昨週末は那須の温泉に行ってゆったりと湯治して来ました。69『三県境』(2018年5月8日)で加須市の三県境が唯一平地の陸地にあるというので行って来たことを紹介しましたが、ここは埼玉県、群馬県、栃木県の三県境でした。埼玉県加須市は全国で唯一三県に接する市、群馬県、栃木県、茨城県です。埼玉県、栃木県、茨城県の三県境は川の中でした。今回は千葉県との三県境を探します。 ■ 利根川東遷
■ 関宿(せきやど)と関宿(せきしゅく) 関宿(せきやど)という地名は、関所と宿場を兼ねたところという意味でしょうか。三重県亀山市に関宿(せきしゅく)という地があります。慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。いわゆる「鈴鹿関」ですね。亀山宿と坂下宿の間になります。 話を戻して関宿(せきやど)ですが、長禄1(1457)年に簗田成助が関宿城を築いており、古くから関宿の地名があったものと思われます。いずれにせよ交通の要衝ですから、この地は戦略的に重要な地だったようです。江戸川は埼玉県・東京都と千葉県を分ける川と書きましたが、下ると吉川(埼玉)−流山(千葉)、三郷(埼玉)−松戸(千葉)、広大な水元公園があってここで三郷(埼玉)から葛飾区(東京)へと入ります。寅さんの柴又帝釈天と松戸市矢切(千葉)の間が「矢切の渡し」です。小岩(東京都江戸川区)−市川(千葉)を経て、京葉道路が跨ぐちょっと下流で江戸川から旧江戸川が分かれます。江戸川はすぐ東京湾に注ぎますが、旧江戸川は途中で新中川を合流して葛西(東京都江戸川区)−浦安(千葉)の間を流れて東京湾に注ぎます。西からは荒川が東京湾に注ぎます。葛西臨海公園と東京ディズニーランドのあるところです。 ■ 関宿城
■ 鈴木貫太郎記念館
■ 戦時下の世界に感銘を与えた鈴木談話 ちなみに「鈴木貫太郎記念館」訪問者は我が夫婦二人だけでした。サミシイ〜。なおウィキペディアによりますと、鈴木総理就任後まもなく死亡したアメリカ大統領ルーズベルトの訃報を知ると、同盟通信社の短波放送で鈴木は「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います」と宣言しました。同じ頃、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーも敗北寸前でしたが、ラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵っていました。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンが鈴木のこの放送に深く感動し、イギリスBBCで「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本には、なお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えたそうです。 ■ 鈴木貫太郎とたか夫人 鈴木貫太郎(1867〜1948)は、大阪の堺市に生まれ、2年後東京に移り、5歳で関宿に移って久世小学校に入学しました。5年後前橋の桃井小学校に転校しています。海軍兵学校を卒業し、日清戦争に従軍、30歳で大沼とよさんと結婚しました。その後ドイツ駐在、日露戦争では日本海海戦に第四駆逐司令として参戦しました。45歳のときに妻とよさんが死去、47歳のときには海軍次官となりました。そして48歳で足立たかさんと結婚します。足立たかさんは父親が札幌農学校の二期生でクラークの教え子でした。子供の頃からスケートにも慣れ親しみ、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)を卒業し、御茶ノ水の幼稚園で働いていたところ、宮内庁から抜擢されて、天皇家の教育係となりました。天皇家では子供たちを幼少の頃から親と引き離して、養育する習慣があったので、いわば親代わりでした。昭和天皇も1978年の記者会見で「タカとは本当に私の母親と同じように親しくしました」と述懐されています。このたかさんがいなかったら、日本の歴史は変わっていたかもしれません。夫の鈴木貫太郎が昭和維新を図る若い将兵たちによる2.26事件で4発の銃弾を浴び、安藤輝三大尉が「トドメを刺します」と喉に刃をあてたとき、たか夫人は「夫は高齢、やめてください。あとは私にまかせてください」と正座したまま、静かな強い口調でそう言い、兵たちは圧倒されたそうです。安藤の号令で「鈴木貫太郎閣下に敬礼!」と全員「捧げ筒」をして兵たちは去りました。実は安藤輝三大尉は鈴木貫太郎と面識があり、「あの方は西郷隆盛のような立派な人だ」と言って、鈴木貫太郎にお願いして一筆頂いていたそうですから、こういう役目は不本意だったと思われます。
■ 那須へ この後、北上して那須へと向かいました。この温泉も何度も来ていますが、今回はホテルサンバレー那須に宿泊しました。那須温泉には有名な殺生石があり、那須温泉郷で最も古く、温泉神社を中心に温泉街を形成しています。旧来の那須湯本温泉街より少し下ったところは、「新那須温泉」と呼称されています。鹿の湯は、鹿が温泉で傷を癒しているところを発見したとされています。江戸時代は黒羽藩が管理し、また松尾芭蕉も奥の細道の途中で那須湯本温泉に宿泊しました。ホテルサンバレー那須は那須岳への斜面の大自然の中に、緑に包まれて九つの建物が点在する大きなホテルです。その割には料金がリーズナブルです。ホテルから帰った翌日の2018年5月27日、TBSテレビ「がっちりマンデー」を見ていたら、国内旅行サイト「ゆこゆこ」が儲かっている秘訣を紹介する中で、「サンバレー那須」が紹介されました。営業密着シーン内にて「ゆこゆこ」の社員が時々宿泊施設を訪問して忌憚の無い意見を言い、宿側はそれに基いて改善することでWINWINの関係を築いているという話でした。6階のレストランで食事をしながら窓から下を眺めたら、アトラクションスパ「アクアヴィーナス」で水着を着た男女が泳いでいました。スパですから寒くないのです。建物ごとに温泉があって「オリエンタルガーデン湯処ひのき」、「フォレストヴィラ森の湯」、「山荘露天風呂」などの湯巡りが楽しめるという話でしたが、本館の「湯遊天国」に入ったら、「硫黄泉」「弱アルカリ泉」「マグネシウム泉」と3種の温泉成分を含んだお風呂があり、岩塩サウナ、炭サウナ、ドライサウナ、ヒーリングサウナ(太陽光で日焼けできる)、ミストサウナと、サウナが5つもあってビックリ。「硫黄泉」=「那須温泉」は、乳白色の単純硫黄泉でpH5.6、硫黄臭がしていかにも温泉らしい感じ、「弱アルカリ泉」=「新那須の湯」はNa・Cl・SO4泉でpH7.6、ほとんど無色透明、無味無臭、「マグネシウム泉」=「平成の湯」はNa・Mg・HCO3・SO4・Cl泉でpH7.2、微黄褐色、無臭で塩味を有します。下の図は女性と男性が固定みたいですが、これは10時〜24時(露天風呂は23時)で、朝5時から9時半の間はこれが男女入れ替わります。このお風呂に入ったら、湯巡りは面倒、やめました。 ■ 那須御用邸とつつじ 翌日は茶臼岳に向けてドライブ、那須湯本温泉〜鹿の湯〜殺生石、そして八幡温泉のツツジの群生地、ところがツツジはほぼ終わり、看板には「5月下旬から6月半ばが見頃」と書いてあります。先般の埼玉県越生町「五大尊つつじ山公園」と同様「ウソつけえ〜」という感じでした。看板に偽り有りという感じです。今年は特別咲くのが早く、終わりも早かったということです。ガッカリして引き返しました。すると那須高原ビジターセンターがあったので、ここで那須御用邸のことをジックリと勉強しました。 それから真っ直ぐ帰るのもナニなので、板室(いたむろ)温泉を回って帰ってきました。板室はかなりさびれた温泉という感がありました。今はどこもかしこもこんな感じです。 ■ 外環道が千葉湾岸まで開通 外環道=東京外郭環状道路のうち、埼玉県三郷南インターチェンジと千葉県の高谷ジャンクションを結ぶおよそ15キロの区間が2018年6月2日、開通しました。埼玉県内と千葉県の湾岸部のアクセスが向上し、物流の効率化や観光の促進が期待されています。この開通により外環道は全体のおよそ6割が完成し、東北道、関越道など4つの放射道路が接続します。埼玉・群馬などの関東各地から都心を通ることなく千葉県の湾岸部にアクセスすることが可能になり、物流の効率化や観光の促進が期待されています。これまで我が家から千葉湾岸はアクアライン経由でしたが、さて今後はどうするかな? (2018年6月3日) |