277  閖上
 関東は6月29日(金)梅雨明けしたと見られると気象庁が発表しました。平年(7月21日ごろ)より22日早く、昨年(7月6日)より7日早い梅雨明けです。関東甲信地方が6月に梅雨明けするのは初めてだそうです。関東甲信地方では6月後半になると、雨雲はかかったものの、それが持続しませんでした。梅雨の期間中(6月6日から6月28日)、東京都心では155.5ミリの雨が降りました。この期間の平年の値だと135.2ミリで数字上ではいつも通り降っていたように見えますが、まとめて降ったのは数日だけですぐ回復し、梅雨という感じがしませんでした。
 真夏並みの暑さの関東ですが、西日本から北海道にかけてはまだ梅雨前線が残った上に、台風の影響で大荒れです。この台風が去ると、太平洋高気圧がまた押し戻されて、梅雨前線が南下し、関東も一時梅雨に戻ったような天候が予想されています。関東の水がめのためにも、もう少し降雨が欲しいものです。

■ 名取市閖上と日和山
 前回、東日本大震災で壊滅的な打撃を受けた宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)に行き、7年経って、この有様か...と愕然としたことを書きました。宮古、山田、大槌、釜石、大船渡、陸前高田、気仙沼、南三陸町、石巻、女川、いずれもひどかったですが、ここもひどい...岩手県から宮城県、福島県、茨城県、そして千葉県、太平洋に面した海岸はほぼ全域が津波にさらわれました。
 車で走ると、確かにここでは逃げても逃げても平地ですから、仙台東部道路によじ登らなければ助からなかっただろうということがよく分かります。閖上港から仙台東部道路まで2km以上有ります。逃げる車で大渋滞、後ろから波が襲い掛かる、車を捨てて走って逃げた人たちが波間に消えて行きました。閖上地区だけで8百人以上が犠牲になりました。閖上港は名取川河口です。右写真は海岸から2百mのところにある日和山です。日和山(ひよりやま)と言えば、過去何度も紹介した石巻の北上川河口の日和山を思いますが、あのような高い山ではなく、1920年に住民の勤労奉仕で築造された海抜6.3mの築山です。津波で水没し、山頂の富主姫神社が流失、残った樹木等には、山頂より2.1m上方まで水位が上がった痕跡が見つかりました。今では流失した湊神社の分霊も建立され、鎮魂碑も建っています。写真右側が閖上港で、日和山には階段と赤い鳥居があり、その前は駐車場になっています。写真はちょうど南側から北方向に撮ったもので、日和山の向こう側には東西に名取川が流れています。
閖上港前の日和山、この天辺より2.1m上までの波で水没、神社も流されましたが、松は残りました

■ まだ一面荒涼とした大地、慰霊碑と震災遺跡が...
 日和山の上から南側を見下ろすと、東日本大震災慰霊碑があり、土盛りから芽が出ている石塔があります。その向こうには震災遺跡として蒲鉾の佐々直本店の建物が残されています。見学者を乗せたバスが停まっています。もうおおむね復興は終わったのでは、と思っている方は、是非足を運んで下さい。
日和山から南方俯瞰
まだ一面荒涼とした大地です。かさ上げをした土地には復興集合住宅のビルが建ち始めていますが、他には何も有りません。この一帯に住んでいた人たちは、ずっと内陸に移り住んで、新しい住宅ばかりが一面に建ち並んでいます。今の日本の景気というのは、実はこうした莫大な復興需要に支えられた一面もあるのではないでしょうか。

■ 10階建てのビルを呑み込む津波
 亡き母は生涯で、関東大震災(1923.9.1)、昭和三陸津波(1933.3.3)、東日本大震災(2011.3.11)と三度の大震災に遭遇しました。岩手県宮古市の宮古漁港のすぐ近くで育ちましたから、津波の恐ろしさは常々耳だこだったと言っていました。昭和三陸津波ではすぐに避難して、翌朝戻ったら家の前に大きな漁船がデンと鎮座していたそうです。昭和三陸津波はマグニチュード8.3の巨大パワーでしたが、マグニチュード7.6の明治三陸津波(1896.6.15)の死者21,894人に比べれば3,064人と七分の一でした。これは明治三陸津波の経験があって迅速な退避行動が取れたからと言われています。ちなみに岩手県大船渡市の綾里湾での津波遡上高は、明治三陸津波で38.2m、昭和三陸津波で28.7m、そして東日本大震災ではナント!40mを越えました。10階建てのビルを呑み込む規模と言えば、その恐ろしさが想像できるでしょう。東日本大震災はマグニチュード9.0という千年に一度クラスの大規模地震でしたから、三陸のリアス式海岸のみならず宮城県南部以南の、これまであまり津波被害を経験したことの無い地域で被害が大きくなりました。

■ 津波について「まさか」は無し
 東日本大震災のとき亡き母は仙台市宮城野区のケアハウスに居て、七北田川を遡上した津波がビルの周りを取り囲み、11日間停電という経験をしました。我が弟は本塩釜の駅前の銀行勤務で、波が建物の二階を突き抜けましたが、日頃の防災訓練の手順どおり素早く塩竃神社に避難し、翌朝銀行の建物三階に備蓄してあった防災グッズや食料などを避難所に運んで、地域住民から感謝されたそうです。岩手県宮古市の我がいとこも三人家を流されました。しかし、地震ですぐ避難して高台の橋の上から海を見ていたいとこは、まさか宮古で多数の人が犠牲になるとは思っていなかったと言っていました。というのは、津波の恐ろしさ、退避行動を子どものころから叩き込まれていたし、宮古市は海からすぐに山が立ち上がっているので、歩いてもすぐ登れるからです。別の従姉はいつでも避難できるように備えていたリュックを車に積み、近所のお年寄りを夫婦で車に乗せて二往復高台へ避難させたそうです。そして高台から宮古湾を見ていたら、一度大きく波が引き、やがて大きな黒い塊が沖合いからぐぐっと迫ってきたそうです。それは波が押し寄せてくるというよりも、まるで黒い丘が移動してくるようだったと言っていました。結局犠牲者は、一旦避難したものの30分以上経っても来ないので忘れ物を取りに戻った人たちだったようです。いとこは「津波はすぐには来ないものと散々言われていたが、若い世代には浸透していなかったか・・・」と肩を落としていました。宮古湾で最大高さの津波到達は15時26分、地震の40分後です。宮城県名取市の閖上では15時50分、地震から1時間以上経っていました。津波に関する知識が有れば逃げられたはずですが、「まさか」と思ったのでしょう。

■ 今後30年以内に震度6弱以上の地震の発生確率
 政府の地震調査委員会は2018年6月26日、今後30年以内に震度6弱以上の地震の発生確率などを推計した「全国地震動予測地図」の最新版を公表しました。地図上では、確率が高い場所ほど濃い赤色で示され、相対的に確率が低い場所は黄色で色分けされています。日本列島全体では、北海道の太平洋側、関東から四国の太平洋側で赤色が濃くなっていることがわかります。関東地方や太平洋に面した東海地方では、首都直下地震や南海トラフの巨大地震などが想定されており、確率が高くなっているわけです。
 高い順に千葉市:85%、横浜市:82%、水戸市:81%、静岡市:70%、大阪市:56%、さいたま市55%、東京都庁:48%、名古屋市:46%(他に北海道の根室や、南紀、四国などは高い数値です)
2018年発表
2016年発表

■ 怖い南関東の直下型地震
 関東大震災(1923.9.1)はマグニチュード7.9で相模トラフのズレによる海溝型地震でした。ここはプレートが重なり合った、いわば「地震の巣」で、2百年から4百年ごとに大地震が起きています。したがってエネルギー保存を推察すると我々が生きているうちには関東大震災級の地震は起きません。問題は南関東の直下型地震です。南関東の地下構造が複雑なため過去の発生様式が特定されていないので、いつ起こるか分かりません。安政江戸地震(1855.11.11M6.9)、明治東京地震(1894.6.20M7.0)などが発生しています。ただ総合的に判断して、そろそろ起きるはずだと言われています。東京は地盤が弱い湾岸部と強い山の手側が極端です。東京駅でも強い丸の内、弱い八重洲の差があります。山手線でも強い池袋、新宿、代々木と、弱い秋葉原、東京、浜松町、品川が極端です。上の発表で東京都庁:48%とありますが、これは新宿だからで、八重洲だったら千葉市や横浜市と同様でしょう。東海道線や京浜東北線、宇都宮線、総武線沿いは怖い。問題は湾岸に高層マンションがたくさん建ったこと、地震検知でエレベータが止まります。どうするんでしょう?筆者は関東ローム層の厚い地盤の上でないと不安です。もしくは群馬の前橋市や渋川市、東北ですね。東北6県の県庁所在地はいずれも今後30年以内に震度6弱以上の地震の発生確率がひと桁、山形市3%、盛岡市4%です。

■ 日経平均株価が大幅下落、日銀の企業短観も悪化
 2018年7月2日の東京株式市場は、米中貿易摩擦への懸念が広がり、日経平均株価が大幅に下落しました。終値は前日週末終値より492円58銭(2・21%)安い2万1811円93銭で、4月17日以来となる2万2千円を割り込みました。
 一方日銀が同日発表した6月の企業短期経済観測調査(短観)は、大企業製造業の景況感を示す業況判断指数(DI)が前回3月調査から3ポイント下落のプラス21となり、2012年12月以来5年半ぶりとなる2四半期連続の悪化で、景気拡大の足踏みが鮮明となりました。原材料価格の高騰や人手不足が企業心理を冷え込ませたということですが、ここでもトランプ米政権の保護主義的な通商政策による貿易摩擦の懸念が影を落としています。
 日本企業も不安視していますが、米国企業の中にも原材料の価格高騰で悲鳴を上げるところが出てきています。世界的な景気急落、経済危機がヒタヒタと迫っている予感がします。

■ サッカー・ロシアワールドカップ、日本が示した成熟度
 2018年6月28日、1次リーグH組3試合目、日本は0―1でポーランドに敗れたものの、二位で決勝トーナメント進出を果たしました。日本が試合の終盤に選択した、「勝負を捨てて結果を得る」パス回し作戦に、観客のブーイングが浴びせられました。相手のポーランドも日本の意図を察し、あえて攻めませんでした。日本のみならず他の国でも「アンフェアだ」とか「スポーツマンシップにもとる」という批判が出ました。しかし選手たちはもちろん、日本のサッカー界の重鎮やかつての代表監督たち、他のスポーツ界の人たちも総じて西野監督の決断を評価しました。日本代表を指揮した外国人監督らは、「日本に足りないのはずる賢さだ」とたびたび指摘してきました。思い出したくも無い1993年、W杯アメリカ大会のアジア予選の最終戦で起きた「ドーハの悲劇」。勝てば初のW杯出場へ2-1とリードしながら、終了間際に追いつかれてW杯キップを逃しました。今回のように球をキープしたり、パス回しで時間を進めるしたたかさが必要でした。こういうことは外国チームでは常識です。ロシアの観客や英国BBCが、恥ずかしいとか、W杯では見たくなかったなどと言おうと、日本にとって何が必要かと考えれば、これは一つの選択でした。賭けでもあるこの選択を勇気を持って決断し、選手に指示した西野監督を讃えたいと思います。日本代表は、悪質な反則をしたわけでも、相手への敬意を欠いたわけでもありません。かつての日本には無かった成熟した姿を見せたのです。

■ イングランドだってずる賢いね
 同日、G組3試合目で、ベルギーは1-0でイングランドを下し3戦全勝で、決勝トーナメントで日本と対戦することになりました。この試合、イングランドは前の試合から先発を8人、ベルギーは実に9人入れ替えました。両チームとも2戦全勝で1次リーグ突破が確定していましたので、主力に休養を与えたいからでしょう。すでに他の組は1次リーグを終え、決勝トーナメントの相手を把握していました。G組1位突破なら次戦は日本で、勝てば次に戦うのはブラジル―メキシコの勝者です。2位通過なら次戦はコロンビアで、勝てば次はスウェーデン―スイスの勝者です。どちらが良いでしょうか?W杯最多の5度優勝を誇るブラジルは避けたいはずです。すなわちこの試合は「負けたほうが良い」と両チームが考えたとしても不思議では有りません。前半は0-0、勝ち点、得失点差、総得点はすべて並んでいます。引き分けで終われば、次の判断材料は警告・退場数に基づき計算される「フェアプレーポイント」。この時点で警告数が少ないイングランドが1位突破となる状況でした。後半6分、消極的な試合の中で、ベルギーのヤヌザイが先制点を決めました。これを見てベルギーのマルティネス監督が笑みすら浮かべないのが印象的でした。勝ちたいと思っていたら飛び上がるはずです。イングランドは今大会5得点のケーンを温存したまま敗れ、2位通過を受け入れました。BBCが日本チームに対して何か言うことがあるのなら、イングランドに対してはどう言うんでしょうね。


■ 日本はベルギーに逆転負け、初のBEST8成らず
 7月3日朝3時に目覚ましセットしてかぶりつきで見ました。両隣のお宅も明かりが点いていましたから、みなさん見ていたんですね。前半0-0、ヨシ、行ける!後半3分、自陣中盤でMF乾が相手の圧力をうまくかわして前を向き、球を前へ送り、MF柴崎が受けて、相手最終ラインの背後のスペースに狙いすまして縦パスを送り、原口が加速してDFをかわして右足を一振り、逆サイドネットを揺らしました。更に4分後、敵陣中央で中途半端なクリアを拾ったMF香川が、ドリブルで勝負する素振りを見せながら相手を引きつけて、後方でフリーの乾へ送る、乾が右足で狙い澄ました無回転ミドルシュートが、ゴール右下へ突き刺さりました。1点目は原口の運動量と柴崎の技術の適合、2点目は香川と乾のあうんのコンビネーション。西野監督が言っていたことが現実となった、どちらも素晴らしいシュートでした。しかしやはりベルギーはスゴイ!特にアディショナルタイムの決勝点は目にも止まらない7タッチで10秒未満の高速シュート、参りました。一時2点のビハインドを背負ったとき、ベルギー代表の主将FWエデン・アザールも敗戦を覚悟したそうです。ベルギー代表のロベルト・マルティネス監督は、試合後、善戦した日本代表への称賛を口にしました。日本−ベルギー戦をセネガル審判団が裁くことになり、その動向が注目されていましたが、その公正な裁きも素晴らしかったですね。負けたけれど、日本のファンのほとんどは、健闘を讃えているのではないでしょうか。

■ 桂歌丸さん死去、81歳

 落語家で落語芸術協会会長の桂歌丸さんが2018年7月2日午前11時43分、慢性閉塞性肺疾患のため、横浜市内の病院で逝去されました。81歳でした。近年は肺炎と腸閉塞で入退院を繰り返し、酸素吸入器をつけたまま高座に上がり続けていました。放送開始から50年間レギュラーを務めてきた日本テレビ系「笑点」を2016年5月で勇退しました。入院で体重が35キロになっても、酸素吸入の管をつけた満身創痍の身体で高座に上がり続けました。高座が終わると楽屋で酸素吸入器を着け、苦しそうにしている姿をテレビ画面で見ると、先ほどまでの高座での噺はまさに落語家としての執念だったんだと、敬服したものです。歌丸さんは亡くなる前日にも「笑点」が始まる直前の「もう笑点」というミニ番組に出演しました。鼻に酸素チューブこそはめていましたが、しっかりとした物言いで、林家三平相手に軽妙なやり取りを披露していました。  ご冥福を祈ります    合掌

(2018年7月3日)


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