権現山探検と鉱物観察



 ふじみ野市社会教育課との共同イベントを行いました。2024年7月31日(水)上福岡歴史民俗資料館(ふじみ野市長宮1丁目2-11…長宮神社と福岡小学校の間)で9時半から、「ローム層中の鉱物の観察」を行いました。まずは上福岡歴史民俗資料館に集まり、この日行われるイベントについて説明がありました。テーマは「権現山の大地を探ろう」で、先生は大東文化大学で学校の先生になる人たちを教育している方でした。まずは権現山フィールドワーク、ふじみ野市の車乗り合いで、下地図の水色ルートで権現山へ、一部の人たちは歩いて、あるいは自転車で行きました。そこで採取した関東ローム層の赤土を持ち帰り、その中に含まれる鉱物を顕微鏡で調べ、レポートにまとめました。ふじみ野こどもエコクラブから参加した子どもたちと親御さんの他、サポーターが5人参加しました。子どもたちは権現山の自然観察と歴史、土の中にいろいろな鉱物が含まれていることを知ったほか、夏休みの自由研究が出来て喜んでいました。12時半に終了しました。


権現山フィールドワーク

上福岡歴史民俗資料館から権現山古墳群史跡の森まで水色のルートで約700m
長宮神社脇を通り、途中信号機は「滝交差点」のみ、ここから登り斜面、権現山は台地上

まず第一にふじみ野市の位置づけについて学びました

権現山というのは、一般的にはとても「山」には見えませんが、平野に住むこの土地の人々は
森のようなところを「ヤマ」と言ったようです・・・下写真は滝交差点から見た権現山、右の崖下が新河岸川
この道路が古墳群の一部を削り取ったみたいですが、当時の人は詳しく知らなかったのでしょう


権現山古墳群の成り立ちについてはふじみ野市のホームページをご覧ください
行田市の埼玉(サキタマ)古墳群より約200年前というのですから貴重な古墳です
史跡の森の木の柵は今年春に再整備されました


まず先生から権現山古墳の成り立ちについてお話がありました


ナラ枯れの樹木が伐採されたため、以前は木陰で涼めましたが、今や陽当りバンバン
向こうに見えるは大日本印刷鰍フ建物です


古墳群と道路を隔てた向かい側は新河岸川緑地公園、切り立った崖上には休憩スペースとトイレ有り
ふじみ野市のホームページ;緑地公園お散歩マップをご覧ください


下写真の木の根元の地層を見ると、上から「黒土」、「赤土」、「礫(レキ)層」になっているのがよく分かります
「れき層」は砂利で、古い昔に山地から川を通して運ばれてきて積もったものです
7万年ぐらい前に一面川原に砂岩やチャート()などのれきが積もって大地が構成されました
2万年前ぐらいの「氷河期」には大陸に氷河や氷床が出来たので海面が今より100mぐらい下がり、
日本は大陸と陸続きでした・・・この頃にはまだマンモスが生息していました
チャートは中生代(約2億5千2百万年前〜6600万年前)…白亜紀やジュラ紀など恐竜の時代に
放散虫などの石英質の殻をもつ生き物の殻が数千mという深い海の底に積もって出来たもの、
堆積岩の一種で硬い鉱物(二酸化ケイ素=石英の粒子)が集まってできているので表面ツルツルです
「赤土」が関東ローム層で、富士山や浅間山の噴火によって出た灰が偏西風に載って運ばれました
例えば富士山の火山灰は東方向に飛び、神奈川では15mから10mほど積もりました
東京区部では5mぐらい、ふじみ野市でも2〜3m積もりました
なんと銚子あたりでも2mぐらい積もったそうですよ
石器時代の人たちは狩りを生業(なりわい)としていましたが、容赦なく灰が降りかかったのです

関東ローム層の土を少しだけ採取して持ち帰りました

やがて1万年ぐらい前には最終氷期が終わり、氷河が溶けると海面が急上昇しました
6千年前ぐらいの縄文時代前期には「縄文海進」が起きました
この当時を代表する貝塚が富士見市の「水子貝塚」です
現在より海面が3mほど高かったので、ふじみ野市の最も標高が低い6m地点は海辺でした
下図の通り荒川も海底で、新河岸川も東京湾からつながる「古入間湾」の海岸でした

権現山近辺にも貝塚がたくさんあって、人々は砂浜で貝をとり、生活していました
大地の上には木や草が生えて、それが腐って黒土が出来て行きました
弥生時代になると農耕が始まりました
権現山の古墳は有力者の墓でしょう
低地では田んぼで稲が作られ、台地の畑では麦や芋が作られました
江戸時代になると徳川家康がこの地を訪れ、権現山の塚の上に座り鷹狩りを楽しみました
権現山と新河岸川をはさんで向かい側にある「蓮光寺」の古文書にその模様が残されています
「権現」は元来神様の名ですが、徳川家康は死後天皇によって「東照大権現」の神号が授けられました
このためこの地が後に「権現山」と命名されることになったのです

休憩スペースとトイレがある緑地公園の高台から新河岸川を見下ろすと急な崖になっています
ここに1994年11月27日、上福岡ライオンズクラブ結成20周年記念事業の一環として
木造階段を作り寄贈したという看板が立っていますが、ご覧の通り立入禁止になっています
その後事故でもあったのか、ふじみ野市によって「立入禁止」になったようです


緩やかなほうの下り坂は右側から大きく左側に巻いて降りて行きます
途中に切り株を抱えるように根を張った樹木があり、生命力を感じます


坂道を下ったところに新河岸川の土手があり、自転車が数台止めてありました
東側方向へ新河岸川はゆるやかに流れ下ります
ずっと先には上福岡総合病院や余熱利用施設エコパがあります


ここから北西方向に新河岸川に沿って、福岡河岸記念館まで緑地公園遊歩道が続きます


遊歩道から新河岸川の川面までの日当たりの良い斜面にはアレチウリが繁茂
新河岸川の川向こうは川越市で、「蓮光寺」があります


鬱蒼とした緑は、ふじみ野市では珍しい風景です


斜面の上は大日本印刷ですが、このシュロの群生はまるで石垣島の光景です


斜面からはちょろちょろ湧水が流れ出て、サワガニが居ました
アッ、かわいい、写真撮らして、とスマホを向ける子ども


斜面の上には戦時中の昭和11年から20年まで、陸軍の施設である「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」が有りました
陸軍造兵廠は、戦時中にあった陸軍の兵器工場で、火工廠では、機関砲弾はじめ多様な弾丸が造られていたそうです
建物総数は最盛期には大小合わせ600棟を超え、学徒動員、女子挺身隊などを含め数千人が働いていたとのこと
陸軍造兵廠・火工廠の詳しい展示は、上福岡歴史民俗資料館で見ることができます
この工場跡地から流れ落ちる水には危険な成分が含まれるため飲用には適しませんが、動物は居ます

さて、元来た道を引き返します この遊歩道はお年寄りの散歩者がたくさんいます
川越市側は陽当りが良過ぎて暑いのですが、ふじみ野市側は緑陰の散歩道

上福岡歴史民俗資料館に戻り赤土を調べます

2階の部屋は冷房が効いて、暑い外から戻ると天国でした
まず赤土を水で何度も何度も洗って泥を流します
残ったものにはなにやらキラキラした粒がありますね

これをシャーレに入れて、その下から磁石をあてがって動かすと、塊が動きます
これは「磁鉄鉱」でした…英名マグネタイトで、鉄の酸化鉱物、黒色で金属光沢があります
他にどんなものがあるか顕微鏡で観察したら、様々な鉱物が見られました
石英や火山ガラスは透明で、カクセン(角閃)石は黒くて細長く、端が尖っています
キ石は輝く石の名の通り緑色に輝き、両端に丸みのある柱状で断面が八角形です
雲母があるかな?と見てみましたがよく分かりませんでした

調べた結果を1枚の紙にまとめ、プレパラートを作って貼りつけました
権現山の歴史を含め、知り得た知識を書いてまとめました
顕微鏡なんてなかなか覗くことが出来ないので、とても勉強になりました
12時半に解散し外に出た途端、熱波が襲って来て、ウワー暑い!


ふじみ野こどもエコクラブ