽
 伊予長浜から90度右折、北東に向かいました。海岸線に沿って走る道路は「夕やけこやけライン」という名前です。並行して走る予讃線は道路よりやや高いところを走ります。海に突き出たしもなだ運動公園にバスが駐車し、踏み切りを渡って坂を昇り、下灘駅へと歩いて向かいました。無人駅ですが、ヒトがイッパイ、みな観光客で、アジア人もいます。駅前にはカフェを営むキッチンカーも停まって、繁盛してます。
 こんな何も無い駅にどうしてこんなにヒトが?ALWAYS三丁目の夕日じゃないけれど、やはり夕日ですね。しかもちょうど汽車が来た!
下灘駅

ちょうど汽車が停車

伊予灘に沈む夕陽
 夕陽が沈む名所と言えば、江ノ電の鎌倉高校前駅、ここでは台湾人がイッパイいますよ。これと同じ感じですね。バスに戻り、下灘駅の次の駅;伊予上灘駅の前にある「道の駅ふたみ」に向かいました。トイレ休憩です。途中でバスの後方に沈む夕陽が見えました。橙色の、大きな太陽です。ギラギラ光りながら沈んで行きます。すぐ左が四国の陸地なので余計に大きく見えます。ここが夕日スポットであることに大納得しました。

■ 道後温泉へ
 「夕やけこやけライン」を海岸線に沿って走り、いよいよ伊予市から松山市に入りました。松山市は一言で言えば、ずいぶん大きなまちです。街の真ん中に松山城がそびえていて、その周囲に繁華街や官庁街が広がっており、城下町として栄えた歴史を今に受け継いでいます。坊っちゃん列車の車窓から、また町歩きをしながらでも、山頂にそびえる美しい城を眺めることができます。
 道後温泉は、日本最古といわれている温泉で、今から約3000年前、傷ついた一羽の白鷺が傷を癒していたことから発見されたと言われています。また、596年には、聖徳太子がこの地を訪れ、温泉の素晴らしさに感動したそうですが、本当かな?街中にこんなに大きな温泉があること自体特異です。東北の温泉地に育った身から見ると、温泉とは山懐に抱かれて、川のほとりに展開するものというイメージがあります。それがこんな街中で、海辺で、しかも平日だというのに賑わっている、ビックリでした。
 海と山に囲まれ、気候も温暖な松山市は、食材の宝庫で、瀬戸内海で水揚げされた新鮮な鯛やアジ、イワシの美味しさには定評があります。さあ、今夜は道後グランドホテルで鯛めしだ!

歴史ある道後温泉本館
■ 訃報・・・市原悦子さん 82歳 梅原猛さん 93歳

 ドラマ「家政婦は見た!」などで知られる演技派女優の市原悦子さんが2019年1月12日心不全のため都内の病院で亡くなったそうです 享年82歳でした 3年前に自己免疫性脊髄炎で入院するなど芸能活動をセーブしていましたが 昨年12月に盲腸となり 一旦退院したものの 正月2日から再入院していたそうです 市原さんと言えば 多くの人に愛され親しまれた女優です  ご冥福を祈ります 合掌
 日本古来の文化や思想を独特の視点で研究した哲学者 梅原猛さんも 同日 肺炎のためご逝去されました 93歳でした 日本古来の“ものづくり”の原点を見直し 高度な技能や技術を身につけることに重点を置こうと埼玉県に設立された「ものつくり大学」の初代総長を務めたほか 作家の大江健三郎さんなどとともに、平和憲法の擁護を訴える「九条の会」の設立の呼びかけ人にもなりました 文化勲章受章など その功績は数々讃えられましたが 哲学者と言えばこのひと という方でした ご冥福を祈ります 合掌


市原悦子さん

梅原 猛さん
(2019年1月15日)


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