154  X'mas

 師走、忙しい時節、四国から大阪、九州、埼玉へ戻ってそれから岩手へ行き、また埼玉に戻った。12月としては異例の寒波到来で全国的に大荒れ、晴れているのは南関東だけ、下の写真をご覧あれ。新幹線のダイヤは大幅乱れ、空の便にも影響が出て、九州の高速道路は一時全面通行止め。しかし北国は大雪にもかかわらず新幹線、高速道路ともに平然と営業、やはり慣れが違う。

新大阪駅でもこの雪(2005年12月22日) 雪の盛岡駅(2005年12月24日)

 それでも12月にこれだけの大雪が降るのは久し振りのことだ。先週はホワイトクリスマスレポートをお約束、本当にそうなった。盛岡のカトリック四ッ家教会で12月24日18時から行われた「主の降誕・夜半のミサ」に行ってきた。
 12月25日はキリスト教徒にとって一番大切なお祝いの日のひとつで、今から約2千年前のイエス・キリスト誕生を祝う日である。この日がキリストの誕生日かと列席の方に聞いてみたら「それは、聖書のどの箇所にも書かれていない」とのことだった。全国のカトリック教会では12月24日夜に「主の降誕・夜半のミサ」が行われ、12月25日午前に「主の降誕ミサ」が行われる。表題の「X’mas」(クリスマス)という書き方は一般的によく使われているから採用したが、なぜこう書くか?を調べたら、Christのことをギリシャ語で「khristosu」(クリストス)と書き、その頭文字の「k」がギリシャ文字では「X」(カイ)であって、省略して「X’mas」が使われるようになったらしい。masはミサのことなので、Christmasは「キリストのミサ」を表す。神の子たちはベツレヘムで前夜祭を祝い、行列して夜明けにエルサレム到着、昼間もエルサレム中央聖堂に集まる。なぜ「イブ」から祝うのか、と言えば、初期キリスト教では一日を前日の日没から数えていたので「イブ」が珍重されたのではないかということである。
 さて「主の降誕・夜半のミサ」はまず入祭のうた「きよしこの夜」を歌って始まった。司祭である土井勝吾神父様(中村雅俊のおじさんだそうだ)の挨拶・・・司祭:『父と子と聖霊のみ名によって』 会衆:『アーメン』 司祭:『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに』 会衆:『また司祭とともに』 そして自分たちの犯した罪を認め、反省し、告白する。全能の神が私たちをあわれみ、罪を許し、永遠のいのちに導いてくださいますように祈る。ここで「あわれみの賛歌」、「栄光の賛歌」を歌う。「集会祈願」〜イザヤの預言:ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。「答唱詩編」〜使徒パウロのテトスへの手紙:すべての人々に神の恵みが現れた。ここでアレルヤ唱。さてポイントの「ルカによる福音」の朗読があった。
 2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
 2:2 これは、クレニオがシリアの総督であったときの最初の住民登録である。
 2:3 人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に旅立った。
 2:4 ヨセフもダビデの家系であり血筋でもあったので、ガリラアの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
 2:5 身ごもっていたいいなずけの妻マリアといっしょに登録するためである。
 2:6 ところがベツレヘムの町は、住民登録で町にやってきた人たちでごった返していて、母マリアはここで出産することになった。
 2:7 マリアは初めての男子を産んだ。布にくるんで、飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 2:8 さて、この土地で羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
 2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
 2:10 天使は彼らに言った。「恐れるな。今、わたしはこの民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
 2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これが、あなたがたへのしるしである」。
 2:13 すると、たちまち、その天使といっしょに、天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地上には平和が、御心にかなう人々にあるように」。

 ここで神父様の説教があった。印象的であったのは、「心の貧しい人は幸いである」ということ。最近、構造計算書の偽造とか株屋さんが一瞬にして四百億円損したという事件が起きた。いやなことだが、損した人がいるということは儲けた人がいるということだ。わたしはずるいことはするなと教えられて育ってきたが、このことは少なくともきれいなことではない。心が貧しければ神の助けにすがるしかない、だから幸いなのだと。ひとはいくらでもごまかすことができるが仕事はごまかせない。列席の皆様の中には出世した人がいるだろう。それは力があって偉くなったわけではなく、単に運が良かっただけのことなのだ。ひとは他人に助けられている。他人の幸せのために働き、その喜ぶ姿を見てまた働くならば、無限の幸せがそのひとの周りに続くだろう、という趣旨であった。

 続いて「信仰宣言」〜「共同祈願」、奉納の歌:「まきびと」を歌う。信者代表がパンとぶどう酒を奉納し、献金箱が回された。「奉納祈願」叙唱、「感謝の賛歌」、第二奉献文、記念唱、栄唱、主の祈り、「平和の賛歌」と続いて行く。この日洗礼を受けた方が多くいた。
「聖体拝領」では洗礼を受けた方が御聖体を頂くことができ、洗礼を受けていない方は神父様から祝福を頂ける。「拝領の歌」:「来たれ友よ」を歌い、「拝領祈願」〜祝福の派遣、閉祭の挨拶があり、最後に「閉祭の歌」:「もろびとこぞりて」を歌ってミサは終わった。
さてミサの中で行われるクリスマスキャンドルはどういう意味を持つか?光(神の子)が闇(世界)の中で輝き、熱と光を与えて消える(犠牲)ように、キリストの1回限りの生涯を理解する意味なのだそうだ。

岩手県雫石町の我が実家。一晩で60cmの降雪に冬陽が差す(2005年12月24日)

 ミサから帰ってクリスマスイブのお酒とご馳走を頂いた。カトリック教会のミサというものは荘厳であり、感動的である。ユダヤの言葉とかが頻繁に出て来るので日本人からすると外国の話で、やや違和感があるが。たくさん歌ったが、これは健康に良い。高校生の聖歌隊、中学生の弦楽団演奏も見事だった。結婚式、お葬式ともに教会で行われる式は、みんなで祝う、みんなで弔う意味で仏教や神道に無い感動を呼ぶ。

(2005年12月26日)


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