222  石川啄木本来は

 荒川の土手には今新緑の柳が風にそよいでいる。これを見るにつけ一遍のうたが心をよぎる。
   やはらかに柳あをめる
   北上の岸辺目に見ゆ
   泣けとごとくに

右は2年前の5月に盛岡駅近くで撮った写真である。石川啄木は我が母校の先輩であるが、中途退学した。夭逝した天才歌人啄木は明治19年(1886)2月20日、曹洞宗の僧侶であった石川一禎の長子として生まれ、一(はじめ)と名付けられた。1歳のとき父が渋民村(現在の盛岡市玉山区渋民)にある宝徳寺住職に転任した。宝徳寺は代々遊座家が住職を務めてきたが、石川一禎の着任によって遊座家はこの田舎寺を追われることになった。実は国際啄木学会元会長で、現在でも啄木研究の重鎮でいらっしゃる遊座昭吾先生は、筆者の妻の担任であったし、筆者の高校時代のクラブの担任であったが、生まれも育ちもこの宝徳寺なのである。


盛岡の開運橋から岩手山を望み、北上川に生える柳

 筆者は高校時代、遊座昭吾先生のもとで石川啄木と宮澤賢治を研究し、校内新聞に書いた。啄木の経歴を見ると、子供の頃から神童と言われたがごとく、なにしろ信じ難いほど若くして次々と歌や詩を発表し、新聞に記事を書き、有名な文学者たちと知遇し、可愛がられた人であったようだ。高校の先輩である野村長一に俳句、短歌の手ほどきを受け、その同級生であった金田一京助には死ぬまで世話になった。国語学者として有名で、辞典の編纂でも知られる京助は金田一春彦の父であるが、後輩の啄木が上京して生活に困っていたときも、金銭面や借家のこと、妻の節子が姑(啄木の母)との同居生活で対立し盛岡の実家に帰ったときにそれを呼び戻す世話など、とにかくよく面倒を見た。啄木自身はそのように世話になっても結構ケロッとしたタイプだったようだが、それだけ憎めない面を持った好青年だったということにしておきたい。実際には金田一京助をはじめとする先輩や友人達は、彼の才能を愛したのではなかろうか。なお野村長一というのは野村胡堂というペンネームで『銭形平次捕物控』の作者として知られる。学資が続かず東大を中途退学し報知に就職してサラリーマンとしても出世したが、「あらえびす」という名前でレコード評論家としても有名であるし、その収集レコード数は膨大であった。
 啄木は若いにもかかわらず当時の著名な作家、歌人、詩人の知己・友人を得た。その人生は短いにもかかわらず波乱万丈であった。盛岡中学を退学し上京して英語学校に通い、発病して父が迎えに来て帰郷する。岩手日報に評論を連載したり、新詩社同人となり、啄木のペンネームで雑誌『明星』へ投稿した詩で文壇で注目される存在となった。時に17歳である。再び上京し、19歳のとき13歳の頃から恋愛関係にあった才女堀合節子と結婚、父母や妹と同居して盛岡で新婚生活を送る。若いながら岩手では既に知られる存在になっていた。その後故郷の渋民村の小学校代用教員となり、長女が生まれた。21歳のとき函館の代用教員となり、函館の新聞社の記者も兼ねたが、函館大火で札幌に移り、新聞社の校正係、すぐ小樽に移って小樽日報の記者となる。内紛で同僚の野口雨情が退社した後、啄木も内紛に巻き込まれて事務長に殴られ、それがもとで退社し、釧路へ行くことになった。
   子を負ひて
   雪の吹き入る停車場に
   我見送りし妻の眉かな

なんという悲しい別れであっただろう。啄木もハンサムだったが、節子も眉のキリリと美しい女だった。それが次々と転職する夫とともに各地を転々として、ついには単身赴任を見送る破目になった。節子の眉も曇りがちになったことだろう。啄木は釧路へ行って新聞社に勤めたがここにも不満があって22歳のときまたまた東京へ。このころ後に世に知られる短歌がゾクゾクと作られ『明星』に発表された。
   たはむれに母を背負ひて
   そのあまり軽(かろ)きに泣きて
   三歩あゆまず

本人は小説家をめざしたがこれは評価されず生活は困窮を極め、金田一の援助でなんとか暮らしていた。毎日新聞に小説を連載した。『明星』の廃刊後、森鴎外や与謝野寛、晶子らが協力して文芸雑誌『スバル』を発刊することになり、創刊号の発行人は石川啄木であった。啄木、木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋らが反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載し、彼らはスバル派と呼ばれた。やっと朝日新聞の校正係として就職することができたのは23歳のとき。生活の基盤が出来て函館(節子の兄は函館駅長だった)から妻子と母を本郷の床屋の2階の住まいに呼び寄せた。
   はたらけど
   はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
   ぢつと手を見る

それでも啄木の生活は楽ではなかった。やがて父もやってきた。24歳のとき長男が誕生したが1ヶ月もしないうちに病死した。直後の1910年12月、第一歌集『一握の砂』を刊行した。1911年肺を病み、環境の良い(緑の多いということだろう)小石川に移った。翌1912年3月7日、母死去。後を追うように4月13日啄木は妻、父、友人の若山牧水にみとられて肺結核で死去。享年27歳と言われるが、享年とは一般に数えで表現する。実際には満26歳と1ヶ月の短い生涯であった。本日のつぶやきは、没後95年にして、啄木忌を機としたものである。私事であるが4月13日は義母の17回忌でもあった。
   新しき明日の来(きた)るを信ずといふ
   自分の言葉に
   嘘はなけれど -

前年にそう歌い、病に苦しみながらも明日を信じたいと願った心情が切ない。4月15日、友人土岐哀果は自ら生まれた浅草等光寺で葬儀を行い、夏目漱石も参列した。貧しい啄木一家への友等の計らいであった。これひとつを見ても啄木というひとは他人から愛される人間だったということだろう。2ヵ月後、身篭っていた妻が女児を出産。9月4日、妻は二人の遺児を連れ、函館に移っていた実家に帰ったが、翌年5月5日、節子も肺結核で病死、なんという不幸の連続であるか。
   ♪私のお墓の前で 泣かないでください
   ♪そこに私はいません 眠ってなんかいません
   ♪千の風に
   ♪千の風になって
   ♪あの大きな空を
   ♪吹きわたっています

いきなりなぜ「千の風になって」なのか?この歌を作曲した芥川賞作家新井満(みつる:敬称略)は新潟の出身である。作家であり、シンガーソングライターであり、写真家であり、CD/DVDクリエイターである多芸多才のひとであるが、この人が2007年6月2日(土)13時30分から盛岡の渋民文化会館「姫神ホール」で啄木を語り、歌う。実は「ふるさとの山に向ひて」という啄木の歌にメロディを付けてCDを3月28日新井満が発売した。このことが石川啄木記念館のホームページで紹介されている。
   ふるさとの山に向ひて
   言ふことなし
   ふるさとの山はありがたきかな

ここで言うふるさとの山の代表は岩手山と姫神山であろう。渋民から見る西の岩手山は両側がアスピーテになった富士山そっくりの山容で男性的にグッと眼前に迫り、東側の姫神山はこれまたアスピーテであるが、遠くに見えて頂上が狭くホッソリした美しい女性的な山である。この男山と女山に挟まれて育った啄木は宝徳寺で聞いた啄木鳥(きつつき)の鳴き声からペンネームをとったのではと言われている。
 ついでだが「千の風になって」について紹介しよう。新井満の幼馴染の川上さんという弁護士の妻桂子さんは新潟で様々な社会貢献活動をしていたが、ガンに侵され48歳でこの世を去った。ともに地域の社会貢献活動を担ってきた仲間たちが「千の風になって-川上桂子さんに寄せて-」という追悼文集を出すことになった。新井満はこれを見て感動し、何ヶ月もかけて原詩となる英語詩を探し出し、それを翻訳して新井満流の日本語訳詩を作り、曲を付けて歌い、数枚CDプレスしてその中の1枚を川上さんに送った。このCDが川上桂子さんを偲ぶ会で披露され、泣きながら皆で歌ったそうだ。この辺りは新井満の公式ウェブサイトに紹介されている→クリック。なおこの歌は昨年末のNHK紅白歌合戦でテノール歌手の秋川 雅史(まさふみ)が歌い、その後大ヒットとなったが、本人がテレビで語っていたところによると、この歌を歌って欲しいと要望するひとがいて歌い始めたのだそうだ。
 さて石川啄木の歌がなぜこれほどまでに愛されるか?それは貧しいながらもそれを歌った心情が我が事のように心を打つからである。今でこそ新聞関係に職を得れば給与所得者の最高クラスであるが、この時代は産業基盤が貧弱で文学者や新聞ジャーナリストを支えるに十分な時代ではなかったということだ。このころ結核は命取りの病であったが、初恋のひとを伴侶として、お互いに短い人生を岩手〜東京〜岩手〜北海道〜東京とめまぐるしく生きつつ、愛しあった二人は、多くの友人に支えられて貧しかったが幸せな人生だったと思いたい。
注) なお石川啄木の啄は本来というようにテン(丶)が付いているが、そういうフォントは出てこないので啄木と表記させていただいた
(2007年4月15日)


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