84 白蓮
NHK朝ドラはこのところ好調続きです。「マッサン」がスタートしましたが、史上初の青い目のヒロインが、信じられないような異文化の中で、けなげにも愛する夫のために「ワタシ、ガンバリマス、アナタモガンバッテ」と励ます姿に心打たれます。日本では見知らぬ男女が親の意向で結婚するということを聞いて眼を丸くします。確かに我々の親の世代にもまだそうした慣わしはありました。 ■ 「家」制度の崩壊
■ 地方創生と日本創成
■ 花子とアン…波瀾万丈の蓮子の人生
■ 柳原Y子→伊藤Y子→白蓮
■ 伊藤Y子→宮崎Y子、白蓮事件 やがてドラマのように、出会って恋仲となった宮崎龍介は、7歳年下の27歳で、孫文を支援した宮崎滔天の長男で、東京帝国大学法科の3年に在籍しながら新人会を結成して労働運動に打ち込んでいました。両親共に筋金入りの社会運動家の血を引き、時代の先端を走る社会変革の夢を語る龍介は、Y子がこれまで出会った事のない新鮮な思想の持ち主でした。一方龍介は、Y子が気取ったところがなく、誰に対しても率直に意見を述べ、自分の中に一つのしっかりしたものを持つ、当時の女性としては珍しい個性に惹きつけられたようです。
■ 苦しい暮らしをペンで支えた白蓮に伊藤伝右衛門の支援が・・・ およそ2年後、1923年(大正12)9月、関東大震災が起きました。Y子は駆け落ち騒動の最中に生まれた長男・香織と共に宮崎家に入ります。以降、柳原白蓮、柳原Y子の筆名で活動します。 Y子の出産をめぐり、宮内省から再三に渡って法律上は自分の子として入籍するよう迫られた伝右衛門ですが、1歳の香織が実子でない事を証明する嫡出子否認の訴えを起こし、精子検査を受け生殖不能である事を証明し、香織は伝右衛門との婚姻中に孕まれた不義の子である事が法的に明らかにされました。「出奔」だけではなく「姦通」が明らかとなり、宮内省はY子を華族から除籍しました。京都で判を押していたY子と龍介の婚姻届が提出されたのは、事件から4年を経た1925年(大正14年)になってからの事でした。宮崎家の人となったY子は、それまで経験した事のない経済的困窮に直面します。弁護士となっていた龍介は結核が再発して病床に伏し、宮崎家には父滔天が残した莫大な借金がありました。裁縫は得意でしたが、炊事洗濯は出来ないY子に代わり、姑の槌子が家事と育児を引き受けました。Y子は小説を執筆し、歌集も出版、色紙や講演の依頼も引き受け、龍介が動けなかった3年間はY子の筆一本で家計を支えました。1925年(大正14)9月、長女の蕗苳(ふき)が誕生しました。 平民となったY子は、夫龍介が病床に伏し、借金と大勢の食客を抱える宮崎家の大黒柱として家計を支えました。Y子の筆一本に支えられる苦しい生活が数年続く中、吉原の娼婦を救済し、新聞にも取り上げられます。出奔事件から5年後、伝右衛門からY子宛てに、伊藤家に残してきた宝石・貴金属・家具・生活用品など、おびただしい品物が返送されてきました。そのうち、宝石や貴金属は伝右衛門から頂いたものだから、と返却しましたが、元々嫁ぐ際に持参していた調度などはそのまま受け取ることとし、特に大切にしていた柳原家縁の人形「みどり丸」が戻ってきた事を、Y子は泣いて喜んだそうです。伝右衛門がY子の窮状を聞き及び、いわば裏切った夫から援助の形で送られてきたものと思われます。伝右衛門がY子に対して抱いていた気持ちがしのばれるエピソードです。 ■ 3番目の夫宮崎龍介とは 宮崎龍介(みやざき りゅうすけ、1892年(明治25年)11月2日 - 1971年(昭和46年)1月23日)は、孫文の盟友・宮崎滔天の長男、母は前田案山子の三女・槌子です。顔は、日本水泳の萩野公介(20)に似ています。萩野公介は2014仁川(インチョン)アジア競技大会のMVPに輝いた選手です。 1937年(昭和12年)7月、近衛文麿首相の密使として、蒋介石との和平協議のために中国を訪問しようとしましたが、これに反対する陸軍憲兵隊に神戸港で逮捕されました。大東亜戦争でY子との間の長男・香織が早稲田大学政経学部在学中に学徒出陣し、終戦の4日前に、所属していた陸軍・串木野市の基地に爆撃を受けて戦死しました。 戦後、日本社会党の結成に参加して中央委員となりましたが、間もなく離党、1954年(昭和29年)には憲法擁護国民連合の結成に参加して常任委員となり、1967年(昭和42年)には代表委員に選ばれ、また1956年(昭和31年)には孫文の活動を顕彰する日本中山会を結成するなど、一貫して護憲運動や日中友好協会の常任理事となって中国との関係改善に努めました。 1956年(昭和31)5月、白蓮は龍介と同行して中国を訪問し、毛沢東主席、周恩来総理と対面しました。今考えれば、この二人はすごい大物だったんですね。1967(昭和42)年2月22日白蓮死去(81歳)、葬儀委員長はナント!あの片山哲でした。白蓮事件から46年後、添い遂げたY子を見送った龍介は『文藝春秋』に回顧録「柳原白蓮との半世紀」を寄せました。その中でY子について以下のように締めくくりました。 「私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は、伊藤や柳原の人人よりはY子の個性を理解し、援助してやることが出来たと思っています。波瀾にとんだ風雪の前半生をくぐり抜けて、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだ、と思っています」 龍介は、『宮崎滔天全集』の刊行準備中に、心筋梗塞により死去しました。享年78歳でした。宮崎家は長女の蕗苳が継ぎ、滔天全集も娘夫婦によって完成されました。 ■ 宮崎家と伊藤家のその後 1996年(平成8年)、Y子の長女・宮崎蕗苳が、招待されて初めて飯塚市の旧伊藤伝右衛門邸を訪れました。この屋敷は、2006年(平成18年)に飯塚市所有となりました。旧伊藤邸は補修工事が行われた後、2007年(平成19年)に一般公開され、公開記念式典では来賓の伝右衛門の孫(静子の子)である伊藤傳之祐と、Y子の孫・宮崎黄石が対面して握手を交わしています。
■ 白蓮を支えた梅屋庄吉
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