航空機事故
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今回は久々の力作である。筆者は大学を卒業して会社へ就職後、ずいぶん長い間飛行機に乗らなかった。避けていたのである。九州出張にも16時台に東京駅を発つ夜行特急寝台列車、さくらだったか富士だったかで行き、物好きな奴だと言われたものであったが、それには理由があった。 |
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■日航ジャンボ機墜落事故
「上を向いて歩こう」の坂本 九が亡くなってからもう20年以上経つ。1985年8月12日午後6時27分羽田から大阪国際空港に向かったJAL123便ボーイング747SR機が午後7時前赤城山系御巣鷹の尾根(高天原山)に墜落。死者520名、日本航空史上、そして世界でも民間人死者数最多の大惨事になった。この事故原因は圧力隔壁の損傷であり、1978年6月2日午後3時頃同機が大阪空港に着陸の際機体後部を滑走路にぶつけるしりもち事故を起こし、この時のボーイング社の修理不良がその後の御巣鷹の尾根墜落事故の原因とされている。相模湾上空を巡航高度の24,000ft(7,200m)へ向け上昇中、23,900ft(7,170m)を通過したところで異常事態が発生する。突然爆発音が響き渡り、123便は垂直尾翼の2/3を失う。操縦は困難を極め、機体は迷走を続けて上昇、降下を繰り返し、17分間もダッチロール飛行を続けた。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルト着用、タバコを消すなど非常時の対応を行った。また一部座席では着水に備え、救命胴衣の着用なども行われた。機内は事故直後から墜落まで、さほど混乱に陥ることはなく、みな落ち着いて行動していた。その後、乗客は「安全の姿勢」をとって、衝撃に備えることになる。同機には歌手の坂本九や元宝塚歌劇団娘役で女優の北原遥子、21年ぶりのリーグ優勝を目前にした阪神タイガースの中埜肇球団社長、ハウス食品の浦上郁夫社長、伊勢ヶ浜親方(元大関・清國)の妻子をはじめとする著名人などが多く乗り合わせていた。亡くなった坂本九は本来、事故の多い日航を避け国内移動には必ず全日空を使っていたが、この日の搭乗目的は大阪での選挙応援であったため、チケットやホテルの手配などはすべて招待する側が担当、同時刻の全日空便が満席でチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日航123便であったという。運が悪かったとしか言いようが無い。一方で本来同機に乗るはずで乗らなかったため難を免れた人たちもいる。元宝塚歌劇団雪組の麻実れいは車が遅れたために搭乗に間に合わず、タレントの明石家さんまは、搭乗する便を123便より一本早くしたため、またフジテレビの逸見アナ(その後1993年病没)も直前で取り消して東海道新幹線を利用したためにそれぞれ奇跡的に事故から免れた。塞翁の馬(つぶやき172断腸の思い参照)である。
■奇跡の生還は全員女性
客室内の詳しい様子などがわかっているのは4名が奇跡的に生存できたからだ。助かったのは全員女性で、当時中学1年生の川上慶子さん、吉崎博子さん(当時35)、美紀子さん(同8)母子、非番で乗り合わせた日航アシスタントパーサーの落合由美さん(同26)の4人だけだった。彼女らの居た客室後部はそれ以外の部位と比較して衝撃の度合いが軽く、また炎上を免れたために生存できたと言われている。生存者の救出につながったのは自衛隊第一空挺団の独自出動(政府の命令なしに独自の判断で出動)だが、空挺団指令は「謀反の可能性あり」とその後左遷されたそうだ。ひどい話のようだが、政府の命令を待たなければクーデターと同じだから仕方ない。米軍も自衛隊も早期に墜落場所を特定したと言われているが、夜のため陸上自衛隊や消防が救出に向ったのは翌朝だった。生存者の証言では墜落直後はたくさんの方が生きていて、ヘリコプターの音に「助かった」と思いながらやがてその音は遠ざかり、次第に生存者の声が聞かれなくなっていったという。悲しい話だ。
■本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している
筆者が胸を打たれて当時の新聞からメモして財布の中に入れていたのは大阪商船三井船舶の神戸支店長だった河口博次さん(当時52)の手帳に書いた遺書である。自分もこの場面では同じように遺書をしたためたのではないかとの共感があった。危機的場面で、「書くこと」に執着するというのは、普段からの習慣なくして有り得ない。特に最後のフレーズが感動を呼ぶ。自分がもう助かるまいと思いつつ、感謝の念を綴る気概・・・
■日本国内の航空機事故
日本国内で発生した死者の多かった航空機事故は
●1966年2月4日夜7時01分千歳から羽田に向かった全日空ボーイング727型機が羽田空港着陸直前に東京湾に墜落。原因不明。死者133名
●1966年3月4日午後8時14分カナダ太平洋航空のDC‐8型機が羽田空港に着陸失敗。大破炎上。死者64名
●1966年3月5日午後2時頃羽田を発ち香港に向かった英国海外航空のB‐707型機が富士山付近で乱気流に巻き込まれ空中分解。死者124名
●1966年11月13日午後8時30分ANA533便YS-11が松山空港沖合で着陸に失敗墜落。死者50名
●1971年7月3日午後6時過ぎTDA東亜国内航空丘珠発函館行63便YS-11「ばんだい号」が函館の横津岳に衝突。死者68名
●1971年7月30日午後2時04分千歳空港から羽田に向かう途中の全日空B‐727型機が岩手県雫石町上空28,000ft(約8,500メートル)で自衛隊機に空中衝突。乗客155名と乗員7名の計162名全員死亡。自衛隊機の乗員は脱出して無事であった。
●1982年2月9日JAL福岡発DC-8機が機長の逆噴射により滑走路南の東京湾上に突入。死者24名。このときは出張日程表によると会社の同僚が同機に乗っていたはず、社内は大騒ぎになったが後刻当人から電話があり、無事を確認。なんと、仕事がうまく終わった打ち上げで飲み過ぎて寝坊し乗り遅れたそうだ。何が幸いするかわからない。塞翁の馬である。
●1985年8月12日午後7時前、羽田から大阪国際空港に向かったJAL123便ボーイング747SR機が赤城山系御巣鷹の尾根(高天原山)に墜落。死者520名
●1994年4月26日午後8時16分名古屋空港の滑走路南側で、台北発の中華航空140便のエアバス(A300型双発)ジェット旅客機が着陸に失敗、炎上。死者264名
こうして見てくると1966年と1971年に大型事故が続き、しかも連鎖的に発生している。最近は大事故が10年以上起きていない。
■雫石全日空機衝突事故
さて冒頭の「社会人となってからずいぶん長い間飛行機に乗らなかった理由」であるが、1971年7月30日の雫石町上空での全日空B‐727型機が自衛隊機に空中衝突した事故のせいである。実はこの日筆者は大学生活最後の夏休み、内定していた会社より8月1日から入社前アルバイト研修に来ないかと言われ、翌日上京することになっていたので、その前に友人と二人で雫石町西安庭(あにわ)の雫石川の支流で「ヤス」(標準語では銛と言うのか?)を使って魚を突くために潜っていた。突然轟音がして友人から引っ張られ、何事かと思ったら上を指差している。見上げたらなんと真上で何かが爆発したらしい。慌てて川岸に走り、バイクに飛び乗った。このときなぜか「ヤス」はしっかりバイクにくくりつけた。ときおり振り返りながら必死に遠くへ逃げた。ものの数分ぐらいだろう、どうやらこっちへは落ちて来ないとわかり、バイクを止めて見ていた。最初は煙と共に黒い塊が落ちてきて、次に木の葉落としに落ちてきたものは後から考えると翼だろう。その後青空にキラキラと輝きながらゆっくりと大量のモノが落ちてきた。上空にはパラシュートが開き、自衛隊の戦闘機がグルグルと輪を描いて旋回している。規模から考えて戦闘機の爆発ではない。おそらく大型の輸送機だろうと思った。パラシュートが開いているからパイロットは無事だったのだろう・・・。どのくらい空を眺めていただろうか?15分か、25分か?何が落ちたのか見てみようとバイクにまたがり繋温泉方面へ向った。この辺りだという沢でバイクを置いて林道を歩いて分け入った。しばらく行って傾斜が急勾配になったところで異様な光景を眼にすることになった。急斜面に植林された木々が鬱蒼と生えている地帯、したがって地面は落ち葉の堆積で柔らかい。人は頭から落ちるものだということがよくわかった。とてもここで赤裸々に掲載したくない凄惨な有様、地獄絵図であり、吐き気をもよおした。落ちているモノから旅客機の残骸だとわかった。
■テレビインタビューを受ける
しばらく放心状態で、これ以上進みたくない気持ちで引き返した。再びバイクに乗り安庭方面へ戻った。途中、赤い消防車(消防署のではなく、自警団の)がサイレンを鳴らしてやってきた。続いてカーキ色の自衛隊のジープやトラックなどがものすごい台数、猛スピードで土煙を上げながらやってきた。マスコミの車も続々やってきた。パトカーは一番遅かったようだ。事件というより事故だからだろう。普段あまり車の通らない無舗装の田舎道が突然の車ラッシュとなり、物珍しさに路辺にバイクを止めてしばらく見ていた。やがて車列が反対方向に戻ってきてその中のTV局のマークの付いた車から降りてきた人が「事故の模様は見ましたか?」というので、「その瞬間は見ていないけど直後からずっと見ていて墜落現場にも行って来ましたよ」と言うと、腕を引っ張られ是非インタビューさせてくれと言う。遺体の保管場所となった安庭小学校(現在は御所中学校)の体育館に近い校庭の片隅に置かれた中継車の前で女性アナウンサーがインタビューするので答えてくれと言う。それなら着替えて来ると言うと、いや、そのままの格好のほうがリアルだからそのままで、と言う。仕方なく黄色いタオル地のアロハに海パン、麦わら帽子、サンダルを履いて、右手に「ヤス」の格好で日本テレビの系列局のインタビューに答えた。なんでも岩名目沢にいた木こりのおじさんが第一目撃者で我々が第二目撃者とのことだった。夜になって宮古市の親戚から電話があった。テレビに出るならもっとマシな格好で出ろ、あれではまるでアフリカで狩をしている現地人みたいじゃないか、と。確かに日焼けで真っ黒で眼玉が白く浮き立ち、着ているものが黄色だから危険標識みたいではあったかもしれぬ(^-^)
■全日空機が自衛隊戦闘機に追突
この事故の詳細は・・・「全日空58便が、訓練空域を逸脱した航空自衛隊松島基地(宮城県)所属のF-86F戦闘機に衝突し墜落した」とされた。その後の刑事裁判では、双方に見張り不足があったが、自衛隊機側の責任がより重かったと判断された。スピードの速い戦闘機がなぜ追突されたかと言うと、訓練中で教官の隈太茂津一尉が予告なしに左右の急旋回を繰り返し、後方上空を飛行している訓練生の二曹が、等間隔でついていくという訓練をしていたからだという。隈一尉は記者会見で「空域をいちいち気にしていたら訓練にならない」と発言して世論の反発を招いた。フライトレコーダによると、自衛隊機より時速70キロ速く飛んでいた全日空機が、自衛隊機に衝突した格好となった。衝突された訓練機は、背面飛行となりながらパイロットは奇跡的に脱出できた。全日空機は、衝突後まっすぐに飛行していたかに見えたが、次の瞬間、機体がバラバラになり紙くずが舞うように墜落して行ったという(注:筆者は衝突の瞬間には水中にいたので見ていない)。
■実は自衛隊訓練空域に入り込んだ全日空機
その後の裁判の中で、全日空機は本来の民間空路から逸脱していた可能性が出てきた。第一審の盛岡地裁でも「全日空機は管制官から承認されていたルートから西へ12キロ外れて、自衛隊の訓練空域を飛んでいた」という鑑定もでた。民間空路は24,000ftを上限にしており、自衛隊の訓練空域は更にその上の高度が決められている。全日空機と自衛隊機が衝突したのは28,000ftであったから、全日空機が自衛隊の訓練空域に入っていたことになる。全日空機の乗客が8ミリカメラで機外の景色を撮影しており、このフィルムには雫石から奥羽山脈を隔ててすぐ隣の「田沢湖」が写っていて、これが見えるという位置、高度から考えると全日空機がコースを外れ自衛隊の空域に入っていたというようにも考えられる。しかし、その後最高裁は、自衛隊機側に「全日空機の操縦者の過失の有無にかかわらず、被告(隅太茂津)には見張り義務違反の過失があった」として、禁錮3年執行猶予3年の判決を下した。国を護ることを主務とする自衛隊の誇りにかけて最高裁まで争った裁判だったが、高速で小回りの効く自衛隊機が大型旅客機に気付いて回避すべきだったというのは妥当な判決であろう。
■雫石町と富士市の交流続く
墜落した雫石町岩名目沢付近は今「慰霊の森」になっている。筆者が魚を突いていた場所から1kmも離れていない。筆者の伯父さんが一部の地主であり、慰霊の森にするために同意書にサインしたと言っていた。現在は慰霊の森入り口まで道路ができて、345メートル、550段の登り階段が頂上まで続き、その頂上には犠牲になった方々が永遠に安らかに眠らんことを祈念して碑や記念ホールなどが建立されている→写真。乗客155人のうち125人が静岡県富士市民(吉原遺族会の北海道旅行)であったことから現在に至るも雫石町と富士市の小学生相互交流が続いている。
■評判悪くても日航だ
なお筆者はその後飛行機を解禁したが、いまだに全日空は避けている。JALは最近評判よろしくないが、それでもJALだ。御巣鷹の現場は見ていないが、雫石町岩名目沢は見たから・・・・、恐ろしい記憶である。
(2006年7月23日)