80  安倍宗任の子孫

 安倍晋三首相は、安倍宗任(ムネトウ)の子孫ではないかと言われていることを、56『盛岡あれこれ』(2014年3月29日)でご紹介しました。その最後に「詳しくはそのうちご紹介します」と書きましたが、まもなく半年になるので、そろそろ触れないとヤバイなぁと考えました。

■ 安倍晋三首相
 安倍晋三は長州(山口県)が地盤で、伊藤博文、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作に次ぐ8番目の首相です。2006年9月26日に首相就任、ちょうど1年後の2007年9月26日に潰瘍性大腸炎で辞任しました。そして、捲土重来を期し、2012年12月26日、第二次安倍晋三内閣が発足しました。常に26日ですね。晋三と、その父・晋太郎の“晋”は長州が生んだ維新の志士・高杉晋作に由来します。
 安倍晋三首相の父・晋太郎は「自分は安倍宗任の末裔である」と言っていました。盛岡の人たちは、いまだに安倍貞任(サダトウ)や安倍宗任をしのんでおり、その生き残りから奥州藤原三代の平泉の栄華が生まれたことを思うと、大変血の優れた一族だったと思います。それゆえ、安倍晋太郎は安倍宗任を誇りに思っていたのではないでしょうか?
 これについては後述しますが、例えば、安倍晋三総理、岩手県で選挙演説。ルーツは安倍貞任?をご覧下さい。甘利大臣が源氏の子孫だったというのは知らなかった・・・そう言えば戦国武将で甘利・・・居たなぁ。もしかして現代日本人は、ず〜〜〜っと遡ると、大抵源氏か平氏に行き着くのでは?

この写真、よく使います もう3回目かな?

■ 安倍の系譜
 安倍晋三 - Wikipediaの中に系譜が載っていますが、スゴイですねぇ〜、安倍宗任から天皇家まで載っていますよ。更に、吉田茂、岸信介、佐藤栄作、松岡洋右、麻生太郎などの名前もあります。ほかに近現代系図というページもありますが、コチラの方がより詳細です。
 安倍宗任は、安倍晋三にとり父系の祖先にあたります。安倍宗任の三男・安倍季任は、肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗りました。その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれています。松浦実任の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、治承・寿永の乱により、現在の山口県長門市油谷に流罪となりました。その後、高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れるために安倍姓を名乗ったのだそうです。その子孫が安倍晋太郎だというわけです。
 また、安倍晋三の母方の祖父は元首相の岸信介であり、その弟はやはり元首相の佐藤栄作です。岸家、佐藤家は長州で、互いにライバルでありましたが、その融和のために養子縁組や夫婦縁組をしていました。佐藤家の祖先については、遠祖は源義経の家臣佐藤忠信であるという口伝があります。こちらは源氏の流れを汲むというわけです。

■ 平家の落人伝説
 平家が源氏に滅ぼされた後、日本全国に平氏の子孫は散り、山奥に落人として暮らしたことが言われていますが、今では平家落武者の里を売りにしているところが各地にあります。落武者(オチムシャ)と言うよりも、家族みんなで移り住んだのですから、落人(オチウド)というほうが正しいでしょう。焼畑村落・林業村落と言うように非稲作地帯であることが多く、平家谷と呼ばれるこの伝説を伝える村々は、平家が逃げ込んだ西国はおろか東北地方にまで及んでおり、その数は現在わかっている限り150箇所は下らないとされています。子孫の迫害を恐れ、「平」姓を避け、女系の安倍姓を称したというわけです。
 平家の落人にゆかりあるとされる姓を挙げてみますと・・・赤間、池田、岩尾、色川、青田、阿佐、安徳、大庭、西村、織田、落、葛西、梶原、上総、門脇、上時国、神長、桐原、葛原、久保、小松、坂梨、渋谷、下時国、平(たいら、ひら)、橘、古坊(ふるぼう)、種子島、遠藤、平山、秩父、釣田、寺田、土肥、伴、長尾、永野、長濱、西山、野崎、八尾、八巻、服部、花本、平野、平家、星、星野、宗、谷内、椎葉、高倉、旗手、廣實、一ノ宮、千葉、千種、下総、糸賀、門田、木下、羽柴・・・

■ 安倍宗任とは
 安倍晋三首相は議員3世ですから、もちろん東京生まれ、東京育ちですが、先祖は長州出身ですから、戊辰戦争で官軍の中心である長州と、賊軍の南部盛岡は敵であり、南部藩の戦死者は靖国神社には祀られないわけです。その盛岡に安倍館(アベタチ)があり、その昔安倍一族の城でしたが、朝廷の命を受けた源氏に討たれて滅びました(前九年の役)。盛岡には、北上川の右岸に安倍館があり、一帯は「厨川柵」という安倍氏の城で、前九年町という地名もあります。安倍館から北上川を挟んで向かい側の左岸一帯は「館向」と呼ばれ、筆者の妹が住んでいます。館向から館坂という坂を登った丘に、広大な岩手大学キャンパスがあります。
 殺された安倍貞任の弟・安倍宗任は、文武に優れており、その才能を惜しみ、都へ連れ帰った源頼義・義家親子は、死一等を減じて朝廷から貰い受けました。東北の野蛮人と嘲笑した都人(ミヤコビト)が、「こんな花、おまへらの地にはおへんやろ?」と言ったところ、安倍宗任は
   「わが国の梅の花とは見つれとも 大宮人は如何か言ふらむ」
と、うたで返したものですから、びっくり仰天、その才に驚いたと伝えられています。
 安倍宗任については下記参照下さい。
   安倍宗任と安倍晋三(元時事通信社の古沢襄)
   安倍宗任より四十一代末裔の安倍晋太郎 古沢襄
   安倍氏 (奥州) - Wikipedia

■ 反西国の象徴である安倍一族
 筆者の高校後輩である直木賞作家の高橋克彦さんが「炎(ほむら)立つ」全五巻を日本放送出版協会から発刊したのは1992年12月のことです。北の王者・安倍一族の興亡から平泉の藤原三代の滅亡に至る壮大な歴史ロマンを描き、1993年7月からNHKの大河ドラマで放映されて大きな反響を呼びました。南部・盛岡の人々にとっては、徳川に忠誠を誓って、結果逆臣となって明治新政府から冷遇されましたが、遠く遡れば、常に西国から攻められ、虐げられてきた歴史があります。安倍一族も奥州藤原三代も西から来た源氏に滅ぼされました。その後源頼朝は関東を本拠とし、初めて西国から東国へ日本の政(マツリゴト)の中心が移動し、戦国時代を経て徳川家康が江戸を本拠として、南部・盛岡はその臣となったわけです。東北は秀吉時代にも徹底的に叩きのめされ、たとえば以前九戸城を秀吉の謀略で滅ぼされたことを紹介しましたが、南部・盛岡の人々にとって西国人は昔から憎き敵だったのです。徳川に対しては、より近い江戸に本拠を移転したので親近感を持っていました。安倍一族や奥州藤原三代に愛着を感じるのは、西国人への反感のシンボルなわけです。

■ 安倍晋三は岸信介の孫
 1987年7月末に安倍晋太郎氏は洋子夫人と息子の晋三氏を伴って、青森県五所川原の石搭山・荒覇吐(あらはばき)神社に参拝しています。同行したのは親戚の画家の岡本太郎氏。岡本太郎氏も自分が安倍の末裔だと信じていました。ところが、この荒覇吐神社が安倍宗任を祀る神社というのは偽りのようで、晋太郎氏も当時そこまでは読みきれなかったと思われます。安倍宗任を祖先としたいというのは、その文武両道に秀でたところに、自分と共通する一族の誉れを求めたかったのでしょう。元時事通信社のジャーナリスト古沢襄氏はしかし、安倍晋太郎氏が第四十一代の安倍宗任の末裔だとしても、これが最後だろうと言います。というのは安倍晋三は岸信介の孫というほうを強調したいから、ということのようです。

■ 奥州藤原氏の末裔
 安倍一族から奥州藤原三代が生まれ、源義経が奥州藤原氏を頼って弁慶とともに平泉に逃れ、やがて源頼朝によって奥州藤原氏も義経も滅ぼされますが、義経はその後北へ逃れ、海を渡り、やがてモンゴルへ行ってチンギス・ハンとなったという、いやはや壮大な想像力が働いた伝説があります。小柄な義経が、チンギス・ハンになれるはずがないと思うのですが(>_<) 奥州藤原氏の一族の生き残りは北へ逃れました。岩手・盛岡周辺には「藤」の付いた姓が多いのです。藤原も多いのですが、本流は藤原を避け、「藤川」を名乗ったという説が有力です。元岩手県知事3期、総務大臣2期の増田寛也氏は日本創成会議を主宰していますが、この方の母は藤川で、筆者の妻の母とイトコです。つまり筆者の妻と増田寛也氏はハトコなわけですが、どうやら奥州藤原氏の末裔のようですね。

■ 朝日新聞が一転謝罪、裏にあるドロドロ・・・
 自社に批判的なタイトルをつけた週刊誌の広告掲載を拒否した朝日新聞、慰安婦検証記事の掲載以降、朝日新聞批判の集中砲火が止まらず、謝罪がないことを非難したジャーナリスト池上彰氏のコラム掲載拒否で、朝日新聞は泥沼の蟻地獄に陥りました。これを批判した週刊新潮や週刊文春の朝日新聞批判の見出しは、ほとんどチンピラのホザキみたいな有様でした。目くそ、鼻くそを笑う、かのようなタイトル、日本もずいぶんレベル低下したなと、情けなくなりました。
 「読者と関係者の皆様におわびします」の大見出しが載った9月12日(金)付け朝日新聞朝刊は、東京電力福島第1原発事故で政府の事故調査・検証委員会が行った吉田昌郎元所長(故人)の聴取記録、いわゆる「吉田調書」を朝日新聞社が独自に入手し、「所員が吉田氏の命令に違反し撤退した」と報じた問題で、同社の木村伊量社長が会見し、記事は誤りで取り消すと発表したことを受けてのものです。
 朝日新聞は2014年5月20日付朝刊の記事で「所員の9割に当たる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、福島第2原発へ撤退していた」などと報じました。これは海外マスコミも大きく報じました。ところが、政府が非公開としていた「吉田調書」を今度は産経新聞が入手し、真っ向から朝日の報道を否定しました。何のことはありません。政府が頭に来て漏らしたのでしょう。
 報道に限らず、我が「エッセイ」や「つぶやき」もそうですが、思い込みによる記事は必ずしも全面的には真実と言えないことは事実です。ものごとは左から見るのと右から見るのでは同じものが違って見えます。どちらも真実と思い込んでいるのです。また一部だけを切り取って報じれば、全体像をゆがめます。自分に都合の良いところだけを報じるという、新聞社としてはやってはいけないことをやって、今回朝日新聞が謝罪して訂正したのは、重大な事件です。しかし、その前段が稚拙でした。従軍慰安婦報道の問題で、過去に報じた内容について虚偽と判断して8月の検証記事で取り消したのですが、「お詫びが無いのはおかしい」と批判した池上さんとの真っ向対決で、世論を敵に回しました。「間違いでした」と言うのなら、「ごめんなさい」と謝るのが筋でしょうという指摘に反発するのは、おごり以外の何ものでもありません。足元の朝日新聞社内でも批判が巻き起こり、ついに社長が謝罪すると言う、まことに情け無い事態になりました。経営層が如何にレベルが低いかを露呈してしまったのです。慰安婦報道問題は、結果的に現在の日韓関係の硬直化や、世界中に拡散する同問題に絡む対日批判に少なからぬ影響を与えたもので、特に安倍晋三首相は、朝日新聞に並々ならぬ敵意を抱いていました。
 ただ、報道機関同士が批判合戦してはいけません。今回の一連の出来事を「他山の石」として、正確な報道に努めて欲しいものです。日本国政府も、一転して「吉田調書」を公開しました。どうも胡散臭い・・・
(2014年9月14日)


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