八月になった。毎年この時期になると、新聞、テレビを始めとする日本ジャーナリズムの世界では、突然戦争が語られ、論じられる。8月6日の広島原爆忌、8月9日の長崎原爆忌、8月15日の終戦記念日、そう言えば今年は終戦59周年だ。戦争がいかに悲惨か、平和が大事かが語られて、15日を過ぎると潮が引くようにこの話題は消えて行く。まさに「年中行事」だ。 「お国のため」と戦争で散って行った多くの若者、民間人、その犠牲を思うとき、鎮魂の思いを禁じ得ない。しかしながら従軍した親や親戚の生々しい話を聞き、戦後、敵であったはずの米国の庇護のもと、未曾有の繁栄を謳歌してきた我々団塊の世代は、あの戦争は何だったのかとの思いを抱きつつ、有難い平和の中でぬくぬくと生きてきた。幸せなことである。それでも世界では第2次世界大戦の後も各地で内戦が続き、今もイラク問題があって、心安まるときが無い。
この本は68編の戦争体験の集大成であり、今は名士となった様々な人がそれぞれの立場で戦争の体験を書いている。したがって反戦のための本ではない。事実を伝えて読者に当時の模様を知ってもらいたいというものだが、読めば読むほど恐ろしくて、何故こんな戦争をしたのだろうと否応無しに考えてしまう。スイトンや芋ご飯を戦時下の食物としてTVで紹介しているのを見て、「配給下でそんな結構なものを口にできることなどなかった」という話もあった。戦時下で、産めよ殖やせよの国策のため学校は生徒で溢れ、栄養失調で餓死する子もいたという。 我が亡き伯父は戦後しばらくシベリアに抑留されて帰ってきた。温厚な人だったが、誰一人として戦争の話を聞いたことがないままに長生きの人生を終えた。話したくない経験だったのだろう。亡き父は筆者が小学生の頃、学校から帰ると家の横壁に蛙や蛇をぶら下げて干していた。気持ち悪いと言うと、「何を言うんだ、フィリピンではこういうものを食べないと生きていけなかったんだ。有難い。ねずみやトカゲは大ごちそうだったんだ」と言われた記憶がある。自分が生きているのは何のお蔭かと思うとき、こうやって忘却の歯止めをかけていたのだろう。父は師団の中で数少ない生き残りだった。99%は死んだ。70歳を過ぎるまで蛙や蛇のような食べ物の話し以外はやはり重い口を開かなかった。兵は皆、おおっぴらには言わなかったが、この戦争は勝てないと思っていたそうだ。船を沈められて死んだり、行軍途中マラリアで死んだり、食べられなくて餓死したり、最初は粗末でも墓標代りの木の枝など立てていたが、しまいにはそれすらできなくなった。わずかの仲間の兵士と精も根も尽き果てて洞穴にいたとき米軍に発見された。洞窟への火炎放射で焼き殺されたり、問答無用で撃たれたりした仲間が多い中、殺されなかったのは幸運としか言いようがなかったと言っていた。米兵にもいろいろなタイプの兵士がいたのだろう。捕虜になって最初の食事を与えられたときビックリしたそうだ。缶詰の肉が入った大御馳走で、捕虜の食事でさえこうなのか・・・・、骨と皮だけの体で目だけがギョロギョロしていた日本兵達は、こういうものを食べてる兵隊達と戦っていたのかとため息が出たという。床屋だった父は米兵の頭を刈ってやったら喜ばれて甘いお菓子をもらい、それを捕虜達に分け与えて人気者になったそうだ。収容所生活の間、父の床屋は大繁盛したそうだ。戦争をしていなければこうして仲良くなれたのに。 NHKが「正義の戦争はあるか」という番組を制作したことがあった。その中で一人のアメリカ人女性が「人権」を守るためには戦争も必要だと強く主張していた。「人権」のために戦争をする、戦死する人には「人権」が無いのか?今は退官した元自衛隊の友人が言った。自衛隊は国を守る組織だから、相手から攻撃されれば反撃する。言わばぶん殴られなけりゃ殴り返さないのだから、決して怖い組織ではないのだ、と。 (2004年8月1日) |