石川啄木本来は
筆者は高校時代、遊座昭吾先生のもとで石川啄木と宮澤賢治を研究し、校内新聞に書いた。啄木の経歴を見ると、子供の頃から神童と言われたがごとく、なにしろ信じ難いほど若くして次々と歌や詩を発表し、新聞に記事を書き、有名な文学者たちと知遇し、可愛がられた人であったようだ。高校の先輩である野村長一に俳句、短歌の手ほどきを受け、その同級生であった金田一京助には死ぬまで世話になった。国語学者として有名で、辞典の編纂でも知られる京助は金田一春彦の父であるが、後輩の啄木が上京して生活に困っていたときも、金銭面や借家のこと、妻の節子が姑(啄木の母)との同居生活で対立し盛岡の実家に帰ったときにそれを呼び戻す世話など、とにかくよく面倒を見た。啄木自身はそのように世話になっても結構ケロッとしたタイプだったようだが、それだけ憎めない面を持った好青年だったということにしておきたい。実際には金田一京助をはじめとする先輩や友人達は、彼の才能を愛したのではなかろうか。なお野村長一というのは野村胡堂というペンネームで『銭形平次捕物控』の作者として知られる。学資が続かず東大を中途退学し報知に就職してサラリーマンとしても出世したが、「あらえびす」という名前でレコード評論家としても有名であるし、その収集レコード数は膨大であった。 |