13  勝てば官軍、負ければ賊軍

 今年の天気は一体どうなってるの?南関東の桜は咲き始めは早かったのに、咲いた途端に花冷えで、なかなか散りませんでした。北東北:岩手、秋田、青森は信じられないほど咲きません。右写真で有名な雫石町の桜もまだです。
 2013年5月12日は暑かった、まるで夏でした。このように寒かったり暑かったり急激な温度差があることを熱衝撃と言い、私達の商売です(^_^)。これをやりますと、劣化や寿命の短縮につながります。すなわち私達には悪い状態なのです。


岩手・雫石町・小岩井農場と一本桜と岩手山


■福島は3つの地方


福島県は会津・中通り・浜通りの3分類(福島県のHPより)

 福島県は、左図のように南から北へ連なる阿武隈高地と奥羽山脈によって、中通り・会津・浜通りの3つの地方に分けられます。福島県でテレビの天気予報を見ていると、この3つの地方では気候が大変違うので、分けて予報します。会津地方は、日本海側の気候で、夏は盆地では蒸し暑くなります。冬は、降雪が多く、気温もかなり低くなります。会津若松と聞いて思い浮かぶのは山に囲まれた風光明媚な盆地、猪苗代湖、何と言っても白虎隊、そして富士通というのが筆者のイメージです。何故、富士通なの?とおっしゃる?仕事で、富士通の半導体工場へ行ったからです。そういう意味では観光で行った訳ではないので、会津若松を十分堪能していないので今度ゆっくり行って見たい街です。
鶴ヶ城(会津若松市)


■会津

 会津盆地から北の飯豊(いいで)山地を越えると山形県の米沢(米沢盆地)、東は猪苗代を経て奥羽山脈を越えると中通り地方の郡山(郡山盆地)、西の越後山脈を越えると新潟県下越地方の新潟市(越後平野)が位置しており、各地とは磐越自動車道や国道、JR磐越西線などによって結ばれ、観光を通じてそれぞれの都市との交流も活発だそうです。会津盆地の南には会津高原と呼ばれる山間地が広がっており、尾瀬などの観光地が点在しています。会津若松市の東側は猪苗代湖に面しています。
 今NHKの大河ドラマ『八重の桜』で、会津若松市が観光で賑わっているそうです。1862年(文久2年)、会津藩主松平容保は京都守護職に任ぜられ、尊王攘夷派志士の取り締まりや京都の治安維持を担いましたが、長州藩をはじめとする倒幕派の恨みを買うことになりました。1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、会津藩は攻撃の対象とされ(会津戦争)、新政府軍は若松城下にまで侵攻し、白虎隊の自刃などの悲劇が起き、城下町の大半が灰燼と帰しました。


新島八重(会津市HPより)


■八重の桜
 『八重の桜』は、福島県会津出身で、同志社を創設した新島襄の妻となった八重の生涯を描いた作品です。主演は綾瀬はるかで、父役は松重豊、母役は風吹ジュン、兄が西島秀俊、その妻長谷川京子、最初の夫は長谷川博巳、会津藩主松平容保役は綾野剛、八重の幼馴染は貫地谷しほり、西郷頼母は西田敏行らが出演しています。江戸幕府最後の将軍を演じる小泉孝太郎は、言わずと知れた小泉純一郎元総理の息子。生瀬勝久は、勝海舟を、小堺一機が岩倉具視、反町隆史が大山巌、加藤雅也が板垣退助、吉川晃司が西郷隆盛を演じています。他にも有名な俳優がズラリ、剛力彩芽、玉山鉄二、秋吉久美子、中村獅童、稲森いずみ、村上弘明、松方弘樹、・・・よくぞこんな豪華キャストを集めたものだと唖然とします。新島襄役のオダギリ・ジョーはこれからですね。
 このドラマがNHKの大河ドラマに採り上げられたのは、恐らく東日本大震災からの復興に関連しているのでしょう。原発事故で悲惨な目にあっている福島県民を励まそうという意図もあると思われます。

■戊辰戦争敗戦組
 実は筆者が会津に親近感を持つのは、南部の生まれで、同じように徳川幕府方で明治新政府軍と戊辰戦争を戦い、敗れて以来、政治的には不遇をかこってきたという共通意識があることです。今振り返れば、長い徳川の治世が、まさにグローバル化の波にさらわれて一新される運命にあったわけですが、それでも主君を守って戦い抜こうとする精神、風見鶏のように流れを見てそれに乗ろうとする要領の良さが無い、武骨者、頑固者、「ならぬものはなりませぬ」なんて、素晴らしく素敵な言葉ではありませんか。

■敗戦の歴史
 南部すなわち、盛岡を含む岩手県の北部から青森県の八戸地方の歴史はまさに敗戦の歴史です。その昔は長く蝦夷と呼ばれた未開の地でした。蝦夷の軍事指導者アテルイは、坂上田村麻呂に敗れて、処刑されました。その後、安倍氏が今の奥州市に拠点を置き、半独立の勢力を築きましたが、安倍氏は前九年の役で源頼義の率いるヤマト朝廷軍になびいた秋田仙北の清原氏によって滅ぼされました。その清原氏も一族の内紛から後三年の役で滅び、安倍氏の血を引く奥州藤原氏が奥州市から平泉に拠点を移動して奥州を掌握、豊かな産金をもとに仏教を基盤とする地域支配を実現し、平泉時代を築いたわけです。これも源頼朝によって滅ぼされました。とにかく南から来た軍に負ける歴史でした。

■平民宰相原敬
 日本で一番多くの総理大臣を出している県は何処でしょうか?少し政治や歴史に詳しい方であれば山口県、長州と答えます。今の安部総理がまさにそうです。では二番目に多くの総理大臣を出している県は?意外かもしれませんが、岩手県です。戊辰戦争敗戦藩の岩手県(南部藩)がどうして、このような逆境から多くの人材を輩出する事が出来たのでしょうか?
 明治後の岩手県は会津同様、敗戦藩として、厳しい制裁を受けて行きます。「白河以北、一山百文」という侮蔑的な言葉もこの時、薩長新政府により言われた言葉です。宮城県一の新聞「河北新報」の命名の由来も白河以北から来ています。伊達藩(仙台藩)も賊軍なのです。盛岡人はこのような厳しい状況の中から、世に出るのは、勉学にて世に出ていくしかないと考え、苦労をして官僚になった人間が多いのです。
 中でも原敬は南部藩の家老の子として生まれたので、官軍の横暴や敗戦のみじめさを経験しており、敗れた者が報われる世の中にすると誓ったとの事です。彼の号は「一山」と言い、この名称は「白河以北、一山百文」から取ったと言われています。政界のトップに立った時、薩長政府から官位を贈ると言われても原は受けず、固辞し続けた事から、一般大衆から「平民宰相」と呼ばれました。原は戊辰戦争殉難者50周年祭の挨拶の際に「この戦争は単に政見の違いの結果であって、勝てば官軍、負ければ賊軍というふうに勝者が敗者を裁く理屈は成り立たない」と述べて、敗戦の憂き目に苦しむ東北人達に勇気を与えたとの事です。原は反骨精神を生涯忘れる事がありませんでした。この原の精神が多くの者に受け継がれ、その後も政財軍界に多くの人材を送り出しました。例えば小沢一郎、「敗戦の歴史」でしょう(>_<)

■高校と甲子園
 前回は靖国神社のA級戦犯合祀について触れました。大東亜戦争開戦時の総理大臣東條英機はもちろんA級戦犯筆頭です。ところが同じく戦時中総理大臣を務め、終戦時の海軍大臣だった米内光政は戦犯ではありません。この違いは何でしょう。米内光政は筆者の高校先輩です。岩手県立盛岡第一高等学校は、昔は盛岡中学でした。甲子園に通算9回も出場しています。今でも岩手県内では県立高校としては珍しく野球が強いのです。現在西武ライオンズの菊池雄星が花巻東高校のエースだったときも、2009年7月24日(金)岩手県営球場で行われた決勝戦で花巻東に惜敗して甲子園出場を逃しましたが、春の選抜準優勝の花巻東に1-2逆転負けしたものの、あと一歩まで追い詰めました。

岩手県営球場
チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9
盛岡一 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1
花巻東 0 0 0 0 0 0 2 0 × 2
盛岡一)菊池達−中村 (花巻東)菊池雄−千葉

このとき準決勝では岩手の甲子園常連校盛岡大付属に1-0完封勝利でした。盛岡大付属も花巻東も私立校です。強豪相手にも接戦を制して勝ち上がる古豪・盛岡一高、前評判は高くなくても、前年もBEST4に進出するなど、忠實自彊・質実剛健の精神で勝ち上がるのは、やはり伝統というものが肩を押してくれるのでしょう。
 盛岡一高は学業・運動・文化活動いずれも一生懸命やるという伝統があり、スポーツでも多くの分野で強豪ですが、今年の東大合格者数は東北・北海道ナンバー1という高校でもあります。そして先輩は文人と軍人が多いのです。石川啄木、宮澤賢治、金田一京助、銭形平次の作者野村胡堂、そして軍人は下記・・・

■米内光政と及川古志郎と東條英機

 日独伊軍事同盟への反対派は海軍に多く、米内光政や山本五十六ですが、次第に国民世論が日独伊軍事同盟への期待を強めていきます。これを憂慮した昭和天皇が米内光政を首班指名しました。米内光政は、「日本海軍は米英を敵に回して戦うようには構築されておらず、戦争して勝てる見込みは無い」と明言していました。これを苦々しく思った陸軍が陸相を辞任させ、代わりを出さないという手法で、米内光政を首相の座から引き摺り下ろし、発足した近衛内閣の海軍大臣は米内光政の盛岡中学のすぐ後輩の及川古志郎となりました。日独伊軍事同盟推進派の陸軍大臣・板垣征四郎もまた、同じ頃に盛岡中学で学んだ同窓です。結局近衛内閣のときに海軍は日独伊軍事同盟参加やむなしと結論します。当時の連合艦隊司令長官山本五十六は、及川古志郎海軍大臣に対し、米内光政を現役復帰させ、連合艦隊司令長官に就任させることを求めましたが却下されました。基本的には先輩を尊敬していた及川古志郎はその後、米内光政の海軍への現役復帰を図りましたが実現しませんでした。昭和16年(1941年)10月に近衞文麿が内閣を投げ出すと、後継首班を決める重臣会議では及川古志郎海軍大臣も総理候補として名が上がりましたが、これに猛反対して潰したのが米内光政でした。もう一人の候補だった東條英機は、この海軍の「消極的賛成」のおかげで次期首班に選ばれたという経緯がありました。ちなみに東條英機の父・英教(ひでのり)も盛岡中学の卒業生、南部藩の出身です。


米内光政

 東條英教は、陸大を首席で卒業し、明治天皇から恩賜の軍刀一振りを賜った人物で、将来は陸軍大臣、陸軍大将と栄進するものと見られていました。ところが当時、長州閥が陸軍を支配していたため山縣有朋に出世を妨げられ、このような父の状況から、東條英機は陸軍内の長州閥を敵視し、陸軍大学校に長州出身者を入学させないなど、長州閥の解体に尽力したと言われます。戊辰戦争で徳川を擁護する側の会津や南部など東北諸藩出身者は、その後の政治、軍部の中でも冷遇されました。だからこそ逆にその後の盛岡中学出身者は、陸海軍の中にあって、反骨精神を発揮して昇進して行ったと思われます。

■戦犯となった板垣征四郎、ならなかった米内光政
 海軍大臣米内光政と陸軍大臣の板垣征四郎は政治的立場も思想も異なりましたが、同窓の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合い、お互いを「光っつぁん」「征っつぁん」と呼び合っていました。東京の料亭で開かれた尋常中学時代の恩師・冨田小一郎への謝恩会を両大臣の呼びかけで行ったときには、作家の野村胡堂、言語学者の金田一京助など、冨田の教え子たちが多く集ったそうです。終戦時海軍大臣であった米内光政は、当然自分が戦犯として米軍に連行されるものと考えて、巣鴨プリズンへの収監に備えていましたが、結局米内は容疑者には指定されませんでした。それどころか、GHQから引き続き海軍大臣にとどまってくれと言われました。GHQは「米内提督については生い立ちからすべて調査した。体を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と言ったそうです。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、東久邇宮内閣、幣原内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めました。幣原内閣の組閣時には健康不安から辞意を固めていたにもかかわらず、GHQの意向で留任しました。米国タイム誌は海軍大臣のとき(1937年)と総理のとき(1940年)の二度にわたって米内の特集記事を組んでおり、タイム誌の表紙を日本人が飾ったのは現在に至るまで38回、特定の人物では36回29人でありますが、そのうち一人で複数回登場しているのは昭和天皇の6回と近衛文麿、米内光政の2回であり、米内に対する米国の破格の関心が窺えます。なお陸軍大将・板垣征四郎もタイム誌の表紙を飾ったのは重要人物とみなされていた証拠ですが、板垣征四郎はA級戦犯として死刑に処せられました。東條英機内閣は、大東亜戦争を「アジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものである」と規定しました。我が先輩達の運命は分かれましたが、志は多とするものであります。


首相のときの米内光政

板垣征四郎

(2013年5月12日)


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