478  あれから1年

 早いもので、2011年3月11日から1年が経った。あの日は金曜日だった。翌日、「災害事例研究会」の定例会が東大で行われるはずだったが、3月12日(土)に岩手県雫石町の鶯宿温泉「ニュー鶯山荘」で中学校の同級会が行われるので、「災害事例研究会」は欠席すると連絡して、ボストンバッグを持って出社した。終業後「はやて」で盛岡に向かう予定だった。しかし14時46分、あのすさまじい揺れが・・・二度にわたり、すごく長い揺れが来て、会社の建物が潰れるのではないかと思うほどの強烈な揺れだった。この日は帰宅難民も出たが、会社の車で、特段の支障も無く帰宅できた。なんと、埼玉県戸田市の会社の被害に比べ、ふじみ野市の我が家は落ちたものも無く、何事も無かったような有様で、すぐ近くなのに、地盤の差でこれほどまでに違うことを実感した。
 心臓冠動脈のバイパス手術を受けて療養中の天皇陛下(78歳)が、3月11日に東京で行われる東日本大震災の追悼式に、皇后さまとともに出席されると発表された。退院後、初めての公務となるが、3.11に対する天皇陛下の並々ならぬ想いが感じられる。式で両陛下は、震災が起きた14時46分に亡くなった人々へ黙とうし、天皇陛下がお言葉を述べて退席される。
 筆者も中野サンプラザで行われるメモリアルセレモニーに出席して、黙とうする。


天皇陛下


本社(埼玉県戸田市)の状況

2F入口の状況…パーテーションも植木も倒れた 2F事務フロア
3F書棚も倒れた 3F応接室の額縁も
3F応接室の空気清浄機上の植木鉢が落ちた 3F応接室のテレビが落ちた


■仙台、東松島市の状況
 仙台市宮城野区高砂の母の介護施設に近い七北田川を上る津波の写真と、JR仙石線の車両が東名駅・野蒜駅間で津波に流されて脱線した写真。

大地震で七北田川を逆流する津波=11日午後5時40分ごろ、
仙台市宮城野区の高砂大橋付近(河北新報より
東松島市の野蒜小学校に近い仙石線の脱線現場
仙石線は東西に走り、この写真の右側が北、左側が南で奥松島方向


■岩手県宮古市港町と鍬ヶ崎の状況
 母の生家は宮古市鍬ヶ崎下町である。そこにはナント!観光船が鎮座ましましていた。そこからちょっとだけ港寄りの港町にあった船大工と船鍛冶の従兄弟の家々も流されて、今は仮設住宅住まいである。高浜の従姉の家も津波で破壊されて、藤原に所有していた貸家を修理して住んでいる。

観光船の左奥に残った菱屋酒造店の土蔵と醸造所が見える 船鍛冶のいとこ宅の機械とコンクリート基礎は重いので残っていた
流されてきた家1軒分ぐらいの防波堤コンクリートブロック(ケーソン) 船大工の従兄宅を眺める船鍛冶のいとこ、自衛隊が片付けて道路確保
中央奥が浄土ヶ浜大橋。この橋の上から手前を見ると右写真 浄土ヶ浜大橋から港町を望む、中央左に観光船、手前は心光院
蛸の浜は海水浴場でもある。防波堤が崩れている。左手前のコンクリートの
巨大塊が流され、左奥に見える日出島が津波で完全水没したそうだ
浄土ヶ浜大橋から見下ろした蛸の浜。日和見橋の橋桁が落下している
写真上部のトンネルを潜ると浄土ヶ浜、地上の楽園である

鍬ヶ崎地区の「ケーソンヤード」の部分:○印の辺りが港町で、ここに波が集中し、右方向に走った

■津波対策のヒントが・・・
 宮古市新川町の閉伊川沿いに道路が走り、それに面して宮古市役所があって、1階は水没したが、この閉伊川沿いの防潮塀と言うべき、厚さ20cmもない高さ3mほどの構造物が壊れていないことは、津波の持つ性質を如実に示すものである。右写真をご覧あれ。これは宮古市広報に載ったもので、宮古市役所の上の階から撮影したものと思われる。上の写真は15時18分、地震発生から32分後だ。閉伊川の川底が見えるほど波が引いて、左上の防潮塀の川側の岸壁と船の位置関係から、明らかに引き潮が見てとれる。完全に津波の予兆だ。地震発生3分後には岩手県に大津波警報が発令されたので、直ちに避難指示発報し、宮古地域93ヶ所、田老地域18ヶ所の水ひ門閉鎖が指令された。消防車が避難呼び掛けで走っている。
 津波第1波は、地震の2分後で20cmだった。下の写真は15時25分、上の写真から7分後だ。波は堰を切ったように防潮塀を越え、市街地へ溢れ込んだ。この1分後には8.5m以上の最大波が押し寄せた。宮古市の『広報みやこ』には「
真黒に染まった波はみるみるうちに水位を上げ、ごう音とともに市街地へと流れ込んだ」と書いてある。宮古の津波遡上高は、田老小堀内地区で37.9m(東大地震研究所発表)、重茂姉吉地区で38.9m(記録史上最高値・東京海洋大学発表)である。
 壊れなかった防潮塀は閉伊川沿いに遡った津波にまともに対抗した構造物ではなく、並行していて、しかも鉄筋コンクリート造りで、くいが打ち込まれていたから持ち堪えたと考えられる。この場所は上の写真で「
みなとオアシス シートピアなあど」という四角塗り潰し白字枠の右上角近辺である。
 宮城県の南三陸町でもそうだったが、鉄筋コンクリート造りの構造物で、地中に杭を打って建てられたものは津波に耐えて原型を留めたが、鉄骨スレート造りは柱だけ残して中身は皆流された。したがって鉄筋コンクリート造りの建物の上の階にいた人は助かった。巨大なコンクリート造りのケーソンでさえゴロンゴロンと運ぶ津波に、地中に杭を打ってその上に建てた鉄筋コンクリート建造物が耐えられたというところに、今後の津波対策の大きなヒントがある。


■石巻市の状況
 石巻生まれの社員と共に営業車で走ってみた。シックハウス対策の研究で恒温室を2室納入している日本一の合板メーカー:セイホクさんも被災した。石巻ナンバー1の大工場は日本製紙であるが、工場のプラントの鉄骨がひんまがり、津波の恐ろしさを目の当たりにした。住宅地は、家が残っていても、1階はメチャメチャ、宮古市の瓦礫の山もすごかったが、石巻は平地が広いだけに、被災のスケールが違う。ただただ、息を呑む有様であった。瓦礫の山ができており、地盤沈下で道路に水が溜まっている。幼稚園バスが巻き込まれた現場に飾られたたくさんの花が悲しかった。まだまだ復興のレベルではない。1年経ってもまだ片付けただけ、さあこれからどうするかという段階である。

日和山から見下ろした北上川、右がすぐ河口


■その他各地の状況


岩手県宮守町の看板

南三陸町 防災庁舎と日の丸

復興屋台村・気仙沼横町です。気仙沼の海のすぐ近くにあります

石巻やきそば!仙台牛タン!山形風いも煮!B級グルメの気仙沼ホルモン!

復興作業開始初日

石巻にボランティアで来てくれたみんなです。みんなほんとにありがとう!!


(2012年3月11日)

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