86 LEADERS
トヨタ自動車創業者・豊田喜一郎をモデルとしたドラマ『LEADERS』が、TBSテレビで2014年3月22日(土)、23日(日)、大型SPドラマとして2夜連続で放映されました。佐藤浩市主演、香川照之、宮沢りえ、吉田栄作、萩原聖人、高橋和也、えなりかずき、伊東四朗、溝端淳平、前田敦子、中村橋之助、椎名桔平、山口智子、橋爪功ら豪華キャストが共演しました。本所次郎の経済小説「小説
日銀管理」(光文社文庫)とトヨタ自動車株式会社の社史である「トヨタ自動車75年史」が原案となっています。これは、トヨタ自動車にとってこの上ない宣伝になったと思われます。 ■ ものづくりの魂を貫き、倒産の危機から日本が世界に誇る自動車会社を作った男たちの涙と勇気と感動の物語! 第二次世界大戦前、欧米先進諸国における自動車産業が持つ圧倒的技術力、産業力を目の当たりにしたある青年は、帰国と共に自らの手で国産自動車産業を育て上げたいという夢を燃やしていました。
技術者として信念を持って生きた、「愛知佐一郎」 のモデルとなったのは豊田喜一郎氏です。リーダーが生まれにくい、この日本という国にあって、佐一郎という人物は非常に稀有な存在でありました。佐一郎の甥の愛知正二(椎名拮平)は、東京帝國大学工学部の自動車工学の第一人者、隈沢教授の教え子です。隈沢教授は有能な技術者として、愛知正二と北川隆二(吉田栄作)を佐一郎に紹介し、自らもアイチ自動車の開発に有用な材料紹介など、サポートします。佐一郎の強い勧誘で自動車の道へ進んだ正二は、アイチ自動車開発担当常務として、あらゆる面で佐一郎を支えます。愛知正二と同じ東京帝國大学の院生であり、隈沢教授に有望な技術者として、佐一郎に紹介された北川隆二は、愛知正二の誘いで入社しました。労組委員長でありながら愛知正二と親交が深く、労働者を守る立場ながら、常に会社の立場を理解して労使協調路線を推し進めます。ところが、その後の労働争議で互いの立場から対立を余儀なくされるようになります。 愛知佐一郎の強力なリーダーシップと、それを支える仲間たちの努力によって、彼らはついに試作車第一号を完成させることに成功しました。しかし5年の歳月を費やしてようやく乗用車を完成した時には、皮肉にも戦争の足音が迫っていたのです。 軍用トラックの生産などによって戦時中の苦難を乗り切った佐一郎たちでしたが、ようやく終わった戦争の後も日銀の金融引締めによる大不況という荒波が待ち受けていました。 ■ 倒産の危機〜資金繰りに奔走 トヨタ自動車は1949(昭和24)年の年末、販売不振と売掛金の回収遅延から、2億円の決済資金の手当てがつかなければ、あわや倒産という事態に陥ってしまいました。 「技術は無いけど銀行を回ることは出来る」・・・近藤取締役経理部長(萩原聖人)を先頭に、会社の幹部総出で資金調達に奔走したものの、うまくいきません。たとえば、メインバンク3行のひとつ西国銀行名古屋支店長の児島正彦(吹越満)は、「機屋には貸せても、鍛冶屋には貸せない」と断りました。機屋とは愛知・東海に多かった繊維産業を指し、それもやや侮蔑的な言葉です。その機屋が使う織機を父である愛知佐助が作り、佐一郎は愛知自動織機の常務を務めていました。鍛冶屋というのは機械を作る上で、どうしても鉄を熱処理したり、叩いたり、曲げたりしますから、そういう会社を言ったのでしょう。自動車のようなわけわからないものはやめろと児島は言ったのです。金策ならぬまま、その近藤は病に倒れ、帰らぬ人となります。 ■ 日銀の支援を受けることに
■ 技術で勝負できる会社が日本の未来を創る!日銀管理下で人員整理を拒絶したリーダーの決断とは? 融資の条件として日銀総裁:財部登は、余剰人員の整理と製販分離を要求します。社長の豊田喜一郎は、「従業員は家族だ」という主義で、「リストラは経営者の責任放棄である」という、いかにも技術屋社長らしい人でした。板挟みの愛知自動織機の社長を務める石山又造(橋爪功)は密かに指名解雇者のリストを作りますが、労組がこれを探り当て、大規模な労働争議へと突入します。 アイチ自動車の労働組合は、1950年4月7日に争議行為通知書を提示し、4月9日から争議行為に入ることを会社側に通告しました。そして、労働組合側は会社再建策の提出を再三にわたり要求し、会社側は早急にそれを提示することになりました。 2ヶ月近くに及ぶ労働争議で生産は停滞し、経営の悪化はいっそう深刻の度を加えました。会社再建案の実行は一刻の猶予も許されない状況となり、会社側は6月4日の第25回団体交渉で、「早期解決に関する件」を労働組合側に文書で申し入れるなど、人員整理による会社再建案の受け入れを求めました。 史上唯一の人員整理、労働争議で荒れる工場、愛知佐一郎は1600人の希望退職を募る以上、責任者の自分も辞める、と、リストラされる社員と共に、社長の座を辞職します。社長が辞めるなら、と結局予定数を上回る1700名以上が退職を希望しました。実際には社長、副社長、常務の3人が、6月5日に労働争議の責めを負って辞任しました。 6月8日の第29回団体交渉では、徹夜の討議を行った結果、労働組合は9日早朝に会社再建案の受け入れを決めました。翌10日に労使間で覚書が締結・調印されました。 労働組合との交渉妥結に伴い、会社再建案に盛り込まれた東京の芝浦工場と蒲田工場の閉鎖も確定し、両工場の解雇者378名を含む2,146名が退職することになりました。残留者は5,994名(販売部門の350名を含む)でした。実に、社員の4分の1以上がやめたのです。残留者も1割賃下げとなりました。 覚書には「会社が将来人員を採用する場合には、今回の退職者を優先的に取り扱う。会社および労働組合は、退職者の就職斡旋に努力する」という項目も盛り込まれました。 こうして、1950年4月11日に始まった労働争議は、2ヶ月を経た6月10日に終結しました。その後、7月18日に開催された臨時株主総会で全役員が一旦辞任し、新役員を選任したうえで、愛知自動織機製作所社長石山又造 (橋爪功)が兼任のまま新社長に就任しました。 ■ ドラマに華を添える女たち 工場は男の職場ですが、やはり女たちは欠かせません。佐一郎の妻:愛知晴子(山口智子)は理想的な社長の妻です。偉大な経営者にはそれを支える偉大な配偶者がいる、という典型です。佐一郎の考えを尊重し、悩んでいる夫を励まします。ともすれば心が折れそうになる経営者の夫を明るく支えます。家の食料も社員に提供し、イベントを行って佐一郎の好物・カレーを社員たちにふるまいます。島原清吉と結婚した島原美鈴(前田敦子)は、戦争で夫を、戦災で家も失いましたが、アイチ社員に採用され、愛知家の離れに住まわせてもらいます。愛知晴子が家族同然に面倒を見ます。 東山雪乃(宮沢りえ)は佐一郎と財部が東大時代に通った本郷食堂の看板娘でした。 結婚後辞めましたが、病気を患った母の代わりに店に出たところで佐一郎と再会します。佐一郎に仄かな思いを抱いていたようです。戦争で夫を失い、病床の母の看病のため、夫の知人であった山梨良夫の紹介で料亭で働きながら財部のGHQ 接待を手伝います。病気で余命いくばくも無いと感じた雪乃は、米軍将校の紹介で米国の商社と輸出商談を交わす書類を届けるために愛知の佐一郎宅を訪ねますが、佐一郎は留守で、妻の晴子が応接します。晴子は雪乃の気持ちを察し、温かくもてなします。島原美鈴は労組事務員として、後の労使対立を複雑な思いで見守るのですが・・・。 ■ 朝鮮戦争特需 労働争議終結直後の1950(昭和25)年6月25日、朝鮮半島で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍隊が北緯38度線を越え、大韓民国(韓国)に侵攻しました。朝鮮戦争の勃発です。ここからはドラマではなく、実際のトヨタの話に切り替えます。 韓国軍の装備を早急に補うため、戦場に最も近い日本の工業力が利用され、同年7月10日には早くも米国第8軍調達部からトラックの引き合いがありました。トヨタは、日産やいすずとの競合に勝って、BM型トラック1,000台を受注し、7月31日にトヨタ自工・自販共同で契約を締結しました。納入は、翌8月に200台、9月と10月に各400台でした。その後もトヨタは、8月29日に2,329台、翌1951年3月1日に1,350台と合計4,679台のBM型トラックを受注しました。 このような特需の発生に対して、トヨタ自工では生産計画を月産650台から1,000台へと引き上げました。要員については、現有人員による2時間残業で対応し、また計画中であったBM型トラックのBX型への切り替えは、特需車両の完納後まで繰り延べることとしました。 これに伴って、1951年2月に「設備近代化5ヶ年計画」(1951年4月〜1956年3月)が策定されました。同計画の目標月産台数は、1951年3月の月産実績1,542台の約2倍にあたる3,000台でした。 この計画の後半では、新型乗用車クラウン(RS型)の製造設備の新設が中心となりました。それまで、荒川鈑金工業、関東自動車工業、中日本重工業(現・三菱重工業)などに製作を委託していた小型乗用車ボデーの内製化が図られ、プレス工場、車体工場への投資が増加しました。 小型乗用車ボデーを内製することになったのは、1952年初めに豊田喜一郎の社長復帰が内定したからです。社長復帰をお願いされた豊田喜一郎は「トラックばかりで乗用車を作っていないような会社には戻れない」とゴネたそうです。「だったら、あなたが戻ってきてやったらいいでしょう」というわけで乗用車ボデーを内製化することになったのだそうです。内心はうれしかったはずだ、と後年豊田英二は回想しています。ところが、1952(昭和27)年3月27日、創業者豊田喜一郎は、同年7月の株主総会で社長に復帰することが内定し、復帰の準備に専念しているさなか、脳いっ血で突然死んでしまいました。まだ57歳で、これからという時期でした。豊田英二は「いま思うと『張り切りすぎて死んだ』と言えるぐらい張り切っていた」と回想しています。喜一郎は、1950年6月に社長を辞任したあと、東京と名古屋の間を行き来しながら、ヘリコプターとそれに搭載する新方式のガソリンエンジンの研究に取り組んでいたそうです。 ■ 以降はお馴染みの大躍進で日本一の企業、世界生産トップに躍り出る
■ バッシングに耐えて その後もオイルショック・日米経済摩擦によるバッシング・最近ではレクサスリコール問題など、決して平坦な道のりばかりでありません。米司法省がトヨタに罰金12億ドル(約1230億円)を科し、過去4年間続いた急加速関連の捜査を終結することに合意したと明らかにしましたが、これは米政府が自動車業界に科した罰金では最高額です。トヨタが2009〜2010年、トヨタ・レクサス車の急加速問題に関し、安全規制当局と議会、一般消費者に虚偽情報を提供した事実を認めた、と司法省は説明しました。トヨタは罰金を支払う代わりに3年間起訴猶予処分を受け、刑事処罰を免れることになりました。 この件でトヨタは40億ドルを超えるリコール費用を支出しています。米国運輸省は、全米科学者協会や米航空宇宙局(NASA)まで動員し、原因究明に乗り出したものの、結局、正確な原因は明らかにできませんでした。トヨタは4年に及ぶ不毛な争いに決着をつけたかったのです。過去の事例を見ても、米国は不当なバッシングを行って、自国自動車業界を守るために絶対に罰金を払わせるという態度でした。米国メーカーや韓国メーカーの車のほうがはるかに事故が多いのに、です。トヨタはこれをわかっていますから、敗戦国日本が何を言っても無駄だ、と観念したのでしょう。それにしても、「トヨタが虚偽情報を提供した事実を認めた」という言い分には腹が立ちます。米国の科学者たちが、トヨタ車に欠陥があるとは認められないと結論したのに、です。自分たちが不当な言いがかりをつけて罰金を科すなど、強盗のやりくちみたいなものです。その後GM車に明確な欠陥や隠蔽が判明したのにこちらは大騒ぎにはなっていません。 ■ 胸のすく顔芸
■ 破綻危機を乗り越えて・・・ 日銀の斡旋もあり、1億8820万円の協調融資が実現し、破綻危機は乗り越えられました。 1950年、融資条件だった社長の交代により三代目社長に石田退三が就任。 製販分離によりトヨタ自動車販売株式会社が誕生(神谷社長)したのです。 豊田喜一郎は心労のためか、社長復帰を目前に1952年3月27日、57歳の若さで急逝しましたが、しかし長男章一郎氏は三井家から博子さんを妻に迎え、トヨタは三井グループの一員としての色合いを濃くして行きました。
■ 減圧室の体験記 3回前に、埼玉県ふじみ野市の日帰り入浴施設「真名井の湯」にある減圧室で、利用客の男女が死亡する事故があり、現在閉鎖されていることを紹介しました。今週の朝日新聞で、今回の事故とは違う製造元の減圧室を朝日新聞記者が体験してみたことが載っていました。東京都新宿区の「調圧室」と呼ばれる施設だそうです。
朝日新聞記者が体験した施設では、「全身の血液の流れがよくなり体温も上がる」とホームページで紹介されていたとのこと。5分で高度1,500メートルの低気圧にした後、5分かけて平地の気圧に戻すのを計5回繰り返す。2列のイスが向かい合って置かれた四角いドームの室内、「気圧が下がっているときは密閉されているので、ドアは開けられない」と説明を聞いたときは、内心動揺したそうです。気圧が戻り始めると、蒸し暑くなり汗ばんできました。耳が聞こえづらく、鼻も詰まり、あくびが出てきました。50分経ち、外に出ると、肩を回しやすくなった気もしますが、眠くて体がだるくなりました。利用前と後で体温を測ったが、変化はありませんでした。 こうした気圧を調整する施設は、国の許可が必要な医療機器ではなく、効果は証明されていないとのこと。業界関係者によると、ここ数年、同種施設を置く店が増えているといい、事故があった施設と同じ製造元だけでも、8年前からこれまでに約50台を出荷したそうです。 記事の最後にスポーツ医学などの複数関係者の話として、「健康な人でも、15分で高度約3,500メートルに到達して、また元に戻るのはすごいストレスのはず」と書かれていました。 (2014年10月25日) |