242  鎌倉

 2017年10月22日は衆院選の投開票日でした。台風21号を避けて母の三回忌で岩手に行き、台風21号とすれ違いで東北道の通行止めにもめげず帰って来ました。紅葉真っ盛りの温泉三昧は次回報告しましょう。そして2017年10月29日は台風22号が秋雨前線を刺激してまたも雨、第77回埼玉南部少年野球秋季大会はこれで3週連続の雨天順延、おそらく史上初めてでしょう。そしてまた選挙、ふじみ野市長選挙です。もちろん不在者投票しましたが、どうして衆院選と一緒にしなかったのでしょう。もちろんしっかりした理由があるのでしょうが、お役所仕事でなく、少しは柔軟に対処できないのでしょうか、まったく。
 また本日2017年10月29日は、雨の仙台で第35回全日本大学女子駅伝対校選手権(杜の都駅伝)が行われ、名城大が2時間5分15秒で、12年ぶり二度目の優勝を果たしました。悪コンディションの中、必死にタスキをつなぐ選手たち、風邪をひいてベッドにくるまって見ていました。いつもながらこういう姿には感動します。

■ 21年ぶりの日経平均株価
 前週の株式市場は、日経平均株価が7週続伸となり21年ぶりに2万2000円台を回復、外国人の大規模買いが牽引する形で7週間の上げ幅は2700円を超えました。欧米株高と円安を追い風にリスク選好の動きが強まった形です。筆者は以前2万2000円までは行くだろうが、その先はバブル、コワイと書きました。日本の個人投資家も同じ思いと見えて、売り越しなのです。日本人が売ってガイジンが買っている、過去のパターンに学べば、日本の個人投資家がオヤ?買ってもいいかな、と思って買いに入ってしばらくしたらズッドーン、売りたくても商いが成立しないストップ安、あ〜コワイ、コワイ。
 米国の好景気も長いですね。ただ、GDPを見ればうなづけます。一直線に伸張しています。そして金融緩和政策を徐々に引き締め始めました。すなわち金利も上げます。マイナス金利の日本にカネを置くより米国に...当然です。欧州も金融引き締めに舵を切るようです。相変わらずのユルユルニッポンはでも仕方無い、巨額の借金がありますから....

■ 江の島〜鎌倉〜横浜中華街の旅
 1ヶ月前の9月末に江の島、鎌倉、横浜中華街をぐるっと回る旅をしました。江の島は、神奈川県藤沢市にある湘南海岸から相模湾へと突き出た陸繋島で、片瀬地区に属する0.38km2、標高60mの小さな島です。江の島のパーキングに車を停めて、江の島弁財天信仰の象徴である青銅の鳥居をくぐります。この鳥居が創建されたのは延亨4年(1747)で、現在のものは文政4年(1821)に再建されたものだそうです。
 青銅の鳥居をくぐり、江島神社の参道の石段を上っていくと行列が見えました。覗き込むと丸焼きたこせんべいのお店でした。この石段街はなんとなく伊香保をほうふつとさせます。神社までの石段の途中に、たくさんの食べ物屋さん、お土産店が並んでいます。江島神社は安芸の宮島、近江の竹生島とともに日本三弁天とされます。欽明天皇13年(552)に岩屋(御窟)に神を祀ったのが始まりとされ、御窟を本宮といい、 奥津宮を本宮御旅所、中津宮を上の宮、辺津宮を下の宮と呼びます。昔は江島明神と呼ばれていたそうですが、仏教との習合によって弁財天女とされ、江の島弁財天として信仰されるようになったとのこと。
       
 上は江の島入り口の湘南港北緑地にある噴水池で、昭和39年(1964)の東京オリンピック開催を記念したものです。噴水中央に弁財天、そのまわりに西洋・東洋の女性ブロンズ像が並んでいて、観光客の憩いの場となっています。

江島神社参道の石段
 足に自信のある筆者は、グイグイと石段を駆け上がりました。エスカーという乗物で上がれば、汗をかかずに江の島のてっぺんまで行くことができるそうです。全三区間大人360円です。上のほうには「江の島サムエル・コッキング苑」や「恋人の丘」もありましたが、時間が無くて入りませんでした。小さな島ではありますが見所いっぱいです。

江の島の上のほうから見た湘南海岸

江の島の上のほうから見た太平洋
 江ノ電・鎌倉高校前駅の近くに、台湾からの観光客が連日訪れる小さな踏切があります。湘南の青い海を背景にしたフォトジェニックなこの踏切、人気アニメ「スラムダンク」のオープニングシーンに登場する場所として、台湾の熱狂的なファンに大人気の撮影スポットになっています。この日もいる、いる!台湾からの観光客を見ているほうが面白い!

■ 武家の古都・鎌倉
 鎌倉は奈良、京都に並ぶ政治の中心地として、また日本初の武家政権「鎌倉幕府」誕生の地として、独自の文化を生み出してきた「武家の古都」です。小さな地方の村が、幕府の成立をきっかけに突然国の中心になった鎌倉は、いろいろな視点から観光できます。
「歴史・寺社」をテーマに・・・・高徳院鎌倉大仏殿、鶴岡八幡宮をはじめ由緒ある寺社が数多くあります。鎌倉はこのような観光地としての顔だけでなく、鎌倉新仏教の拠点として宗教都市の顔を持ち、それは今も町のあちこちに息づいています。ミシュラン3つ星!外国人観光客にも人気の縁切寺「東慶寺」、日本最古の禅寺で、格式高き鎌倉五山の第一位「建長寺」、その昔、建長寺の坊主が床に豆腐を落としてグチャグチャにして困っていると、開山の蘭渓道隆がその豆腐で野菜を煮込み、大変美味しい“建長寺汁”が出来上がり、これが訛ったのが「けんちん汁」と云われています。鎌倉五山に選定されている五つの寺院は、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺で、どれも名刹です。竹林が彩る緑の絶景!何度でも行きたくなる「報国寺」、奈良時代建立の鎌倉最古の寺「杉本寺」は苔好き必見、など見所いっぱい。
「文化・芸術」をテーマに・・・・鎌倉から始まり現在にいたるまで大きな影響を与えている武家文化・禅宗文化や、明治以降、文学者や美術家・芸術家が多く住み着き、育まれた独自の気風がうかがい知れます。鎌倉文士がもたらした進取の気性は、「鎌倉カーニバル(鎌倉まつりの前身)」や日本初のナショナルトラスト運動など、この土地に受け継がれています。
「食」をテーマに・・・・古都・鎌倉ならではの伝統の和食から、おにぎりや丼などの親しみやすい味覚まで、さらには鎌倉・湘南エリアでとれる海の幸・山の幸、鎌倉ブランドの野菜や食品、和菓子、スイーツ、ドリンクなど、いろいろ楽しめます。お菓子は鎌倉紅谷のクルミッ子、鎌倉の一番有名なお土産と言えば豊島屋の鳩サブレー、ほかにも多数あります。カフェも名店が軒を揃えていっぱいあります。
「花」をテーマに・・・・鎌倉に数あるあじさいの名所の中でも、成就院、長谷寺が特に有名ですが、鎌倉を代表する「あじさい寺」明月院は、毎年梅雨の季節には多くの観光客で賑わい、「梅雨を彩る明月院ブルー!」と讃えられます。夏目漱石や芥川龍之介など、鎌倉ゆかりの文学者たちの偉業を伝える鎌倉文学館が最も賑わうのは春と秋、バラの花が咲き誇る季節です。庭園の南側にある「バラ園」では、春は5月中旬から6月下旬、秋は10月中旬から11月下旬にかけて、199種244株という多種多様のバラの花が咲き乱れます。

■ 鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮  左下は倒伏した大銀杏と、説明板に見入る人々  風呂敷抱えた巫女さんが急ぎ足で通り過ぎます
 鎌倉と言えば、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)が有名です。正月三が日の初詣客の数が、毎年、全国10位以内にランクインする全国有数の神社で、鎌倉を訪れる多くの人が立ち寄る、鎌倉観光のメッカです。鶴岡八幡宮は、いわば「鎌倉の中心」ともいうべき存在で、京都生まれの源頼朝は、鎌倉を京都(平安京)のようにしたいと考えて、「武家の都」にふさわしく、源氏の氏神である「八幡神」を中心におまつりして、街づくりを進めたそうです。鶴岡八幡宮の境内では、年間を通して、多くの伝統行事・祭事・イベントなどが行われています。筆者はふじみ野市鶴ヶ岡に住んでおり、近くに鶴ヶ岡八幡神社があって、なんとなく親しみを感じました。

■ 倒伏した大銀杏
 2010年3月10日未明、鶴岡八幡宮の長い歴史を見つめてきた樹齢1000年といわれる大銀杏が、雪混じりの強風によって倒伏しました。高さは推定30m、幹の太さは約7mあり、朱塗りの社殿と並ぶようにそびえた立つその姿は、多くの参拝者の記憶に残っているでしょう。倒伏後、境内に設けた「芽吹きを祈る記帳所」には連日全国から多くの方々が訪れ、開設した1ヶ月半の間、その数は6万人を超えました。その「祈り」と共に、4月には元の場所のヒコバエから小さな若芽が芽吹きました。以降、小さな銀杏の葉を茂らせながら、枝はぐんぐんと伸び、今は立派な若木となっています。倒伏した樹幹部分は、再生可能な高さ4mに切断し、元の場所よりチョット左脇に移設されました。元の場所の「子イチョウ」は剪定をしながら数年をかけて生育状態の良いものを選び「後継樹」とし、移された「親イチョウ」も根付かせながら、双方を変わらず「御神木」としてお祀りして行くとのことです。
 銀杏という木は、樹木の中で最も生命力が強いとされ、「樹木の生きた化石」と言われます。イチョウの起源は、恐竜のいた時代よりもずっと前で、約2億年前には世界的にたくさんの種類が分布していたと考えられています。しかし、その後の様々な気候変動を経て、現在確認できる原種は、中国で野生する1種のみ。それが古くに(鎌倉時代からそれ以前ともいわれ、諸説ある)日本に伝来し、日本各地に広まっていったそうです。

かつての鶴岡八幡宮の大銀杏
こんなにドデカイ木でした
 イチョウの葉っぱは扇形です。ところでイチョウは、広葉樹でも針葉樹でもないのだそうです。なぜなら、植物の進化の過程で、針葉樹や広葉樹が生まれる以前から存在していたからです。イチョウは雌雄異株の植物で、雄花をつけるオスの木と雌花をつけるメスの木があり、メスの木にのみ銀杏がなります。

■ 余談ですが・・・
 我が家の前の川越街道は道路の中央分離帯が広く、そこにやはり大銀杏が植樹されていて、秋には銀杏(ぎんなん)がいっぱい落ちて、落ち葉の絨毯で一面黄色くなる有様は大変美しいものです。北海道大学や仙台市街、立川の昭和記念公園、稲城市の銀杏並木も見事です。紅葉は昼夜の気温差の大きい北国が色鮮やかで、我が家の周辺は茶色が目立ってあまりきれいではありません。しかし、イチョウは日本全国どこでもきれいな黄色になるので、銀杏自慢は全国的な現象ではないでしょうか。
 ふじみ野市にはさくら通り、ハナミズキ通り、イチョウ通り、ケヤキ通りなど様々な並木通りがあります。銀杏並木は一般にオスの木が多く、これは落ちた銀杏のあのニオイのためでしょう。しかし銀杏や栗の木の匂いは、強力な生命力を感じさせます。
 先日NHK総合テレビを見ていたら、女子レスリング前人未到のオリンピック4連覇を成し遂げた伊調 馨選手の苗字の由来を追っていました。彼女は青森県八戸市の出身で、祖母の家の隣の長泉寺に安土桃山時代に植えられたという見事な大銀杏があるのだそうです。昔の家は「屋号」を持っていて、多分伊調さんはイチョウの家だったのでしょう。明治8年(1875年)2月13日の『平民苗字必称義務令』により、日本国民は皆、公的に名字(苗字)を持つことになったのですが、そのときに「銀杏」ではなく「伊調」という字を当てたのだろうということでした。伊調選手の一族は代々この地域を取りまとめてきた家柄なので、「おさめる」という意味がある“伊”という漢字を当てたのだろうとのこと。また、“調”という漢字は、長泉寺の住職によれば、イチョウの葉が散るときの、サラサラと水の流れるような「音の調べ」からきているのではないかとのことでした。なるほど。

国民栄誉賞を受ける伊調 馨選手

■ 鎌倉・小町通り

鎌倉小町通り…土日は肩が触れ合う混雑

鶴岡八幡宮参道 左右の車道の真ん中に小高い歩道があります
 鎌倉・小町通りは鎌倉駅東口を出てすぐの所から鶴岡八幡宮まで続く300mほどの商店街です。鶴岡八幡宮の参道と並行して続く通りで、鶴岡八幡宮への近道です。お土産物屋や食堂・カフェが立ち並び、ぶらり散歩を楽しむ人たちが大勢います。今でこそ観光客が途切れることのない観光商店街ですが、その昔は舗装もされていない農道だったそうです。小町通りには湘南名物のシラス丼をはじめとして海の幸が味わえるお店や、和のスウィーツが楽しめる甘味処などがたくさんあります。飲食店の他には、鎌倉彫や和紙などの伝統工芸やかわいらしい和雑貨などを扱う店もいっぱい、お土産屋さんでは、鎌倉以外にも横浜や横須賀のお土産も取り扱っています。つまり、通りを歩くだけで鎌倉の名物を数多く見ることができる通りです。

■ 川越と似た観光地・鎌倉
 鎌倉・小町通りは、なんとなく川越駅から蔵造りの街へ向かう新富町通り(クレアモール)に似ています。小江戸川越も寺社がたくさんあって、川越大師喜多院、仙波東照宮、川越八幡神社、成田山川越別院、川越氷川神社、熊野神社、薬師神社、出世稲荷ほか、とにかくたくさんあります。観光客であふれる街になり、鎌倉と共通したところがあります。ちょっと違うとすれば、鎌倉は駐車場が少なく、車を徹底的に規制していますが、川越は安い駐車場がたくさんあって、電車でも車でもOKです。JR川越線、東武東上線、西武新宿線が乗り入れていて、東京メトロ副都心線〜東急東横線〜横浜高速鉄道みなとみらい線と直通で、川越と横浜中華街が1本の電車で行けるようになって以降、ますます観光客が増えました。どちらも歩いて楽しむ街です。川越は平地で広々した土地で、四方八方から来れますが、鎌倉は海から山が立ち上がったような狭い街なので、車を規制せざるを得ないのでしょう。ただ、サツマイモが名産の川越に比べ、鎌倉は湘南だけあって洒落ています。川越は過去たびたび大火に見舞われて、その教訓から商店が「蔵造り」になったのです。それでも2015年6月菓子屋横丁で店舗等7軒が焼ける火事があり、火元の90歳の菓子店のおじいさんが亡くなりました。
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■ 横浜中華街
 横浜中華街には現在、10基の牌楼(門)が建っています。大通りにある善隣門は、テレビや雑誌などでよく見かけますが、その他に9基もあり、中でも東南西北の4基には深い意味があるそうです。中国では古来より、皇帝が王城を築くとき、天文博士に天意をうかがわせ、城内に入ってくる邪を見張り、これを見破るために東南西北に限って通路を開いて、それぞれに門衛を置いたそうです。それらは「春夏秋冬」「朝昼暮夜」という陰陽五行に基づく色である「青赤白黒」で彩られ、さらに各方位の守護神として人々に根強く信仰された四神を据えました。その守護神は東=青竜神、南=朱雀神、西=白虎神、北=玄武神。いつの季節も24時間、それぞれの守護神が邪を見張ることによって、城内の繁栄と安全をはかったのです。東方の霊気は青竜神が見張り、陽気が南方に入ると朱雀神に引き継いで、さらに西方に移ると白虎神が受け、やがて陰気が満ちる夜となると北方を玄武神が守るということなのです。
 中華街でランチしました。食べ放題の店がたくさんありますが、中華街では珍しい本場の福建料理が味わえる福満園・本店(中華街北門通り)で、四川と福建のコース料理を頂きました。

中華料理店がいっぱい、肉マンおいしそう!

中華街の山下公園側の入り口近く・馬祖廟 (天后宮) 左手前の「ぱんだや」は土産店

■ 日本における新聞発祥の地
 現在、日本全国で100紙以上が発行されている新聞ですが、そのはじまりの地が中華街にありました。中華街のシンボル関帝廟は現在工事中でしたが、そのすぐ近く、「日本における新聞発祥之地」の石碑が建っていました。 開港から5年ほど後、ここで、日本初の日本語新聞が作られました。新聞の名前は『海外新聞』、発行者はジョセフ・ヒコという人です。兵庫県生まれの日本人で、日本名は浜田彦蔵、アメリカ国籍をもった帰化人第1号としても知られています。 ヒコは、1850年(嘉永3年)、13歳の時に江戸見物から船で故郷へ帰る途中、遠州灘で暴風にあい、太平洋を漂流…。アメリカ商船に救われ、渡米します。そのままアメリカで暮らすこととなり、カトリックの洗礼を受け、ジョセフ・ヒコを名乗りました。そして8年後、21歳となったヒコは、アメリカ領事館ハリスの通訳として帰国。開国直後の日米交渉などで大活躍します。そんなヒコは、手書きで作った『新聞誌』を前身に『海外新聞』を創刊します。発行にあたっては、日本初の和英辞典の編集に携わった岸田吟香らも協力。外国商船などで持ち込まれた外国の新聞を翻訳し、最新の海外ニュースを国別で紹介したほか、商品相場や広告なども掲載されました。現在の新聞とは異なり、二つ折りの半紙を4〜5枚重ね和綴じした冊子のようなもので、木版刷りでした。創刊時の定期購読者はわずか4名だったそうです。『海外新聞』は、1866年(慶応2年)、ヒコが長崎へ転居するのを機に廃刊、26号が最終号となりました。その後、イギリス人による『万国新聞紙』(1867〜68年)、アメリカ人による『横浜新報もしほ草』(1868〜70年)などの日本語新聞の発行が続き、ついに1871年1月28日(明治3年12月8日)、日本初の日刊の日本語新聞『横浜毎日新聞』が創刊されます。現在の毎日新聞とは無関係です。
日本国新聞発祥之地の碑
 発行当初は木活字でしたが、早くから鉛活字へ移行し、洋紙両面刷りで発行された画期的なこの新聞は、のちに本拠地を東京へ移しました。開国とともにもたらされた“新聞”という文化、複数の情報を元に、速報性をもって、より正確な情報の伝達を目的に、一般大衆へ向けて、定期的に発行するという近代新聞の意味からも、『海外新聞』は、日本における新聞のはじまりと考えられているのだそうです。

■ 東北道が雨で通行止め
 筆者は2017年10月23日北上する台風に対向して東北道を盛岡ICから南下しました。台風は海のほうに逸れたので、スマホで天気予報を見て、沿岸部のほうは荒れているけれど内陸部は大丈夫だろうと考えながら車を走らせていました。確かに海から遠い岩手県部はその通りで、雨も大したことなかったのですが、交通情報で古川ICから大衡ICが通行止めとのこと、更にその先の仙台宮城ICから白石ICも通行止めとのこと、立川に住む息子一家は下道走行するという方針でとっとと行ってしまいました。我が夫婦と娘夫婦が同乗する我車は、スマホの天気予報を見るかぎりどんどん天気は良い方向へ向かっているし、通行止め解除は時間の問題だろうと考えて長者原SAで時間つぶし待機としました。SAは大型トラックでビッシリ、皆解除待ちでしょう。このサービスエリアからは渡り鳥の越冬地化女沼がきれいに見えます。ラムサール条約登録湿地であり、今は廃墟となっている遊園地の観覧車が見えました。食堂で昼食をとり、交通情報やテレビで時間つぶしをすること1時間余り、解除放送が流れるや、皆さん車に向かってダッシュ、その後はスイスイ走行して帰ってきました。浦和ICで降りて、娘夫婦を降ろすまでのさいたま市内が混んでいました。

■ 台風21号で床上浸水
 娘はふじみ野市議会議員のFacebook友達の投稿から、ふじみ野市元福1〜3丁目と、隣接する川越市寺尾地区が浸水被害でとんでもないことになっているとスマホ画像を見せてくれました。我が家に帰り着いて、外に置いてあるカポックの大鉢が引っくり返っているのを見て、風の強かったことがわかりました。我が家は丘の上なので水害は無いのですが、19時のNHKニュースで我が家から近い川越市寺尾地区でボートで救助される住民の映像を見て、大変なことが起きたことがわかりました。埼玉県が、2017年10月22日から23日にかけて上陸した台風21号による県内被害状況をまとめたところ、10月24日16時現在の浸水被害は川越市など県西部を中心に県内全域の15市町に及び、床上浸水は91件、床下浸水は206件とのことでした。
 埼玉県内の浸水被害で最も多い川越市は床上浸水56件、床下浸水131件。二番目に多いふじみ野市は床上浸水17件、床下浸水32件です。入間市と皆野町、美里町で道路の陥没や破損が計4件あったそうです。
 大雨による冠水や倒木などで基幹道路となる県道の通行規制は計56箇所に上りました。飯能市や小川町の森林管理道で路肩が崩落したほか、ときがわ町の宮ケ谷戸前堰(せき)で、下流右岸の護岸が崩落するなど農業関連施設にも被害が出ました。
 今回浸水被害の発生したふじみ野市は、右航空写真で分かる通り、武蔵野台地から荒川に向かって多摩川から流れた水が南西から北東に向かって崖線を形成しており、ちょうど武蔵野台地(岡)と荒川低地(洪水による浸水危険地域)が東西に分かれて共存したまちです。荒川と並行して東武東上線と国道254号線(川越街道)が北西〜南東に走るため、我が家もそうですが家が北西〜南東に「斜に構え」ています。ふじみ野市は、以前からハザードマップを配布して災害への備えを呼びかけてきました。今年も3月に新版が配布されました。洪水に関しては、荒川の氾濫と新河岸川の氾濫の2タイプを公表しています。荒川の場合は浸水予想地域は広範囲にわたり、地域の名前も「滝」とか「水宮」、「川崎」のように水と関連しています。どういうわけか介護老人保健施設とか特別養護老人ホーム、デイサービスセンターなどがこの地域に集中し、市内で最大の医療施設「上福岡総合病院」もここにあります。

濃い色部分の上端が北西から南東に向かって流れ、東京湾に注ぐ荒川
下端は東京都と神奈川県の境を形成し。羽田空港南に注ぐ多摩川です
武蔵野台地を多摩川から荒川方向へ(南西から北東へ)流れた水が土を
侵食し、多数の崖線を形成しており、段丘部分との境が坂になっています

■ 都市型水害…内水による被害
 ふじみ野市は過去に浸水実績のあった箇所を元に「内水ハザードマップ」を作成しています。このマップは、下水道管(雨水管)の雨水排水能力を超える降雨により発生する浸水で、浸水実績箇所、避難時危険箇所、浸水時の避難場所、避難時の注意点などの情報を掲載しています。以前は雨水の一部は田畑や森林などの「自然の貯水池」にたまり、一部は地下にしみこんでゆっくり川に流れ込んでいました。しかし現在の都市部では道路などの地表部はコンクリートやアスファルトでおおわれ、「自然の貯水池」の機能が失われています。大半の水はそのまま下水道や川に集中して流れ込み、下水道の処理能力が追いつかず川も大量の水を抱えきれなくなって市街地にあふれて洪水を起こします。特に近年は「ゲリラ豪雨」が各地で発生し、「線状降水帯」という集中豪雨では8月30日にも埼玉県新座市大和田の柳瀬川で釣りをしていた71歳の男性が、急に増水した濁流に呑まれ、翌日9.2km下流の和光市の新河岸川で浮いているのを発見されましたが、既に死亡していました。
川越市寺尾小学校周辺は床上浸水 小学校の手前はセブンイレブン 車も水没

■ 内水対策
 もちろんふじみ野市は内水対策も行っています。埼玉県とふじみ野市で協議会を設置し、浸水被害原因調査や被害軽減対策の検討、対策事業の重点実施等、河川・下水道の一体的整備を行うために連携して、埼玉県は「新河岸川改修事業(下流部)の推進」、ふじみ野市は@川越江川への排水口に逆流防止ゲートおよび排水ポンプを設置、A雨水幹線と雨水貯留施設等の整備推進、B福岡江川から新河岸川への排水ポンプ設置、C内水ハザードマップの活用推進という施策を実施してきました。雨水貯留浸透施設については市内各所に大きな穴が掘られているほか、小学校の校庭の地下などに地下ダムが設置されています。
 ※河川の水を「外水(がいすい)」と呼ぶのに対し、堤防で守られた内側の土地(人が住んでいる場所)にある水を「内水(ないすい)」と呼びます。

川越江川の上に置かれた蓋が水圧で太鼓橋みたいに変形、金網もひん曲がり
 
川越市寺尾小学校隣のセブンイレブンのところに国土交通省の排水ポンプ車が

■ ハザードマップで警告されていたことが現実に
 しかし今回の浸水は完全に川越江川の能力を上回る量の水が押し寄せて、暗渠にした川の蓋を押し上げ、一帯の住宅地に溢れ出て床上浸水、床下浸水を引き起こしました。実はこの辺りには新河岸川に隣接してふじみ野市立葦原中学校や元福小学校、星和幼稚園があります。そして広々とした寺尾遊水池があってそれを囲む堤防の上が市民の遊歩道になっています。普段見ると、無駄に広い空間に見えて、もったいないなぁと感じますが、いざ水害を防ぐためと見れば仕方ない気もしていました。川越市寺尾小学校や寺尾中学校は、この寺尾遊水池よりやや上流にあります。この辺りに水が溢れたということは、排水ポンプの能力も越えていたということです。
 ふじみ野市のハザードマップには元福1〜3丁目を市内で最も危険な区域として「早期の立ち退き避難が必要な地域」に指定しています。そして「この地域は河川氾濫による洪水発生より先に内水氾濫が発生するため、河川に合わせた立ち退き避難が困難になる可能性があります。道路等に水が溜まり始めたら、天気予報など気象情報を確認し、早期に立ち退き避難をしましょう」と書いてあります。コレに倣えば警報が出た時点で車ですぐ隣の丘の上に避難していれば車が水に浸かることはなかったでしょう。ただ晴れた翌日に家の片付けをしていた住民がテレビで「47年も住んでるけどこんなの初めて」と言っていましたから、住民からするとハザードマップは見てたけれどまさか、と思っていたことが現実になったということです。
(2017年10月29日)


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