108 マッサン
「産経ニュース」に大変詳しく紹介されています。感動的なので、是非ご覧下さい。http://www.sankei.com/special/massan/index.html ■ 運命の出会い 明治27年、広島県竹原町の造り酒屋に生まれた竹鶴政孝は、大阪高等工業(現大阪大学工学部)醸造科に学び、洋酒づくりに人一倍の興味を持ちました。大正7年、卒業を待たずに当代一の洋酒会社、摂津酒造に入社し、阿部喜兵衛社長に見込まれてスコットランドに留学し、グラスゴー大学や各地の蒸留所でウイスキーづくりを学びます。 政孝が「忘れがたい運命」と呼ぶ出会いは、留学2年目の6月に訪れました。同学の女子学生の弟に柔術を教えようと出かけた家の長姉が、「リタ」の愛称で呼ばれるジェシー・ロベルタ・カウン(愛称:リタ)。第一次世界大戦で許婚者を失ったリタは、遠い異国からの留学生の孤独に、自らの哀しみを重ねます。後日、研修でフランスを旅した政孝は、リタへのお土産に香水を贈ります。お返しはスコットランドの詩人ロバート・バーンズの詩集、ページを繰れば、スコットランド民謡の「Auld Lang Syne」が収められていました。日本では「蛍の光」として親しまれる曲です。 友よ、杯を上げよう。懐かしいあの頃のために。 ■ 猛反対を乗り越えて結婚 心通じ合った2人の結婚は、双方の家族の猛反対に遭います。戸主の承諾が必要な教会での挙式を断念し、政孝とリタはグラスゴーの登記所で結婚登録書に署名、家族で唯一の味方だった末妹のルーシーとリタの幼なじみ、そして登記官だけが立ち会う簡素な結婚式でした。 大正10(1921)年11月、政孝が3年ぶりに帰った故国は、大戦景気に沸いた留学前とは様変わりしていました。摂津酒造のウイスキー醸造計画も頓挫し、政孝は退社します。ウイスキー作りどころではなく、中学の教師などをします。リタも子どもたちに英語やピアノを教えて家計を支えました。政孝の雌伏の時代です。その後、政孝は旧知の鳥井信治郎に請われ、寿屋(現サントリー)に入社。京都・山崎に新工場を立ち上げ、試行錯誤の末、昭和4年に国産初の本格ウイスキーを完成させました。そして5年後、寿屋から独立した政孝は、「ウイスキーづくりの理想的環境」と着目していた北海道余市に、大日本果汁株式会社(現ニッカウヰスキー)を設立します。 ■ 余市に鳴り響く「リタの鐘」 余市への移住を人一倍喜んだのはリタでした。三方に延びるなだらかな丘陵、朝夕の山裾にかかる靄(もや)、サケが帰る川やニシンの寄せる海・・・・故郷のスコットランドとよく似た風景が、目の前に広がっていました。しかし、政孝の事業は苦戦続き、ウイスキーの熟成を待つ間の「つなぎ」として発売したリンゴジュースがふるわず、赤字会社の評判が蔓延しました。おりしもニシン漁が不振をきわめ、余市の町も活気を失いつつあった頃、リタは時刻を告げる鐘を鳴らそうと思い立ちます。朝8時と昼の12時、そして終業時間の午後5時。カウベルが鳴る毎日3回の時報は、後に町の人々から「リタの鐘」と呼ばれるようになりました。やがて太平洋戦争が勃発、日本国籍を取得していたリタも、いわれなき迫害を受けます。リタは日本人として生きようと努めました。着物を着て帯を結び、煮物もつくれば沢庵や梅干しも漬ける、イカの塩辛は、政孝が食べやすいよう、繊維に直角に切りそろえました。 ■ 仲睦まじき夫婦
■ 美園の丘のふたりの墓碑 やがてニッカウヰスキーも軌道に乗り、本社は東京に移ります。もともと身体が丈夫でなかったリタは体を壊し、夏は余市で、冬は鎌倉で過ごすことが多くなりました。政孝は毎日ウイスキーをボトル1本飲むような生活なのに体を壊しませんでした。1961年1月17日、リタは余市の自宅で静かに息を引き取ります。政孝の落胆振りは、上に書いた通りです。自分が日本に連れて来なければ、妹達のように、リタはもっと長生きできたのではないか、自分を責めることもあったようです。いま2人は、美園の丘で静かに眠っています。「IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETSURU」に始まる墓碑銘は、2人の名前と生没年月日を政孝が刻ませたものです。昭和54(1979)年に政孝が没し、その日付が加わりました。政孝とリタが一緒に歩いたという、余市駅から蒸留所、リタの名前を冠した幼稚園を経て町役場に至る1.3kmの遊歩道は、昭和63年に「リタロード」と命名されました。ベニハナトチノキ、サルビア、マーガレット。リタの故郷スコットランドが1年で最も美しい6月に、この道もまた多くの花で彩られるそうです。まだ行ったことがありません。いつかの6月に、是非行ってみようと思います。 ■ 「学研」の学習漫画『埼玉県のひみつ』がネットで話題に
■ 第87回選抜高等学校野球大会 第87回選抜高等学校野球大会(主催:毎日新聞社、日本高等学校野球連盟)はBEST4が揃いました。前回ネット上で紹介されている優勝候補や有力校を紹介しましたが、浦和学院と敦賀気比は優勝候補、大阪桐蔭は有力校、しかし有力校の健大高崎を破った北海道の東海大四は意外というところです。しかし東海大四は権と大沢の完封リレー、ヒット数では健大高崎が上回りましたが、東海大四のキャッチャー小川が健大高崎の「機動破壊」を押さえ込み、打つほうでも活躍したのが勝因です。1-0の手に汗握る戦いでした。敦賀気比にしても、序盤先制しましたが、有力校・静岡の強力打線に同点とされ、9回裏、2四球で得た2死1、2塁からサヨナラ勝ちしました。エース平沼は9奪三振で3試合連続の完投勝利です。常総学院は宇草の先頭打者本塁打で先制しましたが、9残塁とチャンスを逃す間に大阪桐蔭が粘って逆転しました。大阪桐蔭のエース田中は制球に苦しむも、5回以降は要所で踏ん張ったのはさすがでした。唯一貫禄を示したのが浦和学院です。エース江口は立ち上がりこそ制球が乱れましたが、その後は圧巻のピッチングでした。沈む変化球がさえ、県岐阜商を単打4本に抑えて完封しました。県岐阜商のエース高橋純平はこの大会1右腕ですが、大会1左腕の龍谷大平安・高橋奎二投手を打ち崩した浦和学院の打線は抑えられませんでした。1日2千回素振りするという打線は、1番から9番まで切れ目が無く、手許へひきつけて鋭く振れるので、好投手もなんのそのなわけです。 1日休息日をとり、準決勝は3月31日です。大阪桐蔭と敦賀気比は昨夏、準決勝で激しい打ち合いを展開し、15−9で大阪桐蔭が勝ちました。また、浦和学院と東海大四は、昨秋の明治神宮大会準々決勝で対戦し、10−0の6回コールドで浦和学院が圧勝しました。ともに選手の記憶に新しい対戦だけに、リベンジの戦いになりそうです。 ■ 三菱電機の液晶テレビで障害発生 我が家のテレビが今朝(2015年3月29日)時々画面が真っ暗になり、しばらくするとまた点くといった状態を繰り返しました。連れ合いはアンテナが調子悪いのでは?と言いますが、電気技術者の筆者は、そうじゃない、テレビ本体の不具合のはずだと言いました。もう1台のテレビと両方ONにして様子を見ました。すると切れるタイミングが微妙に違いますが、両方共に画面が消えます。同時じゃないということはアンテナ障害ではありません。不思議でしたが、少年野球から帰って来た後はこの不具合は解消していました。そしたらテレビのニュースで、三菱電機の液晶テレビ「REAL」の一部で、視聴中に電源が突然切れるなどの障害が29日午前0時頃から全国で起きたことを報じていました。我が家のテレビは両方ともまさにコレなのです。三菱電機の発表では、障害は正午頃まで続いたそうです。理由は、テレビに内蔵されているソフトウェアを更新するため、放送電波を利用して、各家庭のテレビ(他社製品も含む)にデータを配信する仕組みになっているそうで、今回の原因となったデータは、他社が配信したもので、三菱電機が配信停止を要請したことで、障害が復旧したそうです。 ■ ドイツのLCCフランスに墜落 フランス南東部の山中に、ドイツのルフトハンザの子会社であるLCC;ジャーマンウィングス機が墜落し、150名ぐらいの人が死亡した事件、アンドレアス・ルビッツというドイツ人副操縦士が故意に墜落させた疑いがある、と報じられております。恐ろしいことです。 (2015年3月29日) |