273  関宿〜那須
 昨週末は那須の温泉に行ってゆったりと湯治して来ました。69『三県境』(2018年5月8日)で加須市の三県境が唯一平地の陸地にあるというので行って来たことを紹介しましたが、ここは埼玉県、群馬県、栃木県の三県境でした。埼玉県加須市は全国で唯一三県に接する市、群馬県、栃木県、茨城県です。埼玉県、栃木県、茨城県の三県境は川の中でした。今回は千葉県との三県境を探します。

■ 利根川東遷
 埼玉県、群馬県、栃木県の三県境がある渡良瀬遊水池から少し利根川を下ると、圏央道が利根川を跨ぎます。この辺りから利根川と江戸川が分かれます。というよりも利根川は400年ほど前までは東京湾に注いでいたのです。江戸川は当時、太日川と呼ばれ、渡良瀬川の水を東京湾へと運んでいました。利根川は太日川の西側を流れていて、やがて合流して東京湾に注いでいました。江戸に移封された徳川家康は、広大な関東平野を眺め、江戸をどういうまちにしようかと考えたときに、たびたび氾濫する河川をどう治めるかと考えたのでしょう。治山治水、暴れ川の荒川と利根川が共に東京湾に注ぐ状況を変えなければならないと考えたのか?これが家康の偉いところです。江戸幕府はさまざまな河川工事を行いましたが、なかでも最大のものが文禄3年(1594)から始まった利根川の流れを江戸の東側に振り向ける「利根川東遷」と呼ばれる大工事です。家康51歳のときです。現在のような建機が無い時代に、このような壮大な計画・・・まさしくこれがまつりごと・・・政治というものです。60年におよぶ工事の末に利根川は、渡良瀬川、鬼怒川などの水を集めて銚子で太平洋に注ぐようになりました。現在の江戸川の流れもこの工事に伴って誕生しました。中川は、古利根川や元荒川などの支川から成る川ですが、利根川東遷以前は利根川や荒川の本流であり、明治以降の河川改修計画により、江戸川と荒川に囲まれた地域の農業用水路として整備され、さらに新中川の開削、荒川放水路建設を経て、現在の姿になったのです。綾瀬川も江戸時代以前は荒川の水を流す大河だったと思われますが、江戸幕府成立前後に荒川から分離され、以来農業用水路としての役割を担ってきました。
 右の図は国土交通省・関東地方整備局・江戸川河川事務所のホームページにリンクしています。江戸川は埼玉県・東京都と千葉県を分ける川です。上の図でも下の図でも関宿(せきやど)は東京湾に注ぐ川と銚子へ注ぐ川の分岐点でした。
約1000年前の川の流れ。現在の利根川水系の大部分が東京湾に注いでいました
約1000年前の川の流れ。現在の利根川水系の大部分が東京湾に注いでいた様子がわかります。

    

現在の川の流れ。利根川の流路を東側に移動することによって、川の流れは現在のようになりました。
現在の川の流れ。利根川の流路を東側に移動することによって、川の流れが変わりました

■ 関宿(せきやど)と関宿(せきしゅく)
 関宿(せきやど)という地名は、関所と宿場を兼ねたところという意味でしょうか。三重県亀山市に関宿(せきしゅく)という地があります。慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。いわゆる「鈴鹿関」ですね。亀山宿と坂下宿の間になります。
 話を戻して関宿(せきやど)ですが、長禄1(1457)年に簗田成助が関宿城を築いており、古くから関宿の地名があったものと思われます。いずれにせよ交通の要衝ですから、この地は戦略的に重要な地だったようです。江戸川は埼玉県・東京都と千葉県を分ける川と書きましたが、下ると吉川(埼玉)−流山(千葉)、三郷(埼玉)−松戸(千葉)、広大な水元公園があってここで三郷(埼玉)から葛飾区(東京)へと入ります。寅さんの柴又帝釈天と松戸市矢切(千葉)の間が「矢切の渡し」です。小岩(東京都江戸川区)−市川(千葉)を経て、京葉道路が跨ぐちょっと下流で江戸川から旧江戸川が分かれます。江戸川はすぐ東京湾に注ぎますが、旧江戸川は途中で新中川を合流して葛西(東京都江戸川区)−浦安(千葉)の間を流れて東京湾に注ぎます。西からは荒川が東京湾に注ぎます。葛西臨海公園と東京ディズニーランドのあるところです。

■ 関宿城
 筆者は川が好きなので、川の話をしたら止まりません。したがって利根川と江戸川が分かれる地は行った見たくてたまりません。関宿(せきやど)へ向かってカーナビセット、出発進行!・・・利根川と江戸川が分かれた三角点は茨城県猿島郡五霞町でした。利根川を隔てた東側は茨城県猿島郡境町です。三角点のちょい南に関宿城博物館という、遠くから見てもきれいな城があって、ここから南は千葉県野田市です。実際の関宿城はどこかと探して往復しました。一度通って気付かなかった無舗装の農道みたいなところ、土手沿いですが戻ってみたら関宿城址の看板がありました。「城址」ではなく「城趾」と書いてありました。「城跡」とも書きますね。
関宿城博物館

関宿城址
 盛岡市の不来方(こずかた)城は、昔は岩手公園という名前でしたが、今は盛岡城跡公園という名称になっています。関宿城周辺は明治以降の河川改修工事で城下町は跡形も無くなったようで、関宿城があったところというのも牛舎からの細い道の道端に小さな木の繁みがあって、どう見ても城跡とは気付きませんでした。

■ 鈴木貫太郎記念館
 関宿城博物館から関宿城跡へ、さらに細い道を南下すると、「関宿関所跡」という看板があります。隣は香取神社です。ここから真西300m、土手を越えて江戸川の真ん中、ここが茨城県と千葉県と埼玉県の三県境です。東が千葉県野田市関宿町、西北が茨城県猿島郡五霞町、西南が埼玉県幸手市西関宿です。このように三県境はたいてい川のド真ん中や山の尾根のてっぺんにあるものです。
 関宿(せきやど)と言ったら何をさておき、鈴木貫太郎です。「関宿関所跡」から舗装道路を真東へ四百m行ったところに「鈴木貫太郎記念館」がありました。「舗装道路」とわざわざ書くところがスゴイでしょう 駐車場入り口を箒で掃いているおじいさんがいます。車を止めて、「為萬世開太平」というデッカイ石塔を眺めて、萬世、太平、とつぶやいていたらおじいさんが「萬世の為に太平を開くですヨ」と言いながら背後を通り過ぎました。「萬世の為に太平を開く」とは、 中国・北宋時代の哲学者;張横渠の言葉「天地の為に心を立つ。生民の為に命を立つ。往聖の為に絶学を継ぐ。萬世の為に太平を開く」の結語です。これを用いて昭和天皇は終戦の詔勅(しょうちょく)において、「モッテ萬世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス」という玉音放送を流されたわけです。詔はみことのり、日本国憲法発布前の天皇の意思表示のことです。
 鈴木貫太郎は終戦時の首相です。1936年の侍従長時代、2.26事件で銃弾4発食らいながら、トドメを刺そうとする軍人に奥さんのタカさんが「ヤメテクダサイ」と言って思いとどまらせたために生き延びたという壮絶なエピソードを持ちます。頭への銃弾は耳の後ろに抜け、1発は体内に残り、火葬の拾骨で出て来たというのですからスゴイ!終戦の日も私邸を焼き討ちされ、間一髪逃げ延びたそうです。このあたりは「日本のいちばん長い日」という映画にもなりました。

鈴木貫太郎記念館

■ 戦時下の世界に感銘を与えた鈴木談話
 ちなみに「鈴木貫太郎記念館」訪問者は我が夫婦二人だけでした。サミシイ〜。なおウィキペディアによりますと、鈴木総理就任後まもなく死亡したアメリカ大統領ルーズベルトの訃報を知ると、同盟通信社の短波放送で鈴木は「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います」と宣言しました。同じ頃、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーも敗北寸前でしたが、ラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵っていました。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンが鈴木のこの放送に深く感動し、イギリスBBCで「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本には、なお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えたそうです。

■ 鈴木貫太郎とたか夫人
 鈴木貫太郎(1867〜1948)は、大阪の堺市に生まれ、2年後東京に移り、5歳で関宿に移って久世小学校に入学しました。5年後前橋の桃井小学校に転校しています。海軍兵学校を卒業し、日清戦争に従軍、30歳で大沼とよさんと結婚しました。その後ドイツ駐在、日露戦争では日本海海戦に第四駆逐司令として参戦しました。45歳のときに妻とよさんが死去、47歳のときには海軍次官となりました。そして48歳で足立たかさんと結婚します。足立たかさんは父親が札幌農学校の二期生でクラークの教え子でした。子供の頃からスケートにも慣れ親しみ、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)を卒業し、御茶ノ水の幼稚園で働いていたところ、宮内庁から抜擢されて、天皇家の教育係となりました。天皇家では子供たちを幼少の頃から親と引き離して、養育する習慣があったので、いわば親代わりでした。昭和天皇も1978年の記者会見で「タカとは本当に私の母親と同じように親しくしました」と述懐されています。このたかさんがいなかったら、日本の歴史は変わっていたかもしれません。夫の鈴木貫太郎が昭和維新を図る若い将兵たちによる2.26事件で4発の銃弾を浴び、安藤輝三大尉が「トドメを刺します」と喉に刃をあてたとき、たか夫人は「夫は高齢、やめてください。あとは私にまかせてください」と正座したまま、静かな強い口調でそう言い、兵たちは圧倒されたそうです。安藤の号令で「鈴木貫太郎閣下に敬礼!」と全員「捧げ筒」をして兵たちは去りました。実は安藤輝三大尉は鈴木貫太郎と面識があり、「あの方は西郷隆盛のような立派な人だ」と言って、鈴木貫太郎にお願いして一筆頂いていたそうですから、こういう役目は不本意だったと思われます。
 たか夫人は止血術の心得があったので、応急処置をとり、宮内大臣に電話を入れました。宮内大臣は医師の手配をして駆け付けました。まだ鈴木貫太郎には息がありました。宮内大臣に「大丈夫だ」というそばからドクドクと血が滴りました。救急車でかけつけた医者は血の海でスッテンコロリンと転んだそうです。日本医科大学に運ばれ、一度は心臓も停止し、医師たちが蘇生術を施しているとき、たか夫人が「あなた!起きなさいっ!」と叫んだら、息を吹き返したという話もありますが真偽の程はわかりません。宮内大臣から報告を受け、天皇はそれを聞いて激怒したそうです。たか夫人が知らせることなく、天皇が陸軍から都合のいい報告を聞いていたら、2.26事件は違った方向に傾いていたかもしれません。終戦となって、海軍大臣米内光政と同様戦犯にはなりませんでした。米国軍はキッチリ情報収集していました。戦後はあちこちの家で借り住まいして、関宿に自宅を構えました。やはり幼少期5年しか住んでいなくても、この地が鈴木貫太郎にとっての郷里だったのでしょう。関宿では「これからは酪農が大事になる」と言って人々に説きました。これが今でも継承され、牛舎が近隣にありました。1948年4月17日、「永遠の平和、永遠の平和」と口にして永眠されました。享年81歳(満80歳)でした。後に最高位の一位を贈られましたが、いかに日本国が鈴木貫太郎に敬意を持っていたかがこれでわかります。
海上自衛隊幹部学校「米内光政色紙」

■ 那須
 この後、北上して那須へと向かいました。この温泉も何度も来ていますが、今回はホテルサンバレー那須に宿泊しました。那須温泉には有名な殺生石があり、那須温泉郷で最も古く、温泉神社を中心に温泉街を形成しています。旧来の那須湯本温泉街より少し下ったところは、「新那須温泉」と呼称されています。鹿の湯は、鹿が温泉で傷を癒しているところを発見したとされています。江戸時代は黒羽藩が管理し、また松尾芭蕉も奥の細道の途中で那須湯本温泉に宿泊しました。ホテルサンバレー那須は那須岳への斜面の大自然の中に、緑に包まれて九つの建物が点在する大きなホテルです。その割には料金がリーズナブルです。ホテルから帰った翌日の2018年5月27日、TBSテレビ「がっちりマンデー」を見ていたら、国内旅行サイト「ゆこゆこ」が儲かっている秘訣を紹介する中で、「サンバレー那須」が紹介されました。営業密着シーン内にて「ゆこゆこ」の社員が時々宿泊施設を訪問して忌憚の無い意見を言い、宿側はそれに基いて改善することでWINWINの関係を築いているという話でした。6階のレストランで食事をしながら窓から下を眺めたら、アトラクションスパ「アクアヴィーナス」で水着を着た男女が泳いでいました。スパですから寒くないのです。建物ごとに温泉があって「オリエンタルガーデン湯処ひのき」、「フォレストヴィラ森の湯」、「山荘露天風呂」などの湯巡りが楽しめるという話でしたが、本館の「湯遊天国」に入ったら、「硫黄泉」「弱アルカリ泉」「マグネシウム泉」と3種の温泉成分を含んだお風呂があり、岩塩サウナ、炭サウナ、ドライサウナ、ヒーリングサウナ(太陽光で日焼けできる)、ミストサウナと、サウナが5つもあってビックリ。「硫黄泉」=「那須温泉」は、乳白色の単純硫黄泉でpH5.6、硫黄臭がしていかにも温泉らしい感じ、「弱アルカリ泉」=「新那須の湯」はNa・Cl・SO4泉でpH7.6、ほとんど無色透明、無味無臭、「マグネシウム泉」=「平成の湯」はNa・Mg・HCO3・SO4・Cl泉でpH7.2、微黄褐色、無臭で塩味を有します。下の図は女性と男性が固定みたいですが、これは10時〜24時(露天風呂は23時)で、朝5時から9時半の間はこれが男女入れ替わります。このお風呂に入ったら、湯巡りは面倒、やめました。
左側の湯処(女性)は「二の湯」で朝だけ男性用、右側の湯処(男性)は「一の湯」で朝だけ女性用

■ 那須御用邸とつつじ
 翌日は茶臼岳に向けてドライブ、那須湯本温泉〜鹿の湯〜殺生石、そして八幡温泉のツツジの群生地、ところがツツジはほぼ終わり、看板には「5月下旬から6月半ばが見頃」と書いてあります。先般の埼玉県越生町「五大尊つつじ山公園」と同様「ウソつけえ〜」という感じでした。看板に偽り有りという感じです。今年は特別咲くのが早く、終わりも早かったということです。ガッカリして引き返しました。すると那須高原ビジターセンターがあったので、ここで那須御用邸のことをジックリと勉強しました。
 それから真っ直ぐ帰るのもナニなので、板室(いたむろ)温泉を回って帰ってきました。板室はかなりさびれた温泉という感がありました。今はどこもかしこもこんな感じです。

■ 外環道が千葉湾岸まで開通
 外環道=東京外郭環状道路のうち、埼玉県三郷南インターチェンジと千葉県の高谷ジャンクションを結ぶおよそ15キロの区間が2018年6月2日、開通しました。埼玉県内と千葉県の湾岸部のアクセスが向上し、物流の効率化や観光の促進が期待されています。この開通により外環道は全体のおよそ6割が完成し、東北道、関越道など4つの放射道路が接続します。埼玉・群馬などの関東各地から都心を通ることなく千葉県の湾岸部にアクセスすることが可能になり、物流の効率化や観光の促進が期待されています。これまで我が家から千葉湾岸はアクアライン経由でしたが、さて今後はどうするかな?

(2018年6月3日)


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