439 南部馬
■戸の由来 青森県は弘前、津軽、南部とあるが、青森県南部地方には馬の牧場が多く、町名の「戸(五戸、七戸等)」の起源ともいわれている。三戸郡五戸町博労町という地名があるぐらいだが、ここには「馬肉料理 尾形」という店があり、五戸町の尾形精肉店は五戸町と六戸町に自営農場を有し、馬を飼育している。折角だから「戸の由来」について解説しよう。戸の付く地名で最も有名なのは青森県八戸市であり、四戸というのは見当たらない。岩手県一戸町から、二戸市、青森県に入って三戸町・五戸町・六戸町・七戸町と北上し、東に折れて南下し青森県八戸市、ふたたび岩手県に入って九戸村へとつながり、時計回りに順番に、きれいに配列されているように見える。この一帯は江戸時代に南部藩=盛岡藩の領地で、そのうち主に糠部(ぬかのぶ)と呼ばれた地域だった。糠部郡は日本最大の郡域だった。郡の設置は12世紀半ばに平泉の奥州藤原氏によって行われたとされている。この地方の特産品は馬で、貢馬(くめ)といって年貢として納められていた。「戸」は、この馬の管理、貢馬のための行政組織だったようだ。岩手県の二戸市、二戸郡、九戸郡、青森県の上北郡、三戸郡、八戸市、三沢市、十和田市にわたる広大な地域を官営牧場とし、九つに区画して運営していた。源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしたのち、牧場政策の必要性などから糠部郡を置き、多くの御家人を地頭に任命した。その一人である南部光行は、馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、牧場経営に手腕を発揮した。甲斐源氏の南部光行は、南部郷(現・山梨県南巨摩郡南部町)を領していたが、頼朝の平泉攻めに従軍、藤原泰衡軍との合戦に功を立て、その功によって陸奥国糠部五郡の土地を給され、建久2年(1191年)末に家臣数十人とともに入国したと、家伝では伝えられている。南部氏は糠部郡を九つの部(へ=戸)に分け、一戸ごとに七つの村と一つの牧場を置き、九戸を東・西・南・北の四つの門に分属させた。これを九戸四門の制と呼ぶ。南部氏は南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばし、はじめは三戸(現在の青森県三戸郡三戸町)に居城を構えていたが、豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を鎮圧、九戸城を福岡城(岩手県二戸市) と改め移転した。さらに前田利家らの仲介により豊臣秀吉から閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配も認められると、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなったため、本拠地を盛岡に移した。すなわち南部氏はもともと八戸地方から発し、後に盛岡のほうに移ってきた(戦って領地を拡大した)のである。四戸というのは無いように見えるが、実は市町村名には無いが、三戸の東方、南部町上名久井地区には四戸という姓の家が多く、四戸煎餅店という店もある。かつては四戸はしっかり存在していたのであろう。■南部煎餅と二戸市 一戸から九戸地域は馬肉を食べ、盛岡広域では食べない、ということだろうか?すなわち盛岡広域は独特の南部曲り家文化を育んだのであり、元祖南部人は馬を食べるのではないかと想像する。ちなみに筆者の妻の父方の祖父は、福岡字城ノ外(現在の二戸市福岡)の馬喰であった。豊かな家だったそうだ。二戸市の中心地は福岡であり、市役所や裁判所など官庁はみな福岡に集中している。福岡中学校や福岡高校など、岩手県でも名門と言われる学校がある。九戸城跡がある。岩手県葛巻町袖山高原から約1km先に源流がある馬淵川は、岩手県内第2の河川であるが、青森県八戸港に注ぐまで、延長は142km。すなわち東北最長、日本でも4番目の延長249kmの北上川が岩手県岩手郡岩手町の弓弭の泉(ゆはずのいずみ)に源を発し、岩手県を南下して宮城県石巻市に注ぐのに対して、逆に北上する川である。南下する川が北上川とは面白い。この馬淵川に沿って国道4号線とIGRいわて銀河鉄道が走る。そして二戸市で馬淵川はクネクネと蛇行する。二戸駅は昔は北福岡駅という名前だった。九州の福岡、埼玉県の上福岡、岩手の北福岡と区別していた。この駅のやや南に馬仙峡という絶景の地がある。駅前には石切所という地名が有り、南部煎餅で有名だ。南部煎餅と言えば、盛岡の白沢煎餅店が抜群だと筆者は思うが、一関の佐々木製菓や生産量日本一の二戸市石切所の小松製菓や志賀煎餅など有名な店がある。八戸のB級グルメせんべい汁も南部煎餅である。筆者の後輩が取締役を勤める東証1部上場の澤藤電機は、創業者が岩手の二戸市出身で、澤藤忠蔵と言う人である。二戸市出身の有名人と言えば、東京大学卒の物理学者で、日本式ローマ字の創始者でもある田中館愛橘(たなかだて あいきつ)や、日本万博公式ポスター制作のグラフィックデザイナー福田繁雄がいる。 ■馬力を農作業、運搬に利用した
(2011年6月12日) |