76  対馬丸

 太平洋戦争中の1944年に学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈されてから8月22日で70年を迎え、那覇市にある慰霊碑「小桜の塔」では慰霊祭が行われたそうです。遺族や生存者ら約450人が参列し、大型のチョウ「オオゴマダラ」約100匹が放たれ、犠牲者の冥福を祈ったとのこと。
 黙とうの後、4歳の時に家族で対馬丸に乗り、両親と7人のきょうだいを亡くした高良政勝・(財)対馬丸記念会理事長(74)が「今年は対馬丸が撃沈されてから70年の節目の年。年々遺族や生存者が少なくなり、語り部として活躍出来る人も少なくなっているが、多くの人たちの理解と協力で対馬丸の認知度は徐々に大きくなっている。これを力としてより充実した記念館にすべく努力していかなければいけないと気を引き締めている」と挨拶しました。

■ 天皇、皇后両陛下が、初めて小桜の塔と対馬丸記念館を訪れ、犠牲者を慰霊
 日本郵船の対馬丸(6754トン)は1944(昭和19)年8月21日の夕方、沖縄から本土に疎開する学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788人を乗せ、同じように疎開者を乗せた和浦丸・暁空丸と護衛艦の宇治・蓮を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指し那覇港を出ました。しかし翌22日午後10時過ぎ、鹿児島県トカラ列島の悪石島の北西10km地点を航行中に、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け沈没しました。775人の学童を含む1418人が犠牲となりました。
 建造から30年も経った老朽貨物船・対馬丸は航行速度が遅く、他の船から遅れていたため、潜水艦の格好の標的だったのです。 ほとんどの乗船者は船倉に取り残されましたし、海に飛び込んだ人も台風の接近に伴う高波に呑まれました。イカダにすがって漂流した人々は、付近の漁船や海軍の哨戒艇に救助されたほか、奄美大島まで流されるなどして生き延びたようです。ただ、付近の島々にはしばらくの間、遺体が流れ着いて、人々が埋葬し、弔ったそうです。

2014年6月27日、小桜の塔を訪れ、犠牲者を慰霊される天皇、皇后両陛下
■ 語り継ぐべき戦争の記憶と不戦の誓い
 今また、世界がきなくさくなり、特に米国の内向き化と中国の台頭で、日本周囲も不穏な空気が漂うようになってきました。国土防衛は、そこに生きる人民にとっては当然のことです。ところが軍隊が制御不能になると、防衛ではなく侵略へと変わって行きます。「防衛」とか「自衛」という言葉で当然化された組織が、枠を超えて変貌して行くと、誰も止められなくなります。逆らえば殺されます。大正時代の、ロマンチックな、楽しい雰囲気が、昭和に入り、変貌していきました。
 毎年、せみ時雨の暑い時期には、戦争の記憶が語られます。満州や、南方での戦い、日本全国での空襲や艦砲射撃、中でも沖縄は県民の4人に1人が死ぬ悲惨さで、糸満の丘に立てば、戦没者の碑に刻まれた人名の余りの多さに息を呑みます。昭和天皇は、戦争に深く心を傷められました。靖国神社に詣でないのもワケがあります。ご自身の責任も痛感されておられたでしょう。私達日本国民が為すべき事は、二度と侵略戦争を起こさないというのは当然ですが、「自衛」に名を借りて、「正義」のために云々という血気盛んなヤカラを押さえつけて行くことです。力と力のぶつかり合いは悲劇しか生まず、しかも憎しみは消えることはありません。
浴衣に下駄、うちわを持って花火を眺める夏を維持しなければなりません

■ 対馬丸記念館
 1950年10月に対馬丸の遺族会ができて、その要請で1997年に船体が発見されました…北緯29度31.93分、東経129度32.90分、水深871m。遺族は引き揚げを要求しましたが、日本国政府は対馬丸船体引揚げ可能性調査検討専門家会議の結論を受けこれを不可能とし、代替案として「記念館」の建設が持ち上がりました。2001年6月、「対馬丸記念館」が全額国庫補助で建設されることが決まり、対馬丸遭難者遺族会は財団法人対馬丸記念会へ組織移行し、記念館建設のための独自運営を始めました。
 対馬丸記念館(那覇市若狭1-25-37)では沈没時刻の午後10時23分に合わせて追悼の集いを開くほか、乗船者のゆかりの品や、写真を展示する特別展も行われているそうです。ホームページをご覧下さい。
 平成天皇・皇后両陛下が、近年沖縄に深く心を到し、いろいろなところに詣でておられるのは、昭和天皇の心中を慮られ、日本国民に対し、無言のメッセージを送られておられるのです。二度と愚かな臣民の振る舞いを起こして欲しくないがために。。。。。

■ 恐るべき集中豪雨での土砂災害
 ヒロシマの原爆投下から69年、広島市では集中豪雨で土砂災害が起きて多数の方が亡くなられました。最近のニュースでは「過去経験したことが無いような・・・」などという表現が良く聞かれますが、今や竜巻も含めて、過去経験したことが無いことだらけの気候変動にさらされている日本列島です。雨のニュースを聞くと、九州や四国などの人たちは大変だな〜、よくあんなところに住んでいるなぁ〜と思ったものですが、今やそれは全国区になりました。京都桂川は2年続きの氾濫です。筆者のふるさと雫石は昨年8月9日、66億円に上る被害を受けました。
 筆者が住む埼玉県ふじみ野市桜ヶ丘は、関越自動車道の脇ですが、近くに川が無く、いわゆる武蔵丘陵です。トトロの森も直ぐ近くです。所沢にかけて柳澤吉保が命じて武蔵野の林を開墾させた「三冨開拓地」が広がります。上冨、中冨、下冨の三区画です。冨はトメと発音し、江戸時代に吉保が込めた思いが感じられます。我が家の周りは全く凹凸も無い平坦地ですが、荒川に向かってゆるやかに傾斜しています。川が無いので、田圃は無く林と畑と住宅です。したがってバケツをひっくり返したような雨が降ると、道路が川のようになって一目散に荒川の方へと流れます。公共施設の地下は大きなプールが設置され、流れ切れない水を一時プールする地下ダムが設置されています。また東日本大震災で荒川脇の勤めていた会社が震度5強で被害があったのに対し、我が家は震度3で何事も無かったのは、その後の東大地震研究所の発表で、この一帯が関東ローム層の上で、関東で一番揺れない地域だったからです。災害があるとすれば竜巻です。
 里山付近の扇状地に住宅を建てるのは日本では当たり前です。今回の広島市の土砂災害は、全国各地でたくさん起きる可能性が有ります。土地を選ぶことはとても重要になっています。
(2014年8月23日)


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