大井ウエスト

2025年度合宿 

♪夏が過ぎ 風あざみ 誰の憧れにさまよう♪ 青空に 残された 私の心は夏もよう♪ で始まる井上陽水の「少年時代」、♪夏祭り 宵かがり 胸の高鳴りに合わせて♪ 八月は 夢花火 私の心は夏もよう♪ で終る。恒例の合宿は毎年8月第一土日、子供たちが将来成長したときにもこの夏の思い出は大事なものとして心に残ることだろう
 2024年度合宿は、2024年8月3、4日の土日、宿泊先は秩父・せせらぎ荘でした


スイカの置き方は絵と上下逆が良い

2024年合宿の模様は  クリック


 2025年度合宿は2025年8月2、3日の土日、宿泊先は小鹿野町・須崎旅館です。
【日程】 台風9号襲来のため当初予定と変わり、川遊びはやめてボウリングとなりました
1日目 西原小学校7時30分集合、準備して8時出発(ボウリングしない組は西原小9時出発) → 9時〜11時ラウンド1入間店でボウリング → 須崎旅館に荷物を預けて徒歩で河原へ → 12時バーベキューとスイカ割り → 15時頃引き揚げ、須崎旅館チェックイン → 17時入浴 → 18時30分夕食(空の水筒持参)、19時15分ごちそうさま → 19時45分レクリエーション(景品あるかも?) → 20時30分フリータイム(会話、、トランプ) → 21時30分消灯
2日目 6時起床、部屋の整理、バットを持って玄関集合 → 素振り → 6時半散歩 → 7時10分朝食、8時ごちそうさま(水筒受け取る) → 部屋に戻って片付け → 8時50分玄関集合、大きな声で須崎旅館の皆様にお礼のあいさつ → 集合写真撮影 → 9時30分長瀞・埼玉県立自然の博物館見学、グループ行動で → 10時40分集合、出発 → 11時昼食;地場産食材TAKARA → 11時45分ごちそうさま → 12時一隅舎にて陶芸体験(希望者) → 14時出発 → 15時30分西原小学校帰着・解散







ふじみ野市から小鹿野町へのルートマップ

@関越道利用A国道254号〜140号B飯能〜名栗〜正丸峠ルートがあります
国道140号をショートカットする皆野寄居有料道路を通ると普通車430円、軽自動車320円
秩父往還国道140号線は埼玉県熊谷市から山梨県増穂町を結び、彩甲斐街道とも呼ばれます

【服装】行き…ウエスト帽子、ウエストTシャツ、水着、靴  帰り…ウエスト帽子、ウエストTシャツ、ズボン、靴

【持ち物】着替え…Tシャツ2枚/ズボン3枚/下着3枚/靴下2足、水着・水鉄砲、川遊び用シューズ、歯ブラシセット、お風呂セット…バスタオル/体を洗うタオル/着替え/下着、フェイスタオル、保険証コピー(部員参加家庭のみ)、受給者証コピー、汚れた服を入れる袋、バット、野球ノート/筆記用具、ハンガー※2本、エチケット袋、BBQコップ、水筒、虫よけ(必要な人)、遊び道具(トランプ、UNO)

【約束事項】
 集団生活の中で思いやりを持とう
 お世話になる人へは全力であいさつしよう
 帰る時は来た時よりもうつくしくをこころがけよう
 かんとくやコーチ、お母さんに言われたことを守ろう
 何か起きたら近くの大人に報告しよう
 自分の事は自分でやろう
 ご飯をたくさん食べよう
 すべての持ち物に名前を入れよう
 自分で荷づくりをして、何がどこにあるかわかるようにしよう

【宿と施設の紹介】

【小鹿野町・須崎旅館】ホームページ
明治40年創業 秩父で百年続くおもてなし、大正時代の懐かしさを感じられる宿です
【公式】須崎旅館|秩父・小鹿野町の宿泊/貸切露天風呂がある温泉宿

住所 〒368-0105 埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野1815 TEL:0494-75-0024

名物女将・須崎真紀子さん(四代目)

旅人の疲れを癒すpH値の高い大竜寺源泉、泉温は低いので加温してますが
メタケイ酸、メタホウ酸数値で「温泉」定義を満たす低張性弱アルカリ泉です
夕食は秩父の山間部で育った地元の名産、牛・豚・鹿の
地場産お肉料理を主に、小鹿野の野菜が彩りを添えます

外観

旅館にしては大きいなという印象です


奥に長い構造となっています

玄関



大きな「金のなる木」があります


駐車場には「マツバギク」が咲いていました(6月)


須崎旅館の向かいは埼玉りそな銀行と消防団です

【小鹿野町の紹介】

 小鹿野町はHP管理人が頻繁に通う町です。そのワケは埼玉なのに自然豊かで、しかも街並みに独特の風情があるのです。「歩いて愉しむまち」というキャッチなのですが、歩いている人をあまり見かけません 「宮澤賢治でまちおこし」と聞きました。小鹿野町役場庁舎前の賢治の歌碑のところに、小鹿野町観光交流館「本陣」のところにも歌碑があると書いてあったので、地図の方向へ徒歩で向かいました。立派な建物があり「文化センター」と書いてあるのですが歌碑らしきものは見当たりません。ここはどうやら「小鹿野歌舞伎」のメッカみたいでした。中で「宮澤賢治の歌碑はどこにあるんですか?」と聞いてみましたが、「チョット...分かりません」ということでほかにたくさん居る職員に聞いてくれましたが、結局「今詳しいヒトが席を外しているので、戻ったら聞いてみます」とのこと、「ジャッ、イイですゥ〜〜」と言ってここを後にしました。町の文化センターの職員が誰も賢治の歌碑の在所を知らない...宮澤賢治で町おこしというわけではないのか?と首をひねりました。「詳しい人」というのは、どうやら教育委員会の人のようです。少なくとも「まちおこし」をうたうのであれば、誰でも資料を示して、「ここですよ」と言えなければなぁと思ったものでした。「小鹿野文化センター」は町立小鹿野中学校に隣接しています。小鹿野町を東南東から西北西に貫くのは国道299号ですが、並行して市街地を走る昔からの道;県道209号線に、小鹿野警察署、小鹿野郵便局、小鹿野町役場小鹿野庁舎があって、その隣が小鹿野町観光案内所、その向かいがJAちちぶ小鹿野農産物直売所、良く行くところです。更に進むと「越後屋旅館」、「小鹿野町観光交流館」、「常盤屋(加藤家住宅)」、「須崎旅館」があって、更に進むと「小鹿野高校南」という五差路があります。更に進めば小鹿野町運動公園です。
 小鹿野町の町制施行は埼玉県内では川越に次いで古く、中心部の小鹿野地区は県内でもいち早く教育・交通・産業の振興など各分野で近代化が進められ、西秩父地域の中心地として発展してきました。ただ、公共交通機関などの交通網が発達しなかったことで、開発が進まなかったために「秘境」要素が残り、おかげさまで小鹿野には豊かな自然が残りました。日本百名山の両神山、日本の滝百選の丸神の滝、平成の名水百選の毘沙門水、日本の地質百選のヨウバケなどに代表される自然がたくさん残っています。近年、両神山麓花の郷では日本有数の規模を誇るダリア園、尾ノ内渓谷では氷柱といった新しい観光スポットが出現しています。2011年9月には、小鹿野町を含む秩父地域がジオパーク秩父として認定されました。これは日本全体で50地域しかありません。また、小鹿野といえば「歌舞伎のまち」として知られています。役者から裏方まですべて住民が行うのも全国でも珍しく、地芝居として小鹿野歌舞伎は高い評価を受けております。小鹿野町のキャッチコピーは「花と歌舞伎と名水のまち おがの」です。


丸神の滝


関八州見晴台から見た両神山(手前に小鹿野町の観光名所:二子山)


ようばけ


小鹿野町は老人クラブ発祥の地だそうです
日本で最初の老人クラブは1946年に千葉県八日市場町(当時)で発足しました
埼玉県で最初の老人クラブの発祥の地は小鹿野町だそうです
1952年に「長若としより倶楽部」が結成されました
この発祥碑は老人クラブ20周年を記念して、1972年「総合センター」前に建立されました


小鹿野町営国民宿舎両神荘の外観 建物はもう大分築年数が経過


両神荘から見たクライミングパーク神怡館の外観 左奥の建物は鳳鳴館…カフェ&ギャラリー兼山岳観光情報センター

【長瀞町、小鹿野町と宮澤賢治】

 今から109年前、大正5(1916)年9月1日から8日間、盛岡高等農林学校農学科と林学科の2年生23名が、関豊太郎教授と神野幾馬助教授に引率され、秩父地方へ地質巡検を行いました。盛岡高等農林学校ではこの頃毎年、秩父地方への地質巡検をしており、いかにこの地が地質学にとって貴重な場所であるかがうかがい知れます。管理人の先輩である宮澤賢治は、夏休みの折に、ドイツ語の講習会受講のため7月末から東京に来ていました。賢治は花巻の裕福な家の生まれで、あの有名な彫刻家・画家で文人の高村光太郎が賢治の家を頼って疎開したほどです。同じく筆者の先輩である石川啄木が渋民村(現盛岡市玉山)で育ち、生涯を貧困の中で過ごし、東京都文京区で26歳で没したのとは対照的です。啄木死去時、賢治は盛岡中学(現盛岡第一高等学校)在学中で、先輩である啄木の影響を受け短歌を作ったりしていました。賢治は生涯で何度も東京を訪れており、それは家に財力があったためですが、それとともに父・政次郎の理解と弟・清六の支援があったことはつとに知られております。盛岡高等農林一行は9月1日19時盛岡発の夜行列車で上京し、翌2日12時53分上野着(乗車18時間!)、賢治は盛岡高等農林一行と合流して13時20分上野発の列車で熊谷に向かい、15時20分熊谷着、同地の「松坂屋」に泊まりましたが、熊谷直実とゆかりのある熊谷(ゆうこく)寺を訪れるなど、熊谷の町を散策したようです。熊谷市の八木橋百貨店に賢治の歌碑があります。
  「熊谷の蓮生坊がたてし碑の旅はるばると泪あふれぬ
  「武蔵の國熊谷宿に蠍座の淡々ひかりぬ九月の二日
 盛岡高等農林一行は9月3日早朝に熊谷駅から秩父鉄道に乗り込み、寄居〜末野〜国神(現上長瀞)へと移動しますが、途中下車して岩石を採集しながら荒川を上っていき、途中で再び鉄道に乗り、国神(現上長瀞)で下車したようです。この間、寄居の玉淀大橋のチョット上流、鉢形城址がある立ヶ瀬断層、さらに上って象ヶ鼻などクネクネ曲がる荒川河岸で岩石採取したようです。長瀞の岩畳ポットホール虎岩の結晶片岩を見学し、さらに親鼻橋付近の世界的に有名な紅簾片岩などを見学しました。
 この日は国神村(現皆野町)金崎の「梅乃屋旅館」に宿泊したようです。その際、一学年下(生年は同じ)の親友・保阪嘉内(山梨県駒井村、現韮崎市に実家あり)に宛てた葉書中に9首の短歌を記したうち、岩石名を詠み込んだ一首「つくづくと「粋なもやうの博多帯」荒川ぎしの片岩のいろ」がよく知られています。これは、長瀞で「虎岩」と俗称される黒雲母片岩(現在では「スティルプノメレン片岩」)の岩肌が場所によって帯赤褐色の黒雲母(現在ではスティルプノメレン)と、その片理に直交する白色の石英や方解石が層状・脈状をなす様を博多帯の模様になぞらえたものです。
 長瀞にある埼玉県立自然の博物館は、ジオパーク秩父日本地質学発祥の地と言われる所以が展示でよく分かります。見どころいっぱいです。関東地方で地面が地中に引き込まれる場所が2ヶ所あることが展示で分かりました。東京湾のど真ん中と、茨城県古河市近辺、渡良瀬遊水池や三県境のあるあたり、関東南部が「すり鉢プリン」と言われる揺れ易い地域である理由が分かりました。


長瀞の埼玉県立自然の博物館前にある賢治歌碑
つくづくと「粋なもやうの博多帯」荒川ぎしの片岩のいろ


長瀞の日本地質学発祥の地の碑


長瀞の岩畳・・・国指定天然記念物


虎岩(結晶片岩)


 9月4日には盛岡高等農林一行は国神から3台の馬車に分乗して小鹿野へ移動し、途中小鹿野町長留の赤平川右岸、鋭い刃物で切り取られたように高さ約100メートル、幅約400メートルに及ぶ白い岩肌がのぞく地層の大露頭「ようばけ」(国の天然記念物に指定されており、夕闇迫る谷あいで夕日に輝く崖にちなんで命名されたといわれます。新第三系の秩父町層の露頭で鯨や蟹などの多くの海生動物化石が産出されています)や「皆本沢」などを見学しました。ここで賢治は短歌を詠み、ようばけを見渡せる場所に建てられたおがの化石館には、2つの歌碑が寄り添うように並んでいます。小鹿野町のおがの化石館は、かつて海だった秩父盆地の化石の展示施設です。周辺で出土した絶滅哺乳類「パレオパラドキシア」の化石をはじめ、三葉虫やアンモナイトの化石など、小鹿野町と世界各地の動植物の化石が展示されています。化石館の裏手に地層が露出した崖「ようばけ」があります。


ようばけ(国指定天然記念物)をバックに宮澤賢治と保阪嘉内の歌碑
宮澤賢治 「さはやかに半月かゝる薄明の秩父の峡のかへり道かな
  保阪嘉内 「この山は小鹿野の町も見へずして太古の層に白百合の咲く
皆本沢近くの小鹿野町三山の小鷹神社境内にも賢治の歌碑が建立されています。
 「霧晴れぬ分れて乗れる三台のガタ馬車は行く山岨のみち


 9月4日夜、盛岡高等農林一行は小鹿野の「寿旅館」に宿泊したことが当時の館主・田保の日記から確認されたのですが、それはついこの前、2011年のことです。寿旅館は江戸時代から続く老舗でしたが、2008年に閉館。その後、歴史ある町並みの保存を進めていた小鹿野町が建物を購入し、改修工事を実施しました。思いがけない掘り出し物になったのは、館主が残していた38冊の日記帳でした。教育委員会が調べたら、大正5年9月4日のページに「盛岡高等農林学校生徒職員一行二十五人宿泊ス、午前中来館三田川村三山源沢ニ向ハレ夜帰宿セラル。原町箱屋辺迄ムカヒニ出リ」「本日午後盛岡高等農林学校御定宿の看板を掲げる…」と書いてあったのです。さらに9月5日のページには「盛岡高等農林学校関先生、神野先生、生徒23人を送る。パン代2円を入れ置く。馬車へよろしく頼み遣わす。生徒一行の石をも送る」と記録されています(注:賢治がこの時採集したと思われる結晶片岩のうち絹雲母片岩・滑石片岩・緑泥片岩・石墨片岩が岩手大学の農業教育資料館に所蔵公開されています)。田保館主の日記によれば、9月6日は「大宮」(秩父町)の「魚惣角屋旅館」に泊まる予定なので、小鹿野町の「馬車屋要吉」に指示して、一行の岩石標本を一足先に「角屋旅館」に運ばせておき、また、一行が三峯から空腹で到着することを予想して、「角屋旅館」がパンを買って用意しておくようにと、パン代2円を預けたというのです。なんと親切な人でしょうか。感動しますね。
 小鹿野町の中心部には、宮澤賢治が盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)2年生時に秩父地質見学に参加宿泊した、旧本陣・寿旅館があり、今は「観光交流館」になっています。小鹿野町では宮澤賢治が訪れた地であることを観光の目玉にしようと、ようばけ前と小鹿野庁舎前、観光交流館に歌碑を建立しています。
 熊谷市から寄居町、長瀞町、小鹿野町には賢治の歌碑が合計8箇所建立されています。宮澤賢治の秩父地質巡検をいかにこの地域の人々が誇りに思っているかの顕れと言えるでしょう。


小鹿野町庁舎前にある賢治歌碑
山峡の町の土蔵のうすうすと夕もやに暮れわれらもだせり


 賢治が親友・保阪嘉内に宛てた葉書中の9首の短歌のひとつです。「もだせり」というのは黙(もだ)す、すなわち「黙った」ということです。山峡(やまあい)の町が果たして小鹿野町なのかは不明です。寄居町から末野、波久礼、野上、長瀞、皆野町金崎「梅乃屋旅館」と移動した間のどこかかもしれないし、翌日の小鹿野の「寿旅館」までの間かもしれません。小鹿野町には賢治の会もあります。小鹿野町観光交流館「本陣」の辺りの通りはなかなか風情があって、ブラブラ散策したら楽しそうです。入場無料、中に入りました。ザクロの木もあり、「雨ニモマケズ」の歌碑もありました。となりに無料駐車場もあります。観光交流館の「宮沢賢治宿泊の宿」というページを見ると、小鹿野町は賢治が訪れて歌を残したことを誇りに感じているようです。歌は残したけれど、石は持ち帰ったみたいですね。


本陣寿旅館→今は小鹿野町観光交流館


奥には賢治の「雨ニモマケズ」の歌碑があります

 9月5日盛岡高等農林一行は白川村(現秩父市)の贄川(にえがわ)を経由して、三峯神社の登山口のある大滝村(現秩父市)の大輪(おおわ)へ進み、そこから三峯神社へ登ったようです。賢治は「峡流の白き橋かもふるさとをおもふにあらず涙あふれぬ」という歌を詠んでいます。その夜は三峯神社の参籠所(さんろうじょ=宿坊)に泊まり、賢治は「星月夜なほいなづまはひらめきぬ三みねやまになけるこほろぎ」と詠んでいて、山上では美しい夜空が広がる一方、小鹿野の町は激しい雷雨に見舞われていたようです。
 9月6日は三峯神社を出発して徒歩で下山し、秩父町(現秩父市)の市街に向かい、途中の影森村(同)にある橋立鍾乳洞(札所のひとつです)を見学して秩父大宮(現秩父市)の「角屋旅館」で宿泊したと推定されます。秩父町は、現在の秩父市中心部ですが、もとは“秩父郡大宮町”という地名でした。町の中央にある秩父神社の門前町・宿場町として発達したことで「大宮町」だったのですが、同じ埼玉県で、東北本線の大宮(氷川神社の門前町)が有名になると、こちらも“大宮”なので紛らわしくなり、1915年に秩父鉄道がこの町まで延伸したさい、駅名を“秩父駅”としたことから、町名のほうも、この1916年1月1日付で「秩父町」に改称しました。賢治が来た時にはすでに「秩父町」なのですが、長年の呼びならわしから、当時はまだ「大宮町」と呼ぶことが多かったようです。なお「角屋旅館」は現在の秩父市中町3の中町通りと東町通りの交差点の角にあったらしく、ご子孫はいま古美術「アトリエ古都」を営んでおられ、お名前も賢治さん、お父さんが宮澤賢治が宿泊したことにちなんで名付けられたようです。
 9月7日に荒川対岸の甌穴(おうけつ)を見て、長瀞町の秩父鉄道本野上の駅(現・野上駅)から汽車に乗って熊谷〜上野〜盛岡への帰途に着いたようです。賢治は「盆地にも 今日は別れの 本野上 駅にひかれる たうきびの穂よ」という短歌を残しています。この歌碑は秩父鉄道野上駅に建てられています。一行が夜行列車で盛岡に着いたのは9月8日でしょうか。当時の旅は大変だったのですね。


【宮澤賢治とその家族】

 賢治没後90年にあたる2023年公開の映画「銀河鉄道の父」は、小説家・門井慶喜が「ダメ息子だった」宮澤賢治の父である政次郎を主人公に究極の家族愛をつづった直木賞受賞作「銀河鉄道の父」を、成島出監督のメガホンで映画化した作品です。役所広司が政次郎役で主演を務め、長男・賢治を菅田将暉、賢治の妹・トシを森七菜、母・イチを坂井真紀、祖父・喜助を田中泯、弟・清六を豊田裕大がそれぞれ演じました。この映画のキャッチは「きっと家族に、会いたくなる」・・・・


 岩手県花巻で質屋を営む宮澤政次郎の長男・賢治は家業を継ぐ立場でありながら、自分はそれに向いていないと思っていました。中学卒業後は高等農林学校への進学や人工宝石の製造、宗教への傾倒と我が道を突き進む賢治に対し、政次郎は厳格な父親であろうと努めるもつい甘やかしてしまいます。この時代、それほどまでに「長男」というものは大事な存在でした。「次男」以降はやがて家を出て、婿に行くか、職が無ければ手っ取り早いのは軍隊に進む事でした。妹・トシは頭脳明晰なだけではなく、自分の意思をはっきりと口に出して言える才女で、賢治は自分と男女が逆だったらと思うほどでした。しかしトシにとってはこの兄は面白いお話を作ってくれる天才的な人でした。トシの病気をきっかけに、その願いに応えて筆を執る賢治でしたが、「風の又三郎」と題した自作の童話をトシに読み聞かせるも、この当時の結核にはなかなか有効な薬も無く「永訣の朝」を迎えてしまいました。打ちひしがれる賢治に、政次郎は物語を書き続けるよう促します。
 宗教も一つのポイントです。宮澤家は代々浄土真宗を信仰していました。浄土真宗の宗派はものすごく分かれていて、浄土真宗本願寺派という西本願寺と、真宗大谷派という東本願寺の他、8派で真宗十派(真宗教団連合)を構成していますが、更に分派した宗派がいっぱいあり、「浄土真宗親鸞会」は、他の浄土真宗の宗派からは異端と目されているようです。賢治は、幼いころから熱心な門徒(浄土真宗)であった父の下で南無阿弥陀仏と念仏を称えるわけですが、あるとき妙法蓮華経(法華経)に触れ、深い感銘を受けました。その後、一時はキリスト教会に出入りしたりもしましたが、最終的には父親の反対をよそに、法華経をより重視する日蓮宗系の、それも田中智学の国柱会という、当時の日本の対外侵略政策を思想的に支えた国粋主義的な宗教の熱心な信者となったのです。しかし、彼の作品から読み取れる宗教観は、全く国粋主義的ではありません。彼の『農民芸術概論綱要』に、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という有名なフレーズがあります。今や国立大学法人岩手大学のキャッチに採用されているフレーズですが、これが、「世界ぜんたいが幸福にならなければ」となっていたら、全体主義そのもので個人は否定されてしまうわけですが、賢治にとって個人は、全体(彼にとっては皇国日本ではなく4次元銀河宇宙)を構成する細胞に過ぎないという意識が濃厚でした。これは、『銀河鉄道の夜』を読んでも感じられることで、キリスト教の自己犠牲にも似ていますが、仏教的な輪廻転生の世界も感じさせるのです。宮澤賢治の世界では戦争なんて有り得ません。


岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センターが出版した冊子

 やがて賢治も結核に侵されます。賢治を介抱する父、母、弟、妹、その家族愛はスゴイ!みんな「ダメ息子だ」と自虐する賢治をこよなく愛していました。賢治はお父さんに褒められる息子になりたいと念願していました。しかしいよいよ力尽きようとしたとき父・政次郎は大きな声で、賢治の手帳に書きなぐってあった詩を読むのです。
  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラッテヰル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒドリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ
 賢治の一番のファンだったのは父・政次郎であり、弟・清六でした。彼らは賢治の死後、その文学を知ってもらおうと必死になってPR活動に励みました。賢治より8歳年下の弟・清六も盛岡中学出身ですが、この人が97歳で2001年6月12日亡くなるまで終生賢治の遺稿の保存整理に尽力し、あらゆる版の全集の編纂校訂に携わったことで、やがて宮澤賢治はその名を知られるどころか、年を追って人気が高まる人となりました。褒められもせず、苦にもされないどころか、日本文学界の巨星となりました。清六は、83歳と長生きした父宮澤政次郎と共に、故郷花巻で宮澤商会を開業し、金物・建材・電導材・自動車部品を扱う仕事を始めました。これにより賢治の幼少時より課題となっていた「質・古着商からの家業の転換」がようやく実現したのです。賢治が農学校を退職して独居自炊の生活を始めることができたのは、清六によるこの転業のお蔭でもあり、賢治が病臥してからはその看病にも当たるなど、献身的に兄を支えました。なお宮澤トシの妹シゲは岩田家に嫁ぎ男子を産みましたが、賢治にとって初めての甥っ子を賢治は可愛がり、八戸旅行にも連れて行っています。この男の子はやがて岩手大学の電気工学の教授となり、伯父さんさながらに温厚な先生として慕われました。1945年4月の東京大空襲で駒込のアトリエを消失し、翌月宮澤清六を頼って花巻に疎開した高村光太郎でしたが、宮沢家も8月の花巻空襲で焼け、10月に高村光太郎は近くに粗末な小屋を建てて独居自炊生活を7年間送りました。近隣の村人たちが、東京から来たこのお偉い先生のために建築用の丸太を持ち寄り、食べ物なども持ってきてくれて、高村光太郎は、この地の人たちはなんて親切なんだろうと回想しています。この甥っ子は宮沢家から高村光太郎への届け物のお使いをしたという逸話が残っています。
 映画「銀河鉄道の父」のエンディングは「銀河鉄道の夜」を連想させるSLの疾走・・・煙を吐きながら橋の上を走る勇壮な姿でした。


「めがね橋」を走る「SL銀河」

【小鹿野町のラーメン】

 小鹿野町は公共交通機関などの交通網が発達しなかったことで、開発が進まなかったために「秘境」要素が残ったと上で書きましたが、実はラーメンに関しても昔懐かしのラーメンが残っているのです。それは「札幌ラーメンどさん子」と「札幌ラーメンどさん娘」です。「どさん子ラーメン」という看板を見て衝動的に立ち寄った小鹿野町のどさん子、「札幌ラーメンどさん子」は1961年創業ですからナント!60年以上経つんですね。昔は良く見た看板、あの味噌ラーメン、懐かしい!混んでる中、「あ〜、この味だ」と美味しく頂いたのは2021年3月のことでした。どさん子を出て、再び車で走っていたら今度は、「どさん娘ラーメン」という看板がありました。こちらもチェーンですが、当初「どさんこ」と発音していたものの、明らかに模倣ということで裁判で敗れ、「どさんむすめ」と読み方を変更したそうです。しかし看板の「札幌ラーメン どさん娘」を見ると、どっちが本家なのか分からなくなります。今や中華人民共和国のお家芸の「真似」の元祖はニッポンかもしれません。小鹿野町の、しかも近所に、2軒の「どさんこ」があるなんて、消え行くラーメンチェーンを懐かしむラーメンオタクの聖地かも?昔の恐竜の化石が出る町、味噌ラーメンもしぶとく生き残っているのです。ちなみに一時は全国に味噌ラーメンを広げた大チェーン「どさん子ラーメン」は、今や全国で300店舗ほどに減り、埼玉県では小鹿野町下小鹿野と、お隣の秩父市別所にしか残っていないそうです。

 国道299号バイパスに面した札幌ラーメンどさん子小鹿野店(小鹿野町下小鹿野1591-1)は三叉路の角にあり、月曜定休です。店内は結構広く、昼時は混んでいます。メニューはラーメン以外にいろいろあって、時代と共に進化してきたんだろうと感じます。地元民のほか、観光客やドライバーも結構お客さんの中に居るみたいです。



札幌ラーメンどさん子小鹿野店


2022年新装開店「どさん子リブランド進化版別所店」

 2022年7月「どさん子リブランド進化版別所店」を訪問しました。この店は左手に別所運動公園野球場があり、その先に荒川が流れます。昔からありましたが、新しくしたみたいで店内にはお祝いのランの花鉢がズラリと並んでいました。13時35分に待ちリストに記入、4組後ですからすぐだろうと思ったら、結局食べ終えたのが14時43分でした。ラーメン屋に1時間8分も居たのはなかなか珍しい、70席以上ある店ですヨ 調理のオジサン2名、ウェイトレスの若い女性3名、ウェイトレス? その名が泣きますね。お客様単価はいずれも千円以上でした。


元祖どさん子味噌ラーメン


 昔から変わらない『豚ひき肉』と『もやし』を炒め、北海道・岩田醸造製の赤味噌「紅一点」をベースにしたコクのあるスープ、モチモチの太麺を合わせた『どさん子』元祖味噌ラーメン¥730(当時)を頂きました。どさん子味噌 赤練(あかねり)、金練(きんねり)と、元祖どさん子味噌ラーメンの3種がありました。トッピングは炙りチャーシューやメンマなど、餃子は¥400、ライスは¥150、隣の客の注文にビックリ、赤練+餃子2+ライス、しめて¥1,780...男一人、孤独のグルメ、この人は井之頭五郎か、と思いました



「札幌ラーメン どさん娘」=どさん娘ラーメンハウスは小鹿野町下小鹿野2326-1

 国道299号バイパスに面したいかにも「昭和は遠くなりにけり」という風情のお店、屋根の上にある時計台は札幌のつもりでしょうが、動いてないし...日本三大ガッカリと言えば「札幌時計台」、「高知はりまや橋」、「長崎オランダ坂」と言われます。看板はくたびれ、営業しているのか、判然としません。ちなみに10年前でもそうでした。何も変わっていない雰囲気で、駐車場は広く、クルマが1台停まってるし、灯りが灯っているから、営業中だろうと思い定め、店内に入ると、雑誌が散らかり、雑然としてます。お客さんかと思ったおじいちゃんはあっち向いて新聞を読んでて、腰の曲がったおばあちゃんがランチメニューを持ってきましたが、わら半紙みたいなのに書いてあります。ムム、安い!ラーメン(味噌、塩、醤油)にライス、お新香が付いて¥550、もつ煮付きのメニューもあります。注文したら新聞読んでたおじいちゃんがにわかに立ち上がり厨房に入ります。アラ、ご主人なの?こっち向いたらイケメンマスターじゃありませんか。おばあちゃんは昔はさぞびじんだっただろうという面影が残ります。お冷を持ってきてくれましたが、これがワンカップ、分厚いガラスなので放り投げても割れないだろうというヤツ、ああ、お水まで昭和だ、味噌ラーメンの味、懐かしい、サッポロだ、もやしもコーンもたっぷり入ってる、美味しい!調理をするお兄さんは愛想のアの字もありません。いまどき高いお米も付いて、白菜のお新香はこれだけでご飯が食える塩味、ご馳走様でした。新しいお客さんが入ってきました。馴れた調子で注文します。清算はイケメンおじいちゃんです。店を出て車に乗ろうとするとまたお客さんが来ました。この店のお客様は歩いてくる、すなわち地元の人なのでしょう。そうか、いまどきこうしたお店が生き残っている陰には地元民の支えがあるんだなと感じた次第、昭和にタイムスリップしたい方にはお勧めのお店です。


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