84  白蓮

 NHK朝ドラはこのところ好調続きです。「マッサン」がスタートしましたが、史上初の青い目のヒロインが、信じられないような異文化の中で、けなげにも愛する夫のために「ワタシ、ガンバリマス、アナタモガンバッテ」と励ます姿に心打たれます。日本では見知らぬ男女が親の意向で結婚するということを聞いて眼を丸くします。確かに我々の親の世代にもまだそうした慣わしはありました。

■ 「家」制度の崩壊
 結婚というものが「家」と「家」の間で執り行われることが当然だった社会では、「家」を存続、発展させるためには世継ぎを産ませる必要があり、そのためには血筋が重要でした。美男、美女からは可愛い子供が産まれますし、頭の良い親同士なら子供も頭が良いものです。天皇家などは血が濃くなり過ぎるので、意識的に平民の妻を娶るようになりました。今、離婚が多いのはいろいろ理由がありますが、親の意思で結婚しても、子供が産まれないと離婚させられたものです。ところが今結婚しない男女が増えて、少子化で日本社会が衰退の一途なのは、「家」制度の崩壊のためです。戦後進んだ「核家族化」は、「家」の概念を変えました。変えたというより、崩壊したというほうが正しいでしょうか。「家」が無くなれば、何百年も持つような頑丈な建物は不要です。ふるさとも無くなります。第一次産業から第二次産業への人々の移動、そして今や第三次産業へ雪崩を打って移動していますから、人々の暮らしは浮き草暮らしになってきました。するとお墓というものが問題になります。先祖代々の墓を捨てる人が続々と現れているのはそのためです。
彼岸花の時季は過ぎました

■ 地方創生と日本創成
 安倍首相が「地方創生」と言っているのは、こうした社会の仕組みを変えて行こうというものですが、昔に戻そうということではなく、東京集中を防ぎ、地方で「まち・ひと・しごと」を作り直そうという意味です。かつて竹下内閣当時「ふるさと創生」事業として各自治体に1億円ずつばらまきました。これによって、いろいろなものが作られました。今回は社会の仕組みそのものが変わっていますので、もはや地方に工場を誘致しようとしても、ものづくりそのものが崩壊しかかっていますので、手を上げる会社も従業員もいません。第一次産業回帰という流れは確かにあります。物流が便利になったのがこれを後押しするでしょう。そもそもきっかけとなった我が妻のハトコ増田寛也さんが言っている「日本創成」とは字が違いますね。創生とは「初めて生み出す」ことで、「創成」とは「新たな仕組みを作り出す」ことです。どちらにしてもその根幹は生むこと、そのためには「産む」仕組みを作り出すことです。男女が子供を産むためには将来への希望が必要であり、そのためには社会そのものが変わって行かなければならない、その根幹は米国型市場原理主義ではなく、日本型助け合い社会でなければならないと考えます。重要なのは食糧とエネルギーの確保、そして水と空気です。大変難しいけれど、壮大な社会変革に私たちはこれから立ち向かわなければなりません。
コスモス真っ盛りです

■ 花子とアン…波瀾万丈の蓮子の人生
 NHK朝ドラ「花子とアン」が終わりましたが、好調な視聴率でした。吉高由里子が演じた主人公の花子、『赤毛のアン』を翻訳した「村岡花子」という大翻訳家の人生ドラマです。ところが、仲間由紀恵が演じた、腹心の友の蓮子のキャラクターが回を追うごとに膨らんで行き、「脇役」だったはずの蓮子が存在感を増して行きました。蓮子が出てくると視聴率が上がる、主な視聴者層である主婦達が、蓮子に惹きつけられた結果です。この朝ドラは「花子とアン」ではなくて、実は「花子と蓮子」という二人の対比の中に展開したドラマになって行きました。大正時代、結婚は親が決めるものでした。15歳で子供を産み、出戻って、次は親子ほども歳の違う炭坑王の夫・伝助とのからみ、帝大生龍一との出会い、駆け落ち、生まれた息子との言い争い、花子とのぶつかりあい、友情のほころび、次々と波瀾万丈のドラマが展開されます。視聴者は蓮子の表情にぐぐっと引き寄せられ、画面をじっと凝視してしまいます。蓮子を演じた仲間由紀恵の表情の中に、人が生きる喜びと悲しみが、ステージを変えて見てとれたからかもしれません。台詞の無いシーンでも、目が切々と語りかけてくる、絶望とかすかな希望とが、ひとつの顔の中に交錯している、そんな蓮子に釘付けになってしまったから、人気が出たのでしょう。際立つ演技力で、かつてはパワフル高校女教師を演じた仲間由紀恵は、ますます名女優の声望を高めました。花子役・吉高由里子も良かったけれど、「花子」という人物よりも、「蓮子」の「波瀾万丈の人生」のほうが際立ったのは仕方ありません。
NHK朝ドラ「花子とアン」の蓮子

■ 柳原Y子→北小路Y子
 「蓮子」のモデルである柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年(明治18年)10月15日〜1967年(昭和42年)2月22日)は、大正三美人の一人と言われ、大正天皇の従妹にあたります。本名は宮崎Y子(みやざきあきこ)で、旧姓:柳原(やなぎわら)です。「姦通」によって、宮内省より華族から除籍されるという、前代未聞の「白蓮事件」で知られます。父は柳原前光伯爵、母は前光の妾のひとりで、柳橋の芸妓となっていた没落士族の娘奥津りょうであり、東京で生まれました。大正天皇の生母である柳原愛子の姪にあたります。
 最初の夫である華族・北小路資武との間に男児(功光)をもうけたのは15歳のときです。しかし、今で言うDV夫との結婚期間は5年、1900年から1905年で終わりました。子供を北小路家に残して柳原家に戻ったY子は、東洋英和女学校に入り、腹心の友・花子と出会うのです。出戻りであるY子が当然年上なわけです。

蓮の花

■ 柳原Y子→伊藤Y子→白蓮
 2番目の夫の炭坑王・伊藤伝右衛門と再婚したのは25歳の時です。このとき夫は50歳でした。この結婚は1911年から1921年まで続きます。伊藤伝右衛門は女遊びも盛んで、その歪んだ結婚生活の中、夫のために女を手当するようなY子でした。自らの存念はひたすら短歌に託し、竹柏会の機関誌『心の花』に発表し続けました。師である佐佐木信綱は、私生活を赤裸々に歌い上げる内容に驚き、本名ではなく雅号の使用を勧め、信仰していた日蓮宗にちなんで「白蓮」と名乗る事となりました。Y子は福岡社交界の華となりました。1915年(大正4年)3月、『心の花』の叢書として処女作の歌集『踏絵』を自費出版します。歌壇で賛否を呼びながら話題となり、新聞にも好意的に取り上げられました。何と言っても大正三美人の一人で、叔母が大正天皇生母である柳原愛子であり、夫が炭坑王で、美貌、教養、血筋、お金、すべて備えています。人気画家の竹久夢二が挿絵を手がけた豪華な装丁の本の出版の背景には、信綱から夢二への依頼があったらしく、また、伝右衛門の多額な出資があったようです。この年に大分県別府に広大な伊藤家別荘が落成し、多くの文化人が訪れるY子の文化サロンとなりました。
 右の写真は1911年(明治44年)3月、伊藤伝右衛門と柳原Y子の結婚写真で、日比谷大神宮で結婚式が行われ、帝国ホテルで盛大な披露宴が行われました。労働者上がりで、ろくな教育も受けていない地方の一介の炭鉱主が、皇室ゆかりの伯爵家から妻を娶るのは前代未聞の事で、当時、「華族の令嬢が売物に出た」と話題になったそうです。

伊藤伝右衛門と柳原Y子の
結婚写真(Wikipediaより)

■ 伊藤Y子→宮崎Y子、白蓮事件
 やがてドラマのように、出会って恋仲となった宮崎龍介は、7歳年下の27歳で、孫文を支援した宮崎滔天の長男で、東京帝国大学法科の3年に在籍しながら新人会を結成して労働運動に打ち込んでいました。両親共に筋金入りの社会運動家の血を引き、時代の先端を走る社会変革の夢を語る龍介は、Y子がこれまで出会った事のない新鮮な思想の持ち主でした。一方龍介は、Y子が気取ったところがなく、誰に対しても率直に意見を述べ、自分の中に一つのしっかりしたものを持つ、当時の女性としては珍しい個性に惹きつけられたようです。
 「白蓮事件」と呼ばれる騒動のいきさつ・・・1921年(大正10年)10月20日、伊藤伝右衛門は夫婦で滞在していた旅館から、福岡へ帰るために車で東京駅へ向かい、妻・Y子は親族を訪問する予定で東京に残り、伝右衛門を見送りました。しかし、Y子はそのまま旅館に戻らずに行方をくらませ、2日後、大阪朝日新聞朝刊社会面に「『筑紫の女王』伊藤Y子 伝右衛門氏に絶縁状を送り 東京駅から突然姿をくらます 愛人宮崎法学士と新生活?」の見出しで失踪の第一報が伝えられました。大阪朝日は同日夕刊で、さらに単独スクープのY子から伝右衛門に当てた「絶縁状」を全文公開しました。朝日のスクープは、姦通罪を逃れるため、龍介が友人(その中に朝日新聞記者もいた)たちに相談し、マスコミを利用して世論に訴え、人権問題として出奔を正当化するために仕掛けられたものでした。更にその2日後、大阪毎日新聞で、福岡支局在籍時代にY子と親しく交流があった記者の筆による「絶縁状を読みてY子に与ふ」という絶縁状への反論文の連載記事が始まりました。手記の公開を渋る伝右衛門に対し、事後承諾の形での掲載でした。Y子を悲劇のヒロインとして取り扱った朝日に対し、毎日は女性評論家によるY子への批判コメントを掲載し、明確に伝右衛門サイドに立った記事でした。しかし、事件からわずか10日後、伊藤家側は極めて寛大な処置で迅速に身を引きました。伝右衛門は一族に「末代まで一言の弁明も無用」と言い渡し、息巻く地元の血気盛んな男達にも「手出しは許さん」と一喝したそうです。NHK連続テレビ小説「花子とアン」では、伝右衛門モデルの嘉納伝助が、男気のある人物として一躍人気者になりましたが、これは事実だったんですね。
NHK朝ドラ「花子とアン」の嘉納伝助

■ 苦しい暮らしをペンで支えた白蓮に伊藤伝右衛門の支援が・・・
 およそ2年後、1923年(大正12)9月、関東大震災が起きました。Y子は駆け落ち騒動の最中に生まれた長男・香織と共に宮崎家に入ります。以降、柳原白蓮、柳原Y子の筆名で活動します。
 Y子の出産をめぐり、宮内省から再三に渡って法律上は自分の子として入籍するよう迫られた伝右衛門ですが、1歳の香織が実子でない事を証明する嫡出子否認の訴えを起こし、精子検査を受け生殖不能である事を証明し、香織は伝右衛門との婚姻中に孕まれた不義の子である事が法的に明らかにされました。「出奔」だけではなく「姦通」が明らかとなり、宮内省はY子を華族から除籍しました。京都で判を押していたY子と龍介の婚姻届が提出されたのは、事件から4年を経た1925年(大正14年)になってからの事でした。宮崎家の人となったY子は、それまで経験した事のない経済的困窮に直面します。弁護士となっていた龍介は結核が再発して病床に伏し、宮崎家には父滔天が残した莫大な借金がありました。裁縫は得意でしたが、炊事洗濯は出来ないY子に代わり、姑の槌子が家事と育児を引き受けました。Y子は小説を執筆し、歌集も出版、色紙や講演の依頼も引き受け、龍介が動けなかった3年間はY子の筆一本で家計を支えました。1925年(大正14)9月、長女の蕗苳(ふき)が誕生しました。
 平民となったY子は、夫龍介が病床に伏し、借金と大勢の食客を抱える宮崎家の大黒柱として家計を支えました。Y子の筆一本に支えられる苦しい生活が数年続く中、吉原の娼婦を救済し、新聞にも取り上げられます。出奔事件から5年後、伝右衛門からY子宛てに、伊藤家に残してきた宝石・貴金属・家具・生活用品など、おびただしい品物が返送されてきました。そのうち、宝石や貴金属は伝右衛門から頂いたものだから、と返却しましたが、元々嫁ぐ際に持参していた調度などはそのまま受け取ることとし、特に大切にしていた柳原家縁の人形「みどり丸」が戻ってきた事を、Y子は泣いて喜んだそうです。伝右衛門がY子の窮状を聞き及び、いわば裏切った夫から援助の形で送られてきたものと思われます。伝右衛門がY子に対して抱いていた気持ちがしのばれるエピソードです。

■ 3番目の夫宮崎龍介とは
 宮崎龍介(みやざき りゅうすけ、1892年(明治25年)11月2日 - 1971年(昭和46年)1月23日)は、孫文の盟友・宮崎滔天の長男、母は前田案山子の三女・槌子です。顔は、日本水泳の萩野公介(20)に似ています。萩野公介は2014仁川(インチョン)アジア競技大会のMVPに輝いた選手です。
 1937年(昭和12年)7月、近衛文麿首相の密使として、蒋介石との和平協議のために中国を訪問しようとしましたが、これに反対する陸軍憲兵隊に神戸港で逮捕されました。大東亜戦争でY子との間の長男・香織が早稲田大学政経学部在学中に学徒出陣し、終戦の4日前に、所属していた陸軍・串木野市の基地に爆撃を受けて戦死しました。
 戦後、日本社会党の結成に参加して中央委員となりましたが、間もなく離党、1954年(昭和29年)には憲法擁護国民連合の結成に参加して常任委員となり、1967年(昭和42年)には代表委員に選ばれ、また1956年(昭和31年)には孫文の活動を顕彰する日本中山会を結成するなど、一貫して護憲運動や日中友好協会の常任理事となって中国との関係改善に努めました。
 1956年(昭和31)5月、白蓮は龍介と同行して中国を訪問し、毛沢東主席、周恩来総理と対面しました。今考えれば、この二人はすごい大物だったんですね。1967(昭和42)年2月22日白蓮死去(81歳)、葬儀委員長はナント!あの片山哲でした。白蓮事件から46年後、添い遂げたY子を見送った龍介は『文藝春秋』に回顧録「柳原白蓮との半世紀」を寄せました。その中でY子について以下のように締めくくりました。
 「私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は、伊藤や柳原の人人よりはY子の個性を理解し、援助してやることが出来たと思っています。波瀾にとんだ風雪の前半生をくぐり抜けて、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだ、と思っています」
 龍介は、『宮崎滔天全集』の刊行準備中に、心筋梗塞により死去しました。享年78歳でした。宮崎家は長女の蕗苳が継ぎ、滔天全集も娘夫婦によって完成されました。

■ 宮崎家と伊藤家のその後
 1996年(平成8年)、Y子の長女・宮崎蕗苳が、招待されて初めて飯塚市の旧伊藤伝右衛門邸を訪れました。この屋敷は、2006年(平成18年)に飯塚市所有となりました。旧伊藤邸は補修工事が行われた後、2007年(平成19年)に一般公開され、公開記念式典では来賓の伝右衛門の孫(静子の子)である伊藤傳之祐と、Y子の孫・宮崎黄石が対面して握手を交わしています。
 2011年(平成23年)にも伝右衛門邸で行われた柳原白蓮展に蕗苳が招かれています。飯塚には柳原白蓮歌碑が旧伊藤伝右衛門邸と嘉穂劇場の近くと、遠賀川河川敷の3か所に建立されています。九州観光推進機構では、2007年(平成19年)12月、広域観光ルート支援モデル第1号に白蓮・伝右衛門・龍介縁の飯塚市・東峰村・日田市・荒尾市が選定され、4地区合同で観光PRを行っています。NHK連続テレビ小説「花子とアン」で、伝右衛門人気が高まったので、今後注目の観光スポットです。 旧伊藤伝右衛門邸のその後|旧伊藤伝右衛門邸
伊藤伝右衛門邸

■ 白蓮を支えた梅屋庄吉
 柳原白蓮は、関東大震災の後に、千葉県夷隅郡長者町(現・いすみ市日在)の梅屋庄吉(うめや しょうきち、明治元年11月26日(1869年1月8日)- 昭和9年(1934年)11月23日)の別荘に一時期暮らしたことがあり、白蓮の離婚訴訟も梅屋夫妻が応援していました。梅屋庄吉は孫文と辛亥革命を支えた日本人です。若いころから海外に出た経験をもち、西欧人のアジア人(黄色人種)に対する差別を実感していました。孫文を支援したくなる背景には、同じアジア人としての同胞意識が感じられます。日本の中だけで育った人とは異なり、国際感覚も磨かれていました。当時、アメリカでメジャーになりつつあった映画制作会社からの制約や支配を嫌い、また新しい表現を求めた若い映画人達が西海岸に移住し、映画都市・ハリウッドが形成され始めるのが100年前の1910年代です。その当時、東京に存在した日本の映画会社で、日本最古の映画会社のひとつだったのがM・パテー商会(1906年7月4日 - 1912年9月 合併)であり、その後、日活を構成する前身4社のうち1社として映画史にその名を残しました。この会社を創業したのが梅屋庄吉です。

■ 梅屋庄吉の生涯が本になりました
 この梅屋庄吉の生涯が本になりました。「革命をプロデュースした日本人」という森のレストラン「日比谷松本楼」の常務取締役、小坂文乃さんの著です。
 孫文の支援者、日活の創業者のひとり梅屋庄吉は、1913年(大正2年)に孫文が袁世凱に敗北し日本に亡命した後も、1915年(大正4年)に孫文と宋慶齢との結婚披露宴を東京・新宿(大久保百人町)の自邸で主催するなど、たびたび孫文への援助を続けました。1929年(昭和4年)には南京に孫文像を寄贈しています。
 また、頭山満、犬養毅、山田純三郎、宮崎滔天らアジア主義者らと集い、フィリピンの独立運動にも関与しました。前出の千葉県の別荘において孫文らと秘密の会議をしばしば行なっておりました。この別荘は高い塀と樹木に囲まれており、外部からは内部の様子がほとんど見えず、場違いの白亜の館らしきものが見える状態でした。日中関係の悪化に伴い、外相・広田弘毅に改善の談判に赴こうとした途上、別荘の最寄駅である外房線三門駅にて倒れ、急死しました。65歳でした。

■ 壮大なアジア主義者梅屋庄吉
 この本では、映画ビジネスで巨万の富を築いた梅屋庄吉が、その富で支援し続けた孫文の辛亥革命とそのエピソードが描かれます。
 辛亥革命は、1911年(宣統3年)から1912年にかけて、中国で発生した革命です。名称は、革命が勃発した1911年の干支である辛亥に因むもの、革命のスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、建立民国、平均地権(打倒清朝、回復中華、樹立民国、地権平等)」。
 狭義では、1911年10月10日夜に発生した武昌起義から、1912年2月12日の宣統帝の退位までの期間を指します。広義では、清朝末期からの一連の革命運動から中華民国成立までの、比較的長期間の政治的運動を示します。
 辛亥革命の理念と成果は、袁世凱を中心とする北洋軍閥により撤回され、地権平等も実現しませんでした。しかし、古代より続いて来た帝政を終わらせ、アジアでも初の共和制国家を樹立し、現在の台湾に繋がる政治潮流を造出した歴史的な革命であります。20世紀には、世界各地で君主制国家が打倒されて共和制国家が樹立された革命が相次ぎましたが、辛亥革命は20世紀に起こった共和制革命の先駆けとも言えるものでしょう。

革命をプロデュースした日本人



10円カレーチャリティ
 アジア主義というのは、一面大東亜に繋がるものであったかもしれません。しかし後に日本陸軍が目指した大東亜共栄圏とは違い、欧米に対する大東亜という意味で、今後世界の中心になって行く東アジアをまさに予言するものでした。日本は、中国、韓国とギクシャクしている場面ではありません。梅屋庄吉、柳原白蓮、宮崎龍介が目指した世界こそ、今最も日本に必要とされているものであります。

■ 日比谷松本楼
 梅屋庄吉が孫文を支援した時代の日本は、日清戦争と日露戦争など度重なる対外拡張政策により対外債務が膨張し、1905年から1914年にかけての時期は、明治維新以来の経済体制が崩壊の危機に瀕していたのですから、現在に換算した2兆円もの額を孫文を支援するために投じたという気概は、並々ならぬものだったのですね。
 森のレストラン「日比谷松本楼」は日比谷公園の鬱蒼とした森の中にあります。ここに梅屋庄吉と孫文の歴史があるのです。小坂文乃さんのパーソナルブログ<Happy-sanになろう!>、小坂文乃さんの仕事ブログ<日比谷松本楼 スタッフブログ>をご覧になれば、いろいろ参考になりますよ。


日比谷公園の鬱蒼とした森の中に佇む松本楼
■ 日比谷公園に覚えるやすらぎ
 日比谷公園は、筆者の大好きな東京スポットのひとつです。日比谷公会堂や市政会館、野外音楽堂、松本楼、レストラン南部亭などがあります。都心部なのに樹々が茂り、池があり、夏でもここに入るとひんやりします。今では周りを高層ビルが取り囲むようになりました。ここに良く行くのは、市政会館の中に、盛岡市東京事務所があるからです。
 66『監督休養』(2014年6月6日)で、右写真を紹介しましたが、詳細は触れませんでした。岩手県奥州市水沢出身でありながら、東京のトップとなった後藤新平は、この日比谷の地に、安らぎを覚えていたのだと思います。後藤新平は、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちの日本放送協会:NHK)初代総裁、拓殖大学第3代学長を歴任し、「大風呂敷」とあだ名された、日本の植民地経営者であり、都市計画家です。後藤新平と反体制派だった人々もいろいろ交流があり、当時の政治にまつわる人々の人間関係のおおらかさがうかがわれます。

日比谷公園の洋食・南部亭 後藤新平が作った頃は蕎麦屋でした
(2014年10月11日)


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