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ウエストはめげずにランバー杯で接戦2連勝、あと1試合を残して5勝2敗、勝ち数ではTopに並んだ。今年も大詰め、頑張ろう(2006年9月24日)
準決勝は北海道、関東、関西、九州と見事に北から南を4分割、高校野球も選手が有名私立高校(特に大学の付属高校や宗教系)に全国から集まるためレベルの均一化が進んだ。かつては公立の工業高校や商業高校も甲子園に出られたが、今はそれも難しい。甲子園に出られる確率の高い地方の有名実力校に遠くから選手が集まって集団寮生活を送り、選手の団結と連帯も高まるという結果になっている。その意味では沖縄八重山商工は監督・選手ともに少年野球から一緒にやってきた仲間たち、3回戦で智弁和歌山(和歌山)に敗れはしたが甲子園に爽やかな旋風を巻き起こして去っていった。日本最南端の初出場校、部員31人の県立高校である。また、かつての川上哲治巨人監督や西武の伊東現監督の母校熊本工も勝ち進みBEST8目前に3点リードしながら敗れた。林幸義監督の言葉 「野球は四球と失策が出たら負け」 納得だ。 それにしても帝京(東東京・板橋)と智弁和歌山の準々決勝はすごかった。4-8で迎えた9回表帝京が8点とって大逆転12-8、これ自体信じられないのに、その裏智弁和歌山がこれを逆転して最後はサヨナラ押し出し12-13、9回表裏の両校監督の表情を見ていて「う〜む」と思った。選手を信じているのである。しかし内心ではお互いに「負けた」と思いながら采配していたことだろう。野球は最後の最後まで諦めてはいけない、それはとことん練習してきたチームワーク無くして言えないのだが・・・。この試合では智弁和歌山が1試合チーム本塁打5本の大会新記録を樹立した。帝京も2本の本塁打を放ち、両チーム合わせて7本の本塁打が飛び出した。 智弁和歌山と言えば思い出す。2000年の第82回大会、青森光星学院の応援に甲子園に行った。松本会長始め高田さん、今福さん・・・、鶴ヶ岡少年野球クラブの関係者が多かったがそれもそのはず、光星学院のエースは鶴ヶ岡少年野球クラブ出身の斉藤広大、準々決勝を応援して帰るつもりが勝ってしまった。1泊して準決勝の応援だ。相手は智弁和歌山、これがすごかった。6試合で100本の安打、チーム打率4割1分3厘は、“驚打”という文字が新聞に躍るすさまじい打撃、今でも甲子園の記録である。それでも光星学院は5-7で敗れはしたが、互角にわたり合って応援しがいがあるチームであった。決勝で東海大浦安(千葉)を11-7で破り智弁和歌山が優勝した。ちなみにこの年の埼玉代表は浦和学院、2回戦で柳川(福岡)に1-7で敗れた。 駒大苫小牧(南北海道)は選手権大会3連覇がかかっていた。北海道のチームというのは数年前まで出ると負けだった。それをこんな強いチームにした香田誉士史監督と言うのは素晴らしい指導者である。雪で土のグラウンドで練習できる期間が少ないというハンデを乗り越えて強豪チームに育てたのはやはり監督の手腕であろう。佐賀県出身の九州男児で佐賀商業高時代に甲子園へ出場し、駒沢大進学後には大学日本一を経験。母校佐賀商のコーチを務めた1994年夏には甲子園優勝にかかわった。その翌年、駒大の恩師・太田誠監督から打診を受け、駒大苫小牧の監督に就任した。 さて早実(西東京・国分寺)に期待したのにはワケがある。このHPの管理人澤藤の息子は大井西中から早稲田実業に進んだ。したがって神宮球場に応援に行ったことがあり、早実の応援には親しみがある。熱闘甲子園の決勝戦は延長15回で決着つかず再試合の末早稲田実業学校が優勝した。終始早稲田がリードしてエース斎藤祐樹のピッチングが冴えたが、9回表駒大苫小牧中沢が意地の2ランホームラン、無死で1点差、簡単には行かせないぞという気迫、さすが2年連続優勝校だけのことはあった。最後は打者田中が空振り三振でゲームセット、球史に残る大熱戦に日本全国が沸き上がった。斎藤投手はハンカチ王子というニックネームを与えられ、ハンカチ会社の株が上がるというオマケが付いた。例年1週間甲子園スタンド張り付きの義兄がペナントを土産にくれた。早稲田実業学校の応援は早稲田大学と同じだが、この応援が気に入ったと言っていた。特に攻撃のチャンスになったときの応援はスタンドとベンチが一体となった素晴らしい応援で、智弁和歌山、PL学園、天理とは一味違う伝統校の味がある。 息詰まる投手戦の決勝戦は見応えがあった。早実・斉藤と駒大苫小牧・田中の両エースが譲らず再試合となったが、これまた熱戦、いざと言うときの斉藤の気迫! 体力で勝る田中に気力で立ち向かう姿は往年の牛島投手(現横浜ベイスターズ監督)を思い出し、まさに弁慶と牛若丸のような有様であった。早実は1957年の第29回春の選抜大会で優勝しているが、夏の選手権大会は初優勝である。思い出すのは1969年第51回夏の選手権大会、青森・三沢高校対愛媛・松山商業の決勝戦、延長18回引き分け再試合、4-2で松山商が優勝したが、このときの三沢高のエース太田はロシア系だけに色白の美男子で、スター性抜群だったがひと言口を開くと青森弁、このアンバランスがなんともおかしかった。このときは学生だったので夏休み、決勝の2戦ともテレビにかじりつきで三沢高を応援した。このとき以来の球史に残る熱戦だった。 甲子園の投手記録では第40回大会(1958年)の徳島商のエース板東英二が6試合62回で奪三振83、これは不滅の記録と言われている。準々決勝の魚津高戦で延長18回0-0で引き分け再試合、25奪三振、板東英二はその後プロ(中日ドラゴンズ)でも活躍し、同期入団には王貞治、張本勲、村山実、江藤愼一などがいる。現在はタレントとして活躍中である。そして、なんと、これに次ぐ記録が今大会の斎藤佑樹で、7試合(69回)で78奪三振であった。 ★☆★ 準決勝、決勝の結果 ☆★☆
ペナントを頂きました(^_^)
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