畑の状況        



2023年2月28日(火)
この日は女4人、男2人で作業しました
代表と会計のお二人は年度末の会計締めのため別所作業



【畑の作業】

2月21日、ニンニクの寒冷紗を取り払い、玉葱(右列)用は残しました


玉葱の寒冷紗も取り払いました


畑南隅の一角にチューリップ、ネモフィラ、フランネルソウを植えています


畑北東隅にT沢さんがピーナッツ(落花生)を植えました


畑東側にラークスパーを移植しました


ムシトリナデシコ;別名コマチソウ(小町草)も移植しました


ちなみにムシトリナデシコとはこんな花です


ムシトリナデシコの花


ムシトリナデシコと並んでフランネルソウ(スイセンノウ)も移植しました

ただ、この一帯は多分ホウセンカやマリーゴールドも芽を出して大変なことになるはず

 ページトップへ【織部塚】

ふじみ野こどもエコクラブの畑のすぐ近く、砂川掘際に「織部塚」があります


ふじみ野市作成の「織部塚」についての説明板が立っています

◆説明板の記載内容・・・この塚は、戦国時代村の開拓に尽くした大井四人衆の一人、新井織部を埋葬し祀ったものと伝えられている。
織部の子孫である新井本治氏の話によると、「昔は塚上に一人では抱えきれないほどの男松があり、地面をはうまでに枝が張ってそれは見事であったようです。ある時、枝の一本が枯れたので祖父が枝おろしに出かけましたが、切り始めると鋸が折れてしまいました。その後、大正初期のこと大雪のため松が倒れてしまったので、仕方なく切り倒して上富の材木屋に売り渡しました。すると松を切った者も、買った者も頓死するという騒ぎになり、それ以後はたたりを恐れてふれる者はいませんでした。」ということである。
現在、塚上には織部の後裔が建立した(推定幕末期頃)といわれる「日神皇」と刻んだ石碑と若木の松があり、村の開拓史を今に伝えている。(平成5年3月 埼玉県ふじみ野市)


「織部塚」についてはいろいろな説がありますが、ハッキリしたことは分かっていません。2018年度第2回ふじみ野市文化財保護審議会で「織部塚」を中世の遺跡として文化財に指定するかどうかが検討されましたが、結論は見送りになりました。大井郷の開発に携わった「大井四人衆」として伝説では新井織部・新井伊賀・塩野大膳・小林出羽の4人だとされ、これは大正8年頃編纂の『大井村郷土史』に記載されているためで、この時点で創作された可能性があるそうです。また、『大井町史通史編』には、『大井村郷土史』を出典にして「織部塚は、新井織部を埋葬している塚」と書かれていますが、『大井村郷土史』には埋葬者のことの記述が無いことから、事の真偽は不明とされています。「織部塚」の上には、「日神皇(かみむすび)」という石碑があり、左の側面には「新井織部後世孫」と彫られていますが、年代も造立者等の詳細も不明です。現在、ふじみ野市には、中世文書が7点残っています。その中世文書には、開発をした人物として、新井帯刀、塩野庄左衛門尉、新井九郎左衛門尉、小林源左衛門尉の4人の名前が書かれてあり、大井四人衆については、この4人が妥当であるとされています。「織部塚」と当時の所有者について、明治5(1872)年と明治9年の文書から確認されていますので、この頃には認識されていたことは確かです。「織部塚」は古い塚であることは間違いないので、守る活動については進めて行くべきとのことです。

なお、近年マニアによって「心霊スポット」とされているのが、「徳性寺」、「織部塚」、「五輪山」で、それぞれすぐ近くにあるので、心霊マニアはセットでお詣りするそうですよ。
◆徳性寺・・・室町時代に開かれた天台宗の寺で「板碑」が有名です。ふじみ野市文化財だより第4号参照


徳性寺本堂が新しいのは昭和48(1973)年建立のためです

 徳性寺は「天龍山 本乗院 徳性寺」と号し、天台宗比叡山延暦寺が本山、阿弥陀三尊が本尊になります。室町時代に秀山律師により開山され、江戸時代に入って第十四世祐円和尚(万治3年=1660年没)によって繁栄し大井宿の中心的存在となっていました。しかしその後、明治14(1881)年1月16日の大井宿の大火により全焼し、本堂などの建造物とともに当時の歴史の記録も失われてしまいました。現在の山門は明治25(1892)年に川越市の南院(廃寺)から移築したもので、川越城の遺構とも言われます。本堂は昭和48年に新築したものになっています。山門をくぐると左手にふじみ野市の指定文化財にもなっている板碑や地蔵菩薩があり、また寺院の中には多くの石造物が見られます。

◆五輪山・・・「織部塚」に近いところに「五輪山」があり、ここは江戸時代に大井宿の本陣を務め、新井帯刀の子孫とされる新井家の墓所とされ、元和9(1623)年銘の五輪塔があることからその名がつけられたとされます。昔は城だったともいわれます。平地なので「五輪山」と言うよりも「徳性寺の五輪塚」と言うほうが地元では馴染みあるそうです。


新井帯刀の子孫とされる新井家の墓所 昔は周囲に掘割有り 過去に整備していた竹林の隣

これも新井家墓地 織部塚とふじみ野こどもエコクラブの畑の間の道沿いです


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