439  南部馬

 毎年6月第2土曜日は『チャグチャグ馬コ』の日だ。昭和53年に国の無形民俗文化財に選定、平成8年には、馬の鈴の音が環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に選定されている。90頭ほどの馬が、岩手県滝沢村(人口53,896人の、日本一人口の多い村)の蒼前神社から盛岡市の八幡宮まで15kmの道のりを馬と人が行進するお祭である。馬のあでやかな飾り付けとたくさんの鈴が特徴で、歩くたびにチャグチャグと鳴る鈴の音が名称の由来といわれている。馬の飾りは、大名行列に使われた「小荷駄装束」に端を発するといわれ、色とりどりの装束に身を包んだ馬が行進する様子は圧巻で、沿道にはたくさんの見物人が訪れる。このように馬を飾り付けるのは愛馬精神の顕れであろう。もともと旧暦の5月5日に行われていたが、農繁期と重なるため、昭和33年から新暦の6月15日とされた。平成13年からは、6月の第2土曜日に開催されることとなり、この日は大学の電気電子情報科会という同窓会の総会が盛岡で行われるため、ほぼ毎年盛岡に行っている。
国の無形民俗文化財、日本の音風景百選『チャグチャグ馬コ』が盛岡駅前を通過
2011年6月11日12時45分筆者撮影
この日は特に大震災復興応援JR東日本パス(1日乗り放題1万円)初日のため、新幹線も満席だった。フツウなら仙台でかなり降りて空席が目立つようになるのに、この日は盛岡までどの車両も満席で、立ち席の人もいた。さてチャグチャグ馬コ由来のむかし話について紹介した289『昔話』(2008年7月27日)をご覧あれ。

■馬産地岩手の祭り

 岩手県は、古くから馬産地として知られている。江戸時代以前は、主として軍馬や騎馬として使われていたが、寛政年間(1789年頃)から農耕用として農民が家族同様の愛情を注いで飼うようになり、人と馬がひとつ屋根の下で暮らす南部曲り家が造られた。こうした愛馬精神から自然に生まれたのが馬の神をまつる「駒形(蒼前)神社」である。かつて蒼前神社の縁日は、端午の節句(旧暦5月5日)に開かれていた。この時期は田植え前の重労働が続くので、この日だけは仕事を休み、神社の境内で1日を過ごすという風習が生まれた。段々と地球温暖化や稲の品種改良により、旧暦5月5日が田植えの最盛期とかち合うようになり、昭和33年からは新暦6月15日に変更された。多くの方々に見てもらえるようにと平成13年から6月の第2土曜日に開催日が変更された。
 同窓会総会の行われた岩手労働福祉会館の隣にチャグチャグ馬コの鞍や鈴などを供給する塩釜馬具店(盛岡市大沢川原2-2-32)がある。創業90年、熊よけ鈴は全国でも人気で、東北唯一の馬具店である。その古めかしいたたずまいは、一見の価値がある。

滝沢村蒼前神社〜盛岡市八幡神社(盛岡セイコー工業様のホームページより)
後方の森の奥に、うっすらと見える稜線が「南部片富士」と称される美しい岩手山


■南部曲り家


岩手県滝沢村の南部曲り家

 在京盛岡広域産業人会は、会員相互の親睦と郷土の産業振興に寄与することを目的に、現在首都圏を中心に約160人の会員がいる。まずは現状把握しなければと、2010年に2度の盛岡広域8市町村(盛岡市、八幡平市、雫石町、葛巻町、岩手町、滝沢村、紫波町、矢巾町)視察を行い、その一環で2010年10月8日(金)、滝沢村の南部曲り家を訪れたときの写真が左である(→クリック)。このときは、翌9日(土)、矢巾町の佐々木家住宅も訪れた。南部曲り家は、農耕用の馬と人が同じ屋根の下で暮らした家だ。盛岡広域の地域では、南部曲り家は、保存したい地域の誇りであり、どの市町村も必ず保存している。いかに馬を愛し、大切にしてきたかがこの家の構造を見ればわかる。筆者がさくら肉を食べないのはこうした理由からだ。馬は肉を食べるものではなく、家族なのである。馬刺しと言えば圧倒的に有名なのが熊本であるが、これは加藤清正が、文禄・慶長の役当時、補給線を断たれ食料が底をついて、やむを得ず軍馬を食したのに始まり、領地である肥後国(熊本県)に広めたという俗説がある。山梨県の大月や長野県、福島県(会津地方)、山形県、青森県などで食すが、盛岡広域では食べない。

 写真の右側が馬の居住スペース、左側が人間の住むスペース、その間のL字の要部分は土間となっていて、ここで冬などは縄をなったり、餅をついたりという作業をした。茅葺屋根の改修には今や近隣に職人が居らず、青森のほうから来てもらう。この家の屋根の改修には4千万円ほどかかるそうだが、滝沢村観光協会の藤倉会長が実際にお住まいであり、自ら案内して説明してくれた。

■戸の由来

 青森県は弘前、津軽、南部とあるが、青森県南部地方には馬の牧場が多く、町名の「戸(五戸、七戸等)」の起源ともいわれている。三戸郡五戸町博労町という地名があるぐらいだが、ここには「馬肉料理 尾形」という店があり、五戸町の尾形精肉店は五戸町と六戸町に自営農場を有し、馬を飼育している。折角だから「戸の由来」について解説しよう。戸の付く地名で最も有名なのは青森県八戸市であり、四戸というのは見当たらない。岩手県一戸町から、二戸市、青森県に入って三戸町・五戸町・六戸町・七戸町と北上し、東に折れて南下し青森県八戸市、ふたたび岩手県に入って九戸村へとつながり、時計回りに順番に、きれいに配列されているように見える。この一帯は江戸時代に南部藩=盛岡藩の領地で、そのうち主に糠部(ぬかのぶ)と呼ばれた地域だった。糠部郡は日本最大の郡域だった。郡の設置は12世紀半ばに平泉の奥州藤原氏によって行われたとされている。この地方の特産品は馬で、貢馬(くめ)といって年貢として納められていた。「戸」は、この馬の管理、貢馬のための行政組織だったようだ。岩手県の二戸市、二戸郡、九戸郡、青森県の上北郡、三戸郡、八戸市、三沢市、十和田市にわたる広大な地域を官営牧場とし、九つに区画して運営していた。源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしたのち、牧場政策の必要性などから糠部郡を置き、多くの御家人を地頭に任命した。その一人である南部光行は、馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、牧場経営に手腕を発揮した。甲斐源氏の南部光行は、南部郷(現・山梨県南巨摩郡南部町)を領していたが、頼朝の平泉攻めに従軍、藤原泰衡軍との合戦に功を立て、その功によって陸奥国糠部五郡の土地を給され、建久2年(1191年)末に家臣数十人とともに入国したと、家伝では伝えられている。南部氏は糠部郡を九つの部(へ=戸)に分け、一戸ごとに七つの村と一つの牧場を置き、九戸を東・西・南・北の四つの門に分属させた。これを九戸四門の制と呼ぶ。南部氏は南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばし、はじめは三戸(現在の青森県三戸郡三戸町)に居城を構えていたが、豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を鎮圧、九戸城を福岡城(岩手県二戸市) と改め移転した。さらに前田利家らの仲介により豊臣秀吉から閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配も認められると、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなったため、本拠地を盛岡に移した。すなわち南部氏はもともと八戸地方から発し、後に盛岡のほうに移ってきた(戦って領地を拡大した)のである。四戸というのは無いように見えるが、実は市町村名には無いが、三戸の東方、南部町上名久井地区には四戸という姓の家が多く、四戸煎餅店という店もある。かつては四戸はしっかり存在していたのであろう。

■南部煎餅と二戸市
 一戸から九戸地域は馬肉を食べ、盛岡広域では食べない、ということだろうか?すなわち盛岡広域は独特の南部曲り家文化を育んだのであり、元祖南部人は馬を食べるのではないかと想像する。ちなみに筆者の妻の父方の祖父は、福岡字城ノ外(現在の二戸市福岡)の馬喰であった。豊かな家だったそうだ。二戸市の中心地は福岡であり、市役所や裁判所など官庁はみな福岡に集中している。福岡中学校や福岡高校など、岩手県でも名門と言われる学校がある。九戸城跡がある。岩手県葛巻町袖山高原から約1km先に源流がある馬淵川は、岩手県内第2の河川であるが、青森県八戸港に注ぐまで、延長は142km。すなわち東北最長、日本でも4番目の延長249kmの北上川が岩手県岩手郡岩手町の弓弭の泉(ゆはずのいずみ)に源を発し、岩手県を南下して宮城県石巻市に注ぐのに対して、逆に北上する川である。南下する川が北上川とは面白い。この馬淵川に沿って国道4号線とIGRいわて銀河鉄道が走る。そして二戸市で馬淵川はクネクネと蛇行する。二戸駅は昔は北福岡駅という名前だった。九州の福岡、埼玉県の上福岡、岩手の北福岡と区別していた。この駅のやや南に馬仙峡という絶景の地がある。駅前には石切所という地名が有り、南部煎餅で有名だ。南部煎餅と言えば、盛岡の白沢煎餅店が抜群だと筆者は思うが、一関の佐々木製菓や生産量日本一の二戸市石切所の小松製菓志賀煎餅など有名な店がある。八戸のB級グルメせんべい汁も南部煎餅である。筆者の後輩が取締役を勤める東証1部上場の澤藤電機は、創業者が岩手の二戸市出身で、澤藤忠蔵と言う人である。二戸市出身の有名人と言えば、東京大学卒の物理学者で、日本式ローマ字の創始者でもある田中館愛橘(たなかだて あいきつ)や、日本万博公式ポスター制作のグラフィックデザイナー福田繁雄がいる。

■馬力を農作業、運搬に利用した

 下は曲り家内の馬車

 馬力という言葉があるように、馬というのはすごい力、すなわち馬鹿力があるから、春の田起こし、いろいろな材料や収穫物を馬車で運搬したり、農作業の無い冬には、山から燃料にする木材を馬橇で運ぶなど、内燃機関の無い時代には大変活躍した。ちなみに何故この地方で冬に薪用の木を山から切り出したかと言えば@冬は農作業ができないからA冬は木や草が枯れて、木を運び出しやすいB山の斜面に雪が積もり、切って枝を落とした丸太を滑り落とせる、すなわち冬の男の仕事としては絶好の作業であった。ちなみにこうして切り出した丸太を馬橇で運び、ノコギリで短尺に切って、マサカリで割り、これを家の軒下に、隙間無く積み上げて乾燥し、翌年の燃料とした。

曲り家内の馬そり


■女にもてた馬喰
 運搬や農作業に、馬の無い家では馬を借りた。今のレンタカーが当時はレンタホースだったんだネ(^_^) すなわち馬を飼っている家にとっては貴重な収入源でもあった。したがって馬というのは資産でもあり、馬を担保にお金も借りられたから、馬というのはとても大事なものだった。それ故家族同様に同じ屋根の下で暮らしたのである。馬を売買するのは立派な職業であった。牛馬などの家畜商を業とする人物のことを馬喰(博労、伯楽とも書く);ばくろと言った。発音としては「バクロウ」と聞こえた。力の強い牛馬を扱うため、カウボーイのような面があり、また高価な商品だけに売買には卓越した交渉力が必要だった。だから、馬喰というのは、金を持っていて、口がうまく、力も強い、どうしても女にもてるため、遊び人のように見える一面もあったように記憶している。馬喰と言えば、東京の人たちは馬喰横山を思い浮かべるだろう。筆者は「湯浅商事のある街」と思うが、コチラのホームページには「日本橋横山町・馬喰町の新道通りは、日本最大の現金問屋街です。常に最新の情報と商品に溢れています。今の日本でどんどん減っている、信頼できる店と信用できる品物が、ここにはあります。この道一筋の「目利き」店主たちが、寄ってたかってあなたのお仕入れをお手伝いします。どうか一度足を運んでみてください。決して損はさせません」と書いてある。


岩手県人の集い
 2011年6月5日(土)東京で開催された岩手県人連合会主催の集いは大変な人出だった。大船渡出身の新沼謙治が歌ったせいもあるが、大震災復興への応援の意味もあったか。


壇上左が瀬川県人連合会長、右端藤井岩手大学長、3人目達増知事

高校同窓スナップ、滝沢村に家がある主浜了参議院議員は1年後輩

(2011年6月12日)

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