427  東日本大震災

 今回の地震を気象庁は「東北地方太平洋沖地震」と命名した。地震大国日本でさえ、記録がある限りかつて経験したことの無いマグニチュード9.0の巨大地震、しかも海溝型地震だったため、巨大津波を惹き起こし、大惨事となった。防災意識の高い日本でもこれだけの死者、行方不明者が出ているというのは、誰も想定できなかった規模だ、ということである。
 今回の地震と津波、それが惹き起こした福島原発の事故、未曾有の大災害を単に地震では済まされないため、マスコミではいろいろな呼称で言っているが、タイトルのような名称が多いのではないか?右の写真はロイター通信のホームページに載っていたもの、不思議だが、事故報道は、日本マスコミより、海外マスコミのほうがよくわかる。この写真の解説は、 A girl who has been isolated at a makeshift facility to screen, cleanse and isolate people with high radiation levels, looks at her dog through a window in Nihonmatsu, northern Japan, March 14, 2011, after a massive earthquake and tsunami that are feared to have killed more than 10,000 people.=1万人以上を殺した恐ろしい巨大地震と津波の後、高い放射能濃度で汚染された人を検査して、洗って、隔離するための仮設施設に隔離された少女は、2011年3月14日、北日本の二本松で窓越しに彼女の愛犬と会う。


ロイター通信のホームページより

■地盤によって異なる揺れ
 埼玉県戸田市は震度5強、我が家は震度3、同じ市でも荒川に近いほうは震度4、関東ローム層の武蔵野台地が、いかに地盤が強固か、改めて実感した。そう言えば、我が家では大きな地震は経験ない。江東区南砂のお客様のところは地盤が液状化して、とんでもないことになっていたらしい。隅田川はじめ、川や海の周辺は皆危ない。ウォーターフロントに高層マンションがたくさん建っているのは、建築工学的に言えば、大変危険、どうして東京都がそれを許すのか?

■家族・親戚の安否続編
 仙台市宮城野区高砂の母の介護施設は1週間以上経ってなお停電が続いている。断水もだが、コチラは地中の水道管のダメージがひどく、今月一杯は復旧しないそうだ。当時、建物前の道路は湖のようになったそうだが、建物の敷地が小高くなっているので、1階は浸水しなかったとのこと。右の写真は300mしか離れていないところの画像、見慣れている七北田川とは到底思えない。この写真の手前右側の川沿いに高砂中学校、左側に鶴巻小学校、右側に母の施設や厚生年金病院、左前方の国道45号線と仙石線の間に高砂小学校がある。どこも津波の海水が溢れ、外に出られなくなって孤立した地帯だが、七北田川の堤防は高い上、この辺りは河口から4kmぐらいあるため、溢れた水の量はそれほど多くなかった模様。
 仙台市泉区八乙女駅前に住む弟のマンションは、テレビは落ち、ピアノは倒れ、箪笥も倒れ、食器はメチャメチャ、壁にも亀裂が入って大変らしい。停電は2日後に復旧したが、風呂も使えないという状態だそうだ。翌日塩釜の避難所から歩いて帰ってきたという。塩竈神社から16.2km、仙石線では遠く感じるが、本塩釜というのは意外に近いのだ。その駅の真ん前に勤務先の銀行の塩釜支店があった。


大地震で七北田川を逆流する津波=11日午後5時40分ごろ、
仙台市宮城野区の高砂大橋付近(河北新報より

■親切な塩釜の寿司屋さんも・・・
 このあたりは数年前に夫婦でグルメツアーしたときに、寿司屋に入った。塩釜は、寿司で町おこしということで、寿司屋マップが駅に置いてある。入ったところは親切な店で、塩竈神社に行くと言ったら、荷物を預かってあげると言われ、助かった。弟の話では、その一帯は駅舎も含め、すべて津波でやられたとのこと。多賀城から西は車の残骸がゴロゴロしているそうだ。塩竈神社も避難所となったが、本塩釜駅から近いので、逃げた人は大丈夫だったようだ。地震が起き、すぐ市役所から「津波が来るので避難するように」と放送が鳴り響き、日頃のマニュアル通りのことをして急いで高台の方へ逃げ、階段を昇ったらゴーッと津波がくる音がしたそうだ。地震が起きてから津波が来るまで40分位だったのではないかと言っていた。本塩釜は最も塩釜湾の奥だから、到達時間が遅く、更に塩竈神社のある高台が近いので助かったのだろう。津波は場所によって10メートル近くまであったのでは?と言われている。 なにしろ、マンションの3階位まできたという人も。銀行の行員の社宅の自家用車も皆流されたそうだ。本塩釜駅周辺は、広々しているので、1階はだめだったが、2階以上は大丈夫、駅の中は泥と瓦礫が入っていて、一帯どこも同じ。銀行のコピー機ははるかかなたで見つかった。銀行では普段から防災対策をしていて、塩釜支店でも3階に非常食や飲み水、防寒着や毛布、懐中電灯、スコップなど防災グッズを用意してあったので、翌日支店へ行ってこれらを避難所に運んだ。防災訓練もしていて、こういう場合の行動を決めていて、すぐ金庫に収納するものを入れて、逃げたので、銀行で死んだ人はいないが、岩手、宮城の10支店が津波でだめになったそうだ。金庫のお金は大丈夫とのこと。
■停電だと繋がらない電話
 盛岡の岩手大学隣に住む妹宅は、オール電化にしたので、逆に大変だったそうだ。卓上ガスコンロでインスタントラーメンを食べたらしい。反射式の灯油ストーブが無くなって、ファンヒータやヒートポンプエアコンになっているのもこういうときに困ったそうだ。ところが今度は2日後に停電復旧したら、エコキュートも使える、IH調理もできる、何不自由なくなったが、今度は灯油が品切れ。オール電化で良かったのだが、昔と違って歩いて行けるところにあった商店やスーパーが無くなって、巨大なイオンショッピングセンターの周りにあらゆる商業施設が集中するような街に変貌したものだから、ガソリンが無いと買い物にも行けない、仕事にも行けない、大変皆困ったらしい。
 雫石の親戚や友人の誰も電話が通じない、携帯も混んでいてアナウンスが流れるのみ、停電していても固定電話は通じるだろうと思ったが、よく考えたらそれは黒電話の時代、アナログの時代、今家庭で使っている電話機で電源コードが無いものはないから、現代では停電したら、固定電話は不通になるんだね。
■30m以上駆け上がった津波
 母の実家がある宮古市鍬ヶ崎の従兄弟2人の家は流され、一人は息子が車で迎えに行って盛岡へ連れてきたそうだが、筆者と同い年の人は浄土ヶ浜パークホテルに避難しているとのこと。彼らの家は宮古市港町、宮古港から歩いてすぐ、一人は漁船の船大工、もうひとりは漁師の漁具の鍛冶屋だから、港の近くでないと商売にならないわけだ。学校の夏休みは小学校の頃から宮古に行って過ごしていたので、この辺りは詳しく知っており、TV映像で母の生家が跡形も無くなっていたのを見て、虚脱感で、涙が出てきた。蛸ヶ浜へ行く坂道を駆け上がった津波は、心光院というお寺のすぐ下に達したそうだから、お祖母さんの畑のあたりまでと考えると、海抜30m以上のところまで道沿いに駆け上がったことになる。
■1896年明治三陸地震津波〜1933年昭和三陸津波〜1960年チリ地震津波
 母は今年5月で満90歳だが、1933(昭和8)年の小学生のときに昭和三陸津波を体験した。このときは3月3日午前2時30分ごろ地震があって、「逃げろ〜」ということで隣近所呼び掛けあって、真夜中に取るものもとりあえず高台へ避難したそうだ。津波は数波に分けて繰り返しやってくる可能性があるので、翌日家の前に行ってみたら、大きな漁船が家の前にあったそうだ。相当な波高の海水がやってきたのだろう。ただ家を押し流すとかの津波ではなく、掃除してまた住めたそうだ。このときは、三陸沖で起きたM8.1の地震が津波の原因だが、マグニチュードだけみると大地震であるものの、揺れはたいしたことがなく、普段よくある地震程度のものだったそうだ。それなのに真夜中に何故高台へ避難できたかということだが、母は明治の津波がいかにすごかったかということを繰り返し聞かされて育ったので、地震のときはすぐ避難するということが身についていた。だから今回もいとこたちは命は大丈夫だろうと思っていた。1896(明治29)年6月15日午後7時32分ごろに発生した、三陸沖を震源とするM8.5の明治三陸地震津波は、犠牲者数も日本最悪の死者22千人。釜石など当時の人口の6割以上が死んだそうだ。各地の震度は2〜3程度の軽震であり、地震による直接的な被害はほとんどなかったものの、地殻の変動が大きかったため、巨大な津波が来たものだ。今回は震度もすごかったので、間違いなく津波が来ると思って逃げたはず。他にも宮古にいとこは3人いて、皆命は大丈夫だが、失ったものは大きいだろう。その後1960年にはチリ地震津波もあった。昨3月19日、我が家で震度2ぐらいの地震を感じた。テレビで見たらマグニチュード6.1、茨城県で震度5強、埼玉も震度3から4、普段ならかなり大きい地震だが、すっかり慣れてしまった感じである。
■魚のおいしかった奥松島・宮戸島の旅館も・・・
 344『地獄に仏』(2009年8月16日)で奥松島・宮戸島の旅館に宿泊して、嵯峨渓を回り、石巻方面へドライブする過程で野蒜海岸の広くアーチした海水浴場を紹介した。今回の津波で宮戸島の旅館の方々は大丈夫だったろうか?旅館は窓の下が海だから間違いなくダメだろうと思った。紹介した里浜貝塚のところは「台」という名前の小高い丘があり、そこに駆け上がっていれば命は助かったはずだ。この辺りの避難所は医王寺である。野蒜海岸の辺りは天の橋立みたいで、真っ平らであり、逃げるところは少ない。この地区の人はかんぽの宿松島か鳴瀬第二中学校が避難場所である。多数の死体が・・・というニュースも頷けるが、むしろこの辺りの住民は逃げて、まさか自分の所に、と考えていた人が流されたような気がする・・・と書いて情報検索してみて驚いた!「安否を知りたい」とツイッターした人に現地の人から情報が、ブログに情報載せる人、被災地の動画をYouTubeに載せる人、避難所の名簿も掲載され、自衛隊のヘリが避難所の宮戸小学校に物資を届ける様子などもある。橋が流されて宮戸島は孤立したが、わざわざ安否を確かめに船で渡って情報をくれる人もいた。停電が続いている現地から母親がメールしてきたということは、充電電池だけでなく乾電池も持っていたのだろう。マスコミでは報道されないことが、こうしてツイットされ、画像まで見れる時代、スゴイ!そして見ず知らずの人たちがインターネットを使って助け合うというのもスゴイ!宮戸島の南部、太平洋に面した室浜、月浜、大浜は家屋が全壊。里浜は海近くは被害が大きいものの、松島湾の内海であった事から家屋の形はある様子。泊まった旅館も1階は浸水したが、形はあるそうだ。しかし、里浜→月浜→大浜→室浜とドライブして、野蒜海岸から鳴瀬川左岸を北上して東名運河を越え、右折して鳴瀬大橋を渡り石巻へドライブしたときの思い出が甦り、可哀そうでならない。

 JR仙石線の車両が東名駅・野蒜駅間で津波に流されて脱線した。日本国政府国土地理院の空からの写真を見ると、脱線したのは東名駅と野蒜駅のちょうど真ん中近辺、住所で言えば宮城県東松島市野蒜亀岡三十数番地である。すぐ北にこのあたりの避難場所野蒜小学校があり、校庭に泥や瓦礫や自動車が残り、1階まで津波が来た。校舎の中に避難した人は2階、3階に上がり大丈夫だった。駅舎や周囲の家屋は流失あるいは破壊されている。東名運河が仙石線と27号線と並行して東西に延びており、運河の南は完全に泥に覆われている。東松島市の津波防災マップには詳しく津波が来たときの避難場所が書かれているが、「宮城県沖地震は40年に一度は起きるので、ここに住んでいる人は一生に1度か2度は災害を経験する」と書いてある。それでも今回の規模の地震や津波は想定していなかったことがわかる。
 宮城県沖地震津波だったらそれほどすごい津波ではない。場所ごとに波の高さと到達地域、到達時間予想が書いてある。概ね地震から30分以上だから、近くに小高い丘があるところは逃げられる。しかし野蒜海岸の辺りは「かんぽの宿松島」と鳴瀬二中が避難所で、1階上部まで水が来たという。ずっと先の仙石線北側の野蒜小学校まで逃げる間に、津波が追いついたら・・・


野蒜小学校はこの写真の右手前方向、ちなみに仙石線は東西に走っているので
この写真の右側が北、左側が南で奥松島方向
電車の影から西日が当たっており、太陽高度角が低いので夕方撮った写真と分かる。

 津波防災マップには、三陸沖南部海溝での地震と連動した地震は約200年前に起きてM8.2だったと書いてある。これが発生すると東松島市では震度6弱から6強の地震となり、宮城県全体で建築物5万棟、短期避難者12万人の被害想定と書かれている。そして今回多数の遺体が発見された野蒜海岸への津波到達時間予測は48分後、この地区の人は避難できたか?
 2009年8月旧盆に、奥松島から石巻にドライブしたとき、「この街は高い建物が全く無い。郊外店がたくさんある。日本のありとあらゆる郊外店の展示場みたいだ。ガストの近くにジョイフルがあったりする。九州で多い安いファミレスだ。松島経由塩釜〜多賀城と国道45号線を走ろうとした。しかし松島に近付くにつれ大渋滞、「ホテル一の坊」前で引き返して山道に入り、迂回したが、また松島が近付くと大渋滞、結局分かったのは、東から北から西から松島へ向かう道はどれも大渋滞ということ、大回りで利府方面から多賀城を経由して母のいる仙台市宮城野区へ」と書いている。今でもあの光景が目に浮かぶ。石巻は真っ平らな町で、高い建物も無いのだから逃げ場があまり無い。犠牲者が多くなるはずだ。


この写真の左下側が南、東名運河が線路に並行し、津波が左下から右上方向に襲った。
写真奥側が北西方向だが少し小高くなっている

■想定外の巨大地震
 今回、一瞬にして家が流されて、物損はもちろん、大事にしていたものも失い、心に大きな傷を負っている人たちに、何をしてあげられるのか、必死に考えなければならない。交通復旧次第、駆けつけたい。3月12日(土)に東大で『災害事例研究会』が予定されており、「今回は岩手で中学校の同期会なので休みます」と言ってあった。もちろん休会になったが、まさかこれほどの巨大地震が三陸沖で今起きるとは思わなかった。東大の建築工学の先生たちが作った『災害事例研究会』の事務局の一員として、毎月1回東大で会合していながら、しかも宮城県沖の大地震の20年内発生確率99.9%と警告を発し、展示会や講演会でPRしておりながら、こんな大震災になってしまったことが口惜しくてならない。
 東北地方太平洋沖地震
  震源の位置:38.03N、 143.15E、深さ10km
  モーメントマグニチュード: Mw9.0(3月13日にM8.8から気象庁が修正)
  関連するプレート: 太平洋プレートと北米プレート(オホーツクプレート)
  地震のタイプ:プレート境界地震
  震源のメカニズムのタイプ: 低角逆断層(ほぼ東西の圧縮軸)
  観測された津波の高さ: 相馬7m以上、大洗4.2m以上など
我々の研究会では、宮城県沖地震が、宮城県沖のやや陸寄りの海域で繰り返し発生しているので、マグニチュード7.5程度の大地震が、繰り返し間隔およそ30年で、最近では1978年6月12日にM7.4の規模で発生し、死者28名を出していることから、もう30年以上経つので、絶対近々起きるぞ!と警告していた。しかし今回の地震は、マグニチュードが大きく異なるので、宮城県沖地震単独ではない。宮城県沖の他に、福島県沖、茨城県沖、岩手県沖までが震源域となっている連動地震と考えられる。国内では例を見ない大きな地震で、日本の周辺で起こりうる地震としては最大規模の地震である。南海地震と東南海地震とが連動した場合にM8.5になると見積もられている。世界的に巨大地震としては、1952年のカムチャツカ地震(Mw9.0)、1960年のチリ地震(Mw9.5)、1964年のアラスカ地震(Mw9.2)、2004年のスマトラ島沖地震(Mw9.0)、2010年のチリ中部地震(Mw8.8)などが挙げられる。
(2011年3月20日)

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